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壁殴り聖女は世界地図を描く  作者: 見早
5章 人魔の洗濯川 ―ヴァリナ―
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66話 希望の火種

 オーリウスの足が二度と治らないというのは、本当なのか――。


 ついに井戸の開通式直前だというのに、どうしても考えてしまう。

 人間と魔族の“水路問題”が思わぬ方法で開けたように、彼にも第三の道があるのではないか、と。


「なによアンタ、こんな時に暗い顔して」

「……え?」


 いつの間にか、スーツの男に擬態したヘリオスが隣にいた。


「やっとのことで井戸が完成するのに、ミュウルらしくないね」


 さらに横へ並んだのは、少年の姿をしたヴィーナスだ。


「……そういえばさ」


 岩盤を砕いた、あの日。

 ヘリオスはヴィーナスの力を使って、“ヘリオスが翼を持つ魔族だった”という記憶を、バシールから消し去ったのだ。


 でも――。


「アシャの記憶はそのままにした……どうして?」

「そっか、ミュウルには分かんないよねぇ」


 ヴィーナスは、顔を背けるヘリオスを見てニヤついている。


「じいちゃんはギザールだけじゃなくて、彼女にも心動かされたんだよ」

「……記憶を消さなくても、今までと何も変わらないでしょ」


 アシャは、これまでも魔族の存在を黙っていたのだから。


 そう言って、ヘリオスは長い銀髪をひるがえした。


「それって、アシャを信じるってこと?」

「……はぁ。アンタ、いちいち言わないと分かんないの?」


 やっぱり素直ではない。

 それでも、彼がなりふり構わず変身した時点で、もう分かっていた。

 バシールたちを、彼は少なからず信頼しているのだと。


「おーい、ミュウルさんたちも早く! 開通しちゃうっすよ!」

 

 井戸を囲む村人に混じる、ギザールの声に顔を上げると。


「あ……」


 初めて汲み上げられた井戸に、バシールたちが手を合わせていた。

 そして、出会った時と同じく――黒い水に濡れた手で、彼女たちは額を叩いている。


「やったね、ヘリオス」

「はぁ? 別にアタシは……」


 つんと澄ましたヘリオスが、黒い水を浴びる村の人たちを眺めていると。


「ミュウル、ヘリオス!」

「なっ……」

 

 すでに酔っ払ったバシールが、私たちの間に突進してきた。


「川の水で作った、黒い麦酒で乾杯しよう……だって。行こっか」

「うん……!」


 ヴィーナスに手を引かれ、黒いご馳走を囲む工事の功労者たちの中へ入っていった。

 まさか魔族2体が混ざっているなんて、誰も思わないだろうけれど――。


 種族なんて関係なく喜びを分かち合う光景が、今はとても眩しかった。


「ミュウル様! この殿方、下戸すぎですわ」


 ジェニファが支えて連れてきたのは、すっかり潰れたギザールだった。


 後ろには、ジェニファがひとりで空けたという酒樽が転がっている。


「かわいそうに……」


 まさか、ジェニファがここまでの酒豪だったとは――。


「あらまぁ、情けない男ね」


 私の側に転がされたギザールを、ヘリオスが哀れみの目で見下ろしていた。


「ほら、しっかりなさい」

「じいちゃん、ギザール死んじゃうよ!」


 ギザールの頬を叩くヘリオスと、それを止めようとするヴィーナスを、微笑ましく見守っていると。


「うむぅ……ヘリオスはん……?」


 どこかに飛んでいたギザールの目が、ヘリオスに定まった瞬間。

 彼は急に、真剣な顔つきになった。


「ずっと、聞きたいことがあったんすけど」


 そもそも地下の水路工事を許可する代わりに、ヘリオス側が提示した条件があったのではないか。


 ギザールはしっかりとした口調でそう言った。


「でないとアンタがた、最初から人間の交渉になんか乗らないでしょ?」

「言われてみれば、確かに……」


 魔族にとって大切な壁を壊すかどうか以前に、どんな約束をしていたのか。


 問われたヘリオスは、ため息とともにギザールを解放した。


「……大したことないわ。アタシたちの身を守る約束事ってやつよ」

「約束……?」


 ヴァリナ川流域の村は、大穴を観光地ではなく、聖域として扱うこと――。


「それだけよ」と、ヘリオスは村の人たちに視線を向けた。


 人間は水を。

 魔族は不可侵の土地を。


 ギザールの“不運の迷子”が“幸運の発見”に変わったことで、今回はそれぞれが欲しいものを手に入れられた。


「……そろそろ次のところへ行かなきゃ、かな」


 黒い水を浴びるバシールたちの笑顔を目に焼き付け、そっとその場を去った。

「拠点契約のことだけれど」と、自分から提案してくれたヘリオスたちも一緒に。


「それで、“底抜け”を地図作りの拠点に使わせてもらう代わりの条件は、どうします?」


 村から離れた岸辺。

 ヴァリナ川の轟音が響くそこで、ギザールが拠点契約の詳しい説明をすると。


「そんなの、ひとつしかないわ」


 “今ここにいる測量士メンバーの誰かが同行していること”。


 ヘリオスは迷いなく言った。


「それって……」

「アタシが許したのは、アンタたちだけだから。決して変な人間を寄越すんじゃないわよ」


 やっと私を捉えた赤い瞳を見つめたまま、いつの間にか、ヘリオスに向けて手を差し出していた。


「ふん」

「あっ……」


 指先を少し乱暴に握られ、思わず肩が揺れた。

 まさか、握り返してくれるとは思っていなかったのだ。


 冷たくてひんやりしているけれど――しっかり、私の指を握ってくれている。


「……なに、アンタも?」


 意外にも、ジェニファまでヘリオスに手を差し伸べていた。


「お孫さんのおかげで、ひとつ大事なことに気づくことができましたわ」


 魔族、そして壁――その見方が一つではないと気づけた。


 ジェニファの言葉に、深く頷いていると。

 ヘリオスが彼女の手を握り返していた。


「アンタの物怖じしないところ、悪くないわ。その目を持ち続けることね」

「はい……!」


 最後にギザールも、ヘリオスへ手を差し出したが――彼はその手を掴まなかった。


「あっ、大人げないっす!」


「男とは握手しない主義っすか?」と嘆くギザールの肩に、ヴィーナスが手を添えている。


「じいちゃんはボクより器小さいから……」

「……アンタ、後で覚えておきなさいよ」


 たぶん、ヘリオスは照れているのだろう。

 道が一つではないと気づかせてくれた人間――ギザールに。


 薄ら口角が上がる間にも、ヴィーナスがこちらに向き直っていた。


「ミュウル……またね」


 砂漠の都市で出会い、私をここまで連れてきてくれた彼――最後に強く、抱きしめてくれた。


「絶対また会いにきてね」

「もちろん……必ず」


「痛い」と言われる前に、腕の力を緩めたところで。

『行きたい方向に送るよ』と、ヴィーナスがムキムキの天使に変身した――その時。


「待ちなさい」


 ヘリオスが、こちらに手を伸ばしていた。


 彼は何かを言いかけて口を閉じ――やがて、「アタシが送るわ」と静かに言った。


「突然どうしたんっすかね?」

「……さぁ」


 祖父の様子に首を傾げるヴィーナス。

 そして、『壁、守られた』と、地面から顔だけを覗かせたブーミダ。

 この川で出会ったみんなに手を振るうちに、純白の天使は浮上した。


 私たち3人を乗せた背中は、ヴィーナスよりも安定感がある。


「バイバイ……ヴァリナ」


 バシールの住む村はともかく、“底抜け”は、修道国の世界地図には載らないかもしれない。


 それでも、私たちは生きている限り忘れない――壁を崇める魔族たちがひっそりと暮らす、川の底を。


『アンタたち、次行くところ決まってるの?』

「え……まだだけど」

『なら、いいこと教えてあげる』


 ヴァリナ川からさらに南東の島国に、世界一優秀な医療魔術師――もとい人間の医者がいる。


 飛ぶ速度を上げながら、ヘリオスは言った。


「どうして医者……?」

『聞いちゃったのよ、アンタの話』


 数日前の夜、私の耳飾りから男の声が聴こえていた。

 その相手と私の話を偶然耳にした――ヘリオスの告白に、鼓動が跳ねた。


『アンタ、開通式の時からなんか暗いし。その彼の足のことでも考えてたんじゃないの』

「それは……」


 そうだ、なんて言えない。

 本人が聞いているかもしれないのに――。


「へぇ。オーリウスさん、足のことをミュウルさんに話したんっすね」

「……うん」


「意外だ」というギザールを横目に、ヘリオスへ向き直った。


 正直、医者のことは気になる。


「その人って、どのくらいすごいの?」

『彼の前で“不治の病”って言葉を出すと、必ず治しちゃうとかなんとか』


 それが本当なら、オーリウスの足も――。


 降って湧いた希望に、胸を膨らませていると。


『その男のせいかもね、アンタにアタシの力が効かなかったの』

「え……?」


 魅了が効かなかったことについて。

 私の心に、すでに大切な人がいるからではないか――ヘリオスの指摘に、胸の奥がギュッと鳴った。


「えっ……ミュウル様、うそですよね? お願いですから、『最愛はジェニファ』とおっしゃってください!」

「ジェニファさん、しっ!」


 ジェニファとギザールが騒ぐ中。

 頭の中に、銀髪と眼鏡の不機嫌そうな彼を思い浮かべた。


 でも――。


「分からない……」


 オーリウスへの想いの名前なんて、分からない。


 ただ、出会った時から今もずっと、一緒に旅がしたいだけだ。


「その医者と会ってみたい」


 口を閉じたジェニファ、真剣な眼差しのギザールを見つめると。

 

「方角的には問題なしっす。アンタもいいっすよね?」

「うぅ……ミュウル様がおっしゃるなら」


 オーリウスの足が本当に治るかどうかなんて、分からない。

 でも、わずかでも希望があるなら――その光を追いかけたい。

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