62話 架け橋の曇り
「『アンタまでどうして……あっちの聖力がある女は分かるわ、でも……!』」
魔力も聖力もない、ただの人間。
そんなアシャが、どうして魅了を弾いたのか。
焦りを隠せないヘリオスに、アシャは本を差し出した。
「それは……」
彼女がずっと大切そうに抱えていたもの。
羽の生えた生物が表紙になっている、古本だ。
「『魅了について。能力発動の前から惚れているか、他の誰かに惹かれているものには効かない……』」
アシャの言葉に、ヘリオスは小さく肩を震わせた。
どんな時も表情を崩さなかった彼が、いま――少し内側を見せた気がした。
「『……天使型の力について、ここにはそう書かれていました』」
「……っ!」
今度は、ヘリオスの翼が揺れた。
この古本には、“魔族の力を除ける術”が書かれている――言いながら、アシャは寂しげに笑っている。
「『川辺を飛ぶ純白の天使を見た時から、あなたが人ではないと分かってた……魅了されたの』」
「『……そう、だったの』」
アシャを前に、ヘリオスは固まっていた。
瞬きすらせずに。
なんだか、居心地が悪い空気だ――。
「これってもしかして……告白?」
空気に耐えきれず、ついこぼすと。
「あー、それはちょっと勘弁だなぁ」
いつの間にか追いついていたヴィーナスが、私の隣にすっと並んだ。
「キミ、ウチのじいちゃんはやめといた方がいいよ。種族が違う以前に、600歳超えてるし、娘孫持ちだし……」
「アンタは黙ってなさい!」
ヘリオスは孫に吠えつつも、忙しなく翼を動かしている。
「知ってたなら、どうしてアタシのこと、親に言わなかったのよ……」
アシャが、魅了への対処法を知っていたことよりも。
ヘリオスの正体を、他の人間に黙っていたこと。
それが彼は理解できないみたいだった。
「人の心の中でも、乙女心は特に複雑ですものね」
「理解できなくて当然かも」と、ジェニファが頬に手を当てている横で――私は、握りかけた拳をどうするか迷っていた。
「とりあえず、今のうちに取り押さえる?」
大人しいうちに、ヘリオスを制圧するべきか。
うずく拳を抑えていると――。
「オレに任せてくれないっすか?」
穏やかな表情のギザールが、ヘリオスの前に進み出た。
「ギザール……うん」
彼がこの顔をしている時は、絶対に大丈夫だ。
ジェニファと視線を合わせて頷き、ギザールの背を軽く叩いた。
「……ヘリオスさん、これで分かったでしょう? 人間は、魔族の能力で都合よく操れる存在じゃないんすよ」
「なにを知ったような口を……」
「知ってますからね、オレは」
壁の生んだ影に苦しむ人々。
人か魔か、自分たちの起源を探る人々。
共生がまだ実現しなかった、人魔の都。
これまでの旅の断片を、ギザールは静かに紡いでいった。
「人と魔、別の生き物だけど、同じ世界に住んでいるんです」
ギザールの言葉が胸に溶けていく。
ぜんぶ彼と一緒に、実際に見てきたものだ。
「ただ……お互いをよく知らないだけなんすよ」
だからまずは、ちゃんと話をしてみたらどうか。
ギザールの言葉に、ヘリオスの眉がぴくりと動いた。
「何も理由を言わないまま『ダメ』を通そうとしたって、相手には伝わらないっす」
「……ふぅん」
ギザールの真剣な眼差しから逃げるように、ヘリオスは背を向けた。
でも、彼は立ち去ろうとはしない。
「話したところで、人間が引くと思うの?」
「引くかどうかじゃないっす。まず、何を守ってるのか知らなきゃ、相手だって選べないんすよ」
ヘリオスの翼が完全に停止した。
「…………」
そのまま突入した、長い沈黙の後。
ついに、広がっていた翼が畳まれた。
「……行くわよ、あの女のところへ」
ただし全部は話さない。
魔族のことも、壁のことも。
ヘリオスはそう言った。
「あの女どもが壊そうと思っているものが、アタシたちの生活に欠かせないものだって……伝えるだけよ」
「いいわね?」と低い声のヘリオスに対して、ギザールは満面の笑みを浮かべている。
「……っ、オレも全力で協力するっす!」
ギザールの真面目な顔が解け、いつもの調子が出たところで、ほっと胸を撫で下ろした。
もう拳を解いても大丈夫そうだ。
やっぱりギザールはすごい――そう、改めて思った。
「“違う人たち”を繋ぐ橋になりたいって、言ってたもんね」
「盗み聞きの件、まだ終わってないっすからね!」
「うっ……」
一昨日の夜のことは、もう時効かと思っていたのに。
「ごめん……ギザールが私と出会う前、どんなふうに過ごしてたのか知りたくて」
ジェニファに話そうとしているのを、つい聞きたくなってしまった。
そう自白すると。
「どうって別に。生まれ故郷を出て、ずっと一人で歩いてきただけっすよ」
「……え?」
一瞬だけ、彼が知らない誰かのように見えた。
自分より幼く見える彼が、もうずっと一人きりでいたかのような、諦めた笑顔――。
それを正面から見た瞬間、胸が潰れそうになった。
「ギザール……」
「あっ、ヘリオスさんが動いたっす!」
ギザールはいつもの軽やかな笑顔と足取りで、バシール家に向かうヘリオスを追いかけていく。
「……」
足がすぐに動かなかった。
最後に見せた彼の横顔が、なんだか――放っておいたら、いつかどこかに消えてしまいそうだった。




