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壁殴り聖女は世界地図を描く  作者: 見早
5章 人魔の洗濯川 ―ヴァリナ―
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62話 架け橋の曇り

「『アンタまでどうして……あっちの聖力がある女は分かるわ、でも……!』」


 魔力も聖力もない、ただの人間。

 そんなアシャが、どうして魅了を弾いたのか。


 焦りを隠せないヘリオスに、アシャは本を差し出した。


「それは……」


 彼女がずっと大切そうに抱えていたもの。

 羽の生えた生物が表紙になっている、古本だ。


「『魅了について。能力発動の前から惚れているか、他の誰かに惹かれているものには効かない……』」


 アシャの言葉に、ヘリオスは小さく肩を震わせた。


 どんな時も表情を崩さなかった彼が、いま――少し内側を見せた気がした。


「『……天使型(あなた)の力について、ここにはそう書かれていました』」

「……っ!」


 今度は、ヘリオスの翼が揺れた。


 この古本には、“魔族の力を除ける術”が書かれている――言いながら、アシャは寂しげに笑っている。


「『川辺を飛ぶ純白の天使を見た時から、あなたが人ではないと分かってた……魅了されたの』」

「『……そう、だったの』」


 アシャを前に、ヘリオスは固まっていた。

 瞬きすらせずに。


 なんだか、居心地が悪い空気だ――。


「これってもしかして……告白?」


 空気に耐えきれず、ついこぼすと。


「あー、それはちょっと勘弁だなぁ」


 いつの間にか追いついていたヴィーナスが、私の隣にすっと並んだ。


「キミ、ウチのじいちゃんはやめといた方がいいよ。種族が違う以前に、600歳超えてるし、娘孫持ちだし……」

「アンタは黙ってなさい!」


 ヘリオスは孫に吠えつつも、忙しなく翼を動かしている。


「知ってたなら、どうしてアタシのこと、親に言わなかったのよ……」


 アシャが、魅了への対処法を知っていたことよりも。

 ヘリオスの正体を、他の人間に黙っていたこと。

 それが彼は理解できないみたいだった。


「人の心の中でも、乙女心は特に複雑ですものね」


「理解できなくて当然かも」と、ジェニファが頬に手を当てている横で――私は、握りかけた拳をどうするか迷っていた。


「とりあえず、今のうちに取り押さえる?」


 大人しいうちに、ヘリオスを制圧するべきか。


 うずく拳を抑えていると――。


「オレに任せてくれないっすか?」


 穏やかな表情のギザールが、ヘリオスの前に進み出た。


「ギザール……うん」


 彼がこの顔をしている時は、絶対に大丈夫だ。


 ジェニファと視線を合わせて頷き、ギザールの背を軽く叩いた。


「……ヘリオスさん、これで分かったでしょう? 人間は、魔族の能力で都合よく操れる存在じゃないんすよ」

「なにを知ったような口を……」

「知ってますからね、オレは」


 壁の生んだ影に苦しむ人々。

 人か魔か、自分たちの起源を探る人々。

 共生がまだ実現しなかった、人魔の都。


 これまでの旅の断片を、ギザールは静かに紡いでいった。


「人と魔、別の生き物だけど、同じ世界に住んでいるんです」


 ギザールの言葉が胸に溶けていく。

 ぜんぶ彼と一緒に、実際に見てきたものだ。


「ただ……お互いをよく知らないだけなんすよ」


 だからまずは、ちゃんと話をしてみたらどうか。


 ギザールの言葉に、ヘリオスの眉がぴくりと動いた。


「何も理由を言わないまま『ダメ』を通そうとしたって、相手には伝わらないっす」

「……ふぅん」


 ギザールの真剣な眼差しから逃げるように、ヘリオスは背を向けた。


 でも、彼は立ち去ろうとはしない。


「話したところで、人間が引くと思うの?」

「引くかどうかじゃないっす。まず、何を守ってるのか知らなきゃ、相手だって選べないんすよ」


 ヘリオスの翼が完全に停止した。


「…………」


 そのまま突入した、長い沈黙の後。


 ついに、広がっていた翼が畳まれた。


「……行くわよ、あの女のところへ」


 ただし全部は話さない。

 魔族のことも、壁のことも。


 ヘリオスはそう言った。


「あの女どもが壊そうと思っているものが、アタシたちの生活に欠かせないものだって……伝えるだけよ」


「いいわね?」と低い声のヘリオスに対して、ギザールは満面の笑みを浮かべている。


「……っ、オレも全力で協力するっす!」


 ギザールの真面目な顔が解け、いつもの調子が出たところで、ほっと胸を撫で下ろした。


 もう拳を解いても大丈夫そうだ。


 やっぱりギザールはすごい――そう、改めて思った。


「“違う人たち”を繋ぐ橋になりたいって、言ってたもんね」

「盗み聞きの件、まだ終わってないっすからね!」

「うっ……」


 一昨日の夜のことは、もう時効かと思っていたのに。


「ごめん……ギザールが私と出会う前、どんなふうに過ごしてたのか知りたくて」


 ジェニファに話そうとしているのを、つい聞きたくなってしまった。

 そう自白すると。


「どうって別に。生まれ故郷を出て、ずっと一人で歩いてきただけっすよ」

「……え?」


 一瞬だけ、彼が知らない誰かのように見えた。


 自分より幼く見える彼が、もうずっと一人きりでいたかのような、諦めた笑顔――。

 

 それを正面から見た瞬間、胸が潰れそうになった。


「ギザール……」

「あっ、ヘリオスさんが動いたっす!」


 ギザールはいつもの軽やかな笑顔と足取りで、バシール家に向かうヘリオスを追いかけていく。


「……」


 足がすぐに動かなかった。


 最後に見せた彼の横顔が、なんだか――放っておいたら、いつかどこかに消えてしまいそうだった。

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