66話 希望の火種
オーリウスの足が二度と治らないというのは、本当なのか――。
ついに井戸の開通式直前だというのに、どうしても考えてしまう。
人間と魔族の“水路問題”が思わぬ方法で開けたように、彼にも第三の道があるのではないか、と。
「なによアンタ、こんな時に暗い顔して」
「……え?」
いつの間にか、スーツの男に擬態したヘリオスが隣にいた。
「やっとのことで井戸が完成するのに、ミュウルらしくないね」
さらに横へ並んだのは、少年の姿をしたヴィーナスだ。
「……そういえばさ」
岩盤を砕いた、あの日。
ヘリオスはヴィーナスの力を使って、“ヘリオスが翼を持つ魔族だった”という記憶を、バシールから消し去ったのだ。
でも――。
「アシャの記憶はそのままにした……どうして?」
「そっか、ミュウルには分かんないよねぇ」
ヴィーナスは、顔を背けるヘリオスを見てニヤついている。
「じいちゃんはギザールだけじゃなくて、彼女にも心動かされたんだよ」
「……記憶を消さなくても、今までと何も変わらないでしょ」
アシャは、これまでも魔族の存在を黙っていたのだから。
そう言って、ヘリオスは長い銀髪をひるがえした。
「それって、アシャを信じるってこと?」
「……はぁ。アンタ、いちいち言わないと分かんないの?」
やっぱり素直ではない。
それでも、彼がなりふり構わず変身した時点で、もう分かっていた。
バシールたちを、彼は少なからず信頼しているのだと。
「おーい、ミュウルさんたちも早く! 開通しちゃうっすよ!」
井戸を囲む村人に混じる、ギザールの声に顔を上げると。
「あ……」
初めて汲み上げられた井戸に、バシールたちが手を合わせていた。
そして、出会った時と同じく――黒い水に濡れた手で、彼女たちは額を叩いている。
「やったね、ヘリオス」
「はぁ? 別にアタシは……」
つんと澄ましたヘリオスが、黒い水を浴びる村の人たちを眺めていると。
「ミュウル、ヘリオス!」
「なっ……」
すでに酔っ払ったバシールが、私たちの間に突進してきた。
「川の水で作った、黒い麦酒で乾杯しよう……だって。行こっか」
「うん……!」
ヴィーナスに手を引かれ、黒いご馳走を囲む工事の功労者たちの中へ入っていった。
まさか魔族2体が混ざっているなんて、誰も思わないだろうけれど――。
種族なんて関係なく喜びを分かち合う光景が、今はとても眩しかった。
「ミュウル様! この殿方、下戸すぎですわ」
ジェニファが支えて連れてきたのは、すっかり潰れたギザールだった。
後ろには、ジェニファがひとりで空けたという酒樽が転がっている。
「かわいそうに……」
まさか、ジェニファがここまでの酒豪だったとは――。
「あらまぁ、情けない男ね」
私の側に転がされたギザールを、ヘリオスが哀れみの目で見下ろしていた。
「ほら、しっかりなさい」
「じいちゃん、ギザール死んじゃうよ!」
ギザールの頬を叩くヘリオスと、それを止めようとするヴィーナスを、微笑ましく見守っていると。
「うむぅ……ヘリオスはん……?」
どこかに飛んでいたギザールの目が、ヘリオスに定まった瞬間。
彼は急に、真剣な顔つきになった。
「ずっと、聞きたいことがあったんすけど」
そもそも地下の水路工事を許可する代わりに、ヘリオス側が提示した条件があったのではないか。
ギザールはしっかりとした口調でそう言った。
「でないとアンタがた、最初から人間の交渉になんか乗らないでしょ?」
「言われてみれば、確かに……」
魔族にとって大切な壁を壊すかどうか以前に、どんな約束をしていたのか。
問われたヘリオスは、ため息とともにギザールを解放した。
「……大したことないわ。アタシたちの身を守る約束事ってやつよ」
「約束……?」
ヴァリナ川流域の村は、大穴を観光地ではなく、聖域として扱うこと――。
「それだけよ」と、ヘリオスは村の人たちに視線を向けた。
人間は水を。
魔族は不可侵の土地を。
ギザールの“不運の迷子”が“幸運の発見”に変わったことで、今回はそれぞれが欲しいものを手に入れられた。
「……そろそろ次のところへ行かなきゃ、かな」
黒い水を浴びるバシールたちの笑顔を目に焼き付け、そっとその場を去った。
「拠点契約のことだけれど」と、自分から提案してくれたヘリオスたちも一緒に。
「それで、“底抜け”を地図作りの拠点に使わせてもらう代わりの条件は、どうします?」
村から離れた岸辺。
ヴァリナ川の轟音が響くそこで、ギザールが拠点契約の詳しい説明をすると。
「そんなの、ひとつしかないわ」
“今ここにいる測量士メンバーの誰かが同行していること”。
ヘリオスは迷いなく言った。
「それって……」
「アタシが許したのは、アンタたちだけだから。決して変な人間を寄越すんじゃないわよ」
やっと私を捉えた赤い瞳を見つめたまま、いつの間にか、ヘリオスに向けて手を差し出していた。
「ふん」
「あっ……」
指先を少し乱暴に握られ、思わず肩が揺れた。
まさか、握り返してくれるとは思っていなかったのだ。
冷たくてひんやりしているけれど――しっかり、私の指を握ってくれている。
「……なに、アンタも?」
意外にも、ジェニファまでヘリオスに手を差し伸べていた。
「お孫さんのおかげで、ひとつ大事なことに気づくことができましたわ」
魔族、そして壁――その見方が一つではないと気づけた。
ジェニファの言葉に、深く頷いていると。
ヘリオスが彼女の手を握り返していた。
「アンタの物怖じしないところ、悪くないわ。その目を持ち続けることね」
「はい……!」
最後にギザールも、ヘリオスへ手を差し出したが――彼はその手を掴まなかった。
「あっ、大人げないっす!」
「男とは握手しない主義っすか?」と嘆くギザールの肩に、ヴィーナスが手を添えている。
「じいちゃんはボクより器小さいから……」
「……アンタ、後で覚えておきなさいよ」
たぶん、ヘリオスは照れているのだろう。
道が一つではないと気づかせてくれた人間――ギザールに。
薄ら口角が上がる間にも、ヴィーナスがこちらに向き直っていた。
「ミュウル……またね」
砂漠の都市で出会い、私をここまで連れてきてくれた彼――最後に強く、抱きしめてくれた。
「絶対また会いにきてね」
「もちろん……必ず」
「痛い」と言われる前に、腕の力を緩めたところで。
『行きたい方向に送るよ』と、ヴィーナスがムキムキの天使に変身した――その時。
「待ちなさい」
ヘリオスが、こちらに手を伸ばしていた。
彼は何かを言いかけて口を閉じ――やがて、「アタシが送るわ」と静かに言った。
「突然どうしたんっすかね?」
「……さぁ」
祖父の様子に首を傾げるヴィーナス。
そして、『壁、守られた』と、地面から顔だけを覗かせたブーミダ。
この川で出会ったみんなに手を振るうちに、純白の天使は浮上した。
私たち3人を乗せた背中は、ヴィーナスよりも安定感がある。
「バイバイ……ヴァリナ」
バシールの住む村はともかく、“底抜け”は、修道国の世界地図には載らないかもしれない。
それでも、私たちは生きている限り忘れない――壁を崇める魔族たちがひっそりと暮らす、川の底を。
『アンタたち、次行くところ決まってるの?』
「え……まだだけど」
『なら、いいこと教えてあげる』
ヴァリナ川からさらに南東の島国に、世界一優秀な医療魔術師――もとい人間の医者がいる。
飛ぶ速度を上げながら、ヘリオスは言った。
「どうして医者……?」
『聞いちゃったのよ、アンタの話』
数日前の夜、私の耳飾りから男の声が聴こえていた。
その相手と私の話を偶然耳にした――ヘリオスの告白に、鼓動が跳ねた。
『アンタ、開通式の時からなんか暗いし。その彼の足のことでも考えてたんじゃないの』
「それは……」
そうだ、なんて言えない。
本人が聞いているかもしれないのに――。
「へぇ。オーリウスさん、足のことをミュウルさんに話したんっすね」
「……うん」
「意外だ」というギザールを横目に、ヘリオスへ向き直った。
正直、医者のことは気になる。
「その人って、どのくらいすごいの?」
『彼の前で“不治の病”って言葉を出すと、必ず治しちゃうとかなんとか』
それが本当なら、オーリウスの足も――。
降って湧いた希望に、胸を膨らませていると。
『その男のせいかもね、アンタにアタシの力が効かなかったの』
「え……?」
魅了が効かなかったことについて。
私の心に、すでに大切な人がいるからではないか――ヘリオスの指摘に、胸の奥がギュッと鳴った。
「えっ……ミュウル様、うそですよね? お願いですから、『最愛はジェニファ』とおっしゃってください!」
「ジェニファさん、しっ!」
ジェニファとギザールが騒ぐ中。
頭の中に、銀髪と眼鏡の不機嫌そうな彼を思い浮かべた。
でも――。
「分からない……」
オーリウスへの想いの名前なんて、分からない。
ただ、出会った時から今もずっと、一緒に旅がしたいだけだ。
「その医者と会ってみたい」
口を閉じたジェニファ、真剣な眼差しのギザールを見つめると。
「方角的には問題なしっす。アンタもいいっすよね?」
「うぅ……ミュウル様がおっしゃるなら」
オーリウスの足が本当に治るかどうかなんて、分からない。
でも、わずかでも希望があるなら――その光を追いかけたい。




