65話 歩けない理由
目の前に、白い羽が広がった――次の瞬間。
岩盤から噴き出す水よりも速く、身体が宙を飛んでいた。
「ヘリオス……!?」
私とギザール、それにバシールとアシャも。
姿の変化した彼の腕に抱えられていたのだ。
「わっ……ヴィーナスくんより細身の天使っすね! でもその分超速……おぇっ」
「ギザール、観察してる場合じゃない」
これなら、無事に“底抜け”まで逃げ出せそうだ。
でも――。
「……!?」
バシールは口を開けたまま固まり、アシャは興奮気味に奇声を上げている。
「ヘリオス……いいの?」
いくら緊急時とはいえ、バシールの前で本性をさらして良かったのか。
問いかけると、不機嫌なのに美しい声が響いた。
『どうせアタシの記憶は、ヴィーナスに消させるわ』
その前に、バシールたちに言っておきたいことがある――ヘリオスは「訳しなさい」と、今回ばかりはギザールを頼った。
私にも聞かせてくれるらしい。
「『残念だけれど、この世界は魔族のものでも人のものでもないの』」
分け合うと言っても、結局は何も分け合えない。
そう思っていたけれど――。
「『人間に教えられたわ。見えてない道もあるんだってこと』」
「あ……」
珍しく素直なヘリオスの言葉に、やっと気づいた。
今回、私はただ岩盤を砕いたのではない。
魔族と人――“違うもの”の道をつなげたんだ。
「ギザールがやりたかったのって、これだったんだ……」
「ん、なんっすか?」
「……なんでもないよ」
背後からは、まだ濁流が迫っている。
それでも頬が緩んでしまうほど、胸が温かかった。
ヘリオスの言葉に対して、バシールがなんと返したのかは分からない。
ただ――彼女は娘を強く抱き、ヘリオスの腕をそっと撫で、笑っていた。
「さぁさぁ、本で鍛えたオレの知識がうなるっすよ!」
妙に元気なギザールの声が、ヴァリナ村に響く中。
バシール家をリーダーに、村のみんなが井戸作りに協力していた。大人も子どもも、これまでバシール家に水運びを頼っていた全員が。
「ちょっとは認めざるを得ませんわね……考古学者のくせに、地下から水を引く方法までご存じだなんて」
「ギザールはなんでも知ってるから」
いつもの悪態をつくジェニファも、村が集結する様子に微笑んでいる。
「私、怪我人に備えて救護テントを設営して参りますわ」
「じゃあ、私は……」
ほぼ手作業での掘削、土砂運び、川の水を迎えるための儀式――やるべきことをすべて終えた頃には、文字通り泥のように疲れていた。
明日には、いよいよヴァリナ川の水を迎えられるかもしれない。
「お疲れ様っすミュウルさん! じゃ、オレまだやることあるんで」
「おやすみなさいっす」と、深夜にもかかわらずバシール家を出て行くギザールを見送った後。
「……眠れない」
音も立てずに眠るジェニファの毛布をかけ直し、家の裏口から外へ出た。
誰かが灯す、魔法の明かりが遠くに見える――そちらの方からは、夜でも軽作業をしている人たちの笑い声が聞こえていた。
その中には、“私たちの通訳さん”の声も混じっている。
「……ギザール、楽しそうだな」
星明かりの下、目を閉じると。
このヴァリナ川で出会った彼らの姿が、次々と瞼の裏に浮かんできた。
ヴィーナスの祖父ヘリオス、そしてバシール家の母娘――。
「家族……か」
『今の世界』の両親と暮らした時間は、そう長くない。
聖女適性があったことから、物心つく前に修道院に引き取られたらしい。
私を育ててくれたのは、大聖女様だ。
「“前のママ”は……」
『前の世界』の両親は、難病の娘を支えるために働き詰めだった。
病室の窓から見える景色以外に、思い出せるのは――よく会いにきてくれた誰か。
「そうだ……」
最初は思い出せなかった。
でも、同じ病棟にいたお兄ちゃんがよく遊んでくれたはず――。
「あれ? 名前、なんだったっけ……」
『ミュウル』
突然耳元で響いた呼び声に、思わず立ち上がりかけた。
『ため息など、らしくないですね』
この、少しぎこちない声――耳飾りからか。
「……オーリウス」
彼が雑談を仕掛けてくるなんて、久しぶりだ。しかもこんな時間帯に。
「そっちはまだ昼なんでしょ。仕事はいいの?」
『安否確認も仕事の一環ですが』
相変わらず真面目。
そんなところが、とても彼らしいが――。
そういえば。
私は、オーリウスのことをあまり知らない。
彼が修道国国土省の長官で、元勇者パーティーの魔術師だったことくらいしか。
「あのさ……」
気分を落ち着けるための、ちょっとした話題をふるつもりで。オーリウスに、家族について尋ねると。
『…………』
彼はすっかり黙ってしまった。
もしかして、触れてはいけない話題だったのだろうか。
それとも、私が思っているより、彼は私に気を許してはいなかったのだろうか――。
「やっぱりいい」と言いかけた、その時。
『最悪でしたね』
久しぶりに聞く、感情を削ぎ落とした声が返ってきた。
「え……?」
『私の家は、いわゆる“血統主義”でした。生粋の魔術師など、皆そんなものですが』
親戚は多数いるが、魔術の腕を水面下で競い合っているため仲は良くない。
グレイヴ家は女系で姉ばかり、自分が唯一の嫡男だった――早口に言うと、オーリウスは口を閉じた。
正直、血統とか競い合いとかは分からないけれど。
「オーリウスって末っ子なの?」
一番意外だったところを指摘すると。
『そこですか?』と、少し震えた声が返ってきた。
「だって、いかにも『長男ですよ』みたいな顔してるし……」
『なんですか? 長男みたいな顔って』
良かった。オーリウスが笑っている。
こっそり、安心のため息を吐いたところで。
『貴女くらいにしかしませんよ、こんな話』
「え……?」
いま、一瞬だけ――オーリウスの声が硬くなった。
いや、緊張したような声になった。
「……そっか、私だけ」
ラヒムザードの時といい、オーリウスの様子がなんだか変だ。
直接顔を見て話せたら、わけが分かるかもしれないのに――。
「あ……そういえば、前に言ってたよね。昔の旅について、少しずつ話してくれるって」
とっさに話題を変えてみると。
彼はため息とともに、『ええ』と吐き出した。
でも――いま本当に私が聞きたいのは、15年前の旅の話ではない。
「先に聞きたいことがあるんだけど……いい?」
『なんですか、わざわざそんな言い回しをして』
それでも、なかなか言葉が出ていかない。
『この足ではどこにもいけない』
前に白地図の執務室で聞いた、あの言葉が忘れられなかった。
「……もし嫌だと思ったら、通信を切ってもいいから」
『くどいですね。本題に入る前に、すでに1分45秒経過しています』
「あははっ……」
久々に聞いたオーリウスのそれに、茶化したい気持ちが湧いたけれど。
いまは止めて、早くなる胸を押さえた。
もう2ヶ月近く前。
最後に見た彼の姿を思い浮かべて――口を開く。
「オーリウスはさ……どうして歩けなくなったの?」
瞬間、耳飾りの奥から聞こえていた呼吸音が、一切なくなった。
通信のノイズすら消えたことから、彼が通信自体を切ったのだろう。
「……やっぱり、無神経だったか」
でも、もし足が治る方法があるならば。
ギザール、ジェニファとの旅に、オーリウスもいたら――。
特別試験の“旅の仲間”投票で、オーリウスに入れた時の気持ちは、今も変わっていない。
「私のエゴ……なのかな」
さっきまで涼しかった夜風が、冷たくなってきた。
それに今、近くの茂みでガサガサと音がした気がする。
あんまり遅くまで起きていると、野生の動物と遭遇するかも――腰を上げ、家の中へ戻ろうとした、その時。
『……すみませんでした、突然切ってしまって』
耳元で、か細い声が響いた。
「オーリウス……」
『……足に関しては、私の不注意が招いた結果です。それ以上でも以下でもない』
少しずつ、でも確かに、彼は話してくれた。
15年前の魔王討伐の際に、両足を負傷したことを。
「じゃあ、その足は魔王に……?」
『…………はい』
なんだか、妙な間があったけれど――オーリウスは『確かなことがひとつある』と言った。
『この足は、もう二度と治ることはないのです』
「……っ」
あまりに淡々とした調子。
憐れむことすら許さないというかのような声に、喉の奥が締めつけられた。




