61話 天使の魅了
黒い翼を羽ばたかせるヴィーナスに乗り、急ぐヘリオスを追いかけていくと。
「この方向、バシールさん家の方っすよね?」
「……うん」
ギザールの予想通り、ヘリオスはヴァリナ村の手前で純白の翼を折りたたんだ。
「ボクはここで待ってるよ。じいちゃんが本気だと逆らえないから……」
「期待しないで」と言いながら、ヴィーナスは天使から少年の姿に戻っていく。
「……最悪、私が止める」
「ミュウル様……」
何が起きても、この拳だけは準備しておく。
そうジェニファに囁き、バシール家の背の高いドアを開くと――スーツ姿のヘリオスと、バシール一家が対面していた。
一昨日の腕相撲でヒビを入れてしまった、広いテーブルを囲むようにして。
「『……ああ、ミュウルちゃんたちかい』」
「お邪魔します、バシール」
バシールの笑顔がぎこちない。
それに、娘たちのヘリオスを見る目が険しい。
「水路工事請負人」と「大穴の住人代表」の話し合いは、先日よりずっと悪化しているみたいだった。
「『オマエさんたちも来てくれたのかい? できれば助けてほしいっての、覚えてたんだね』」
「うん……それで、何かあったの?」
大穴を飛び出していくヘリオスの様子が、ふつうではなかった。
そう話すと、ヘリオスはあからさまな不機嫌顔で窓の外を向いた。
「……あの身なりが良いじいさん……隣村の村長が、早く工事を進めるよう急かしてきたんですって」
昨日ここへ訪ねてきたヘリオスに、バシールがそう話したという。
ただ、バシールたちが岩盤だと思っているもの――壁を守りたいヘリオスは、当然のように「そんなの却下よ!」と吐き捨てた。
「『こんな調子でねぇ、進まないんだよ。ミュウルちゃんとアシャ、何とかなんないかねぇ』」
バシールは、私、それからヘリオスとの交渉役だと言っていたアシャを交互に見た。
ヘリオスが口にしないのに、私がバシールたちに壁のことを教えるのはマズいかもしれない。
でも――壁が魔族にとって大切なものだと知った今、ヘリオスに「壁を諦めろ」などとは言えない。
「うーん……」
私が首をひねる間にも、アシャは母バシールとヘリオスの間で俯いていた。
眼鏡の奥の瞳が、かすかに揺れている。
「『一度、家族みんなと相談させてください』……って、ヘリオスさん行っちゃうんっすか?」
バシールたちが諦めるまで、決して交渉をやめないと思っていたのに。
あっさりと家を出て行ったヘリオスを追いかけると――彼は、外で待機していたヴィーナスと向かい合っていた。
「……ヴィーナス、協力なさい」
「えー、でも……」
ヴィーナスの「自分に関する記憶を消す」能力は、成体になった今ならきっと進化しているはず――そう言って、ヘリオスは彼の肩を掴んだ。
「ギザール、ジェニファ……」
「ええ、ちょっと雲行きが怪しいっすね」
ヘリオスが“話し合い以外”の何かをする気だ。
そう悟った瞬間、足が動いていた。
「これからアタシがすること、あの人間たちの記憶から消すのよ。幸いあの家にいるのは全員女だしね……」
「ヘリオス、何をする気……!?」
念のため二人を背に庇い、ヘリオスとヴィーナスの間に割り込んだ、その時。
「まずは邪魔なアンタからよ」
ヘリオスの赤い瞳が妖しく光った。
「これ、は……」
盛大な鐘の音が、頭の中に響いた。
ヴィーナスの能力で記憶を消されそうになった、ラヒムザードの時と似ている。
「でも……」
少し違う。
心の奥を無理やり捻じ曲げられるような、気持ち悪い感じがした。
「……っ、やめて!」
頭を押さえ、鐘の音をかき消そうとしたところ。
「ミュウル様っ! おのれ……」
薬瓶を取り出すジェニファ、それを取り押さえるギザールの姿が、かろうじて見えた。
「オレらじゃコイツには勝てないっす、アンタはミュウルさんを診てください!」
身体がふらつく間にも、ヘリオスはバシール家の中へ戻っていく。
感覚の鈍い足を無理やり動かして、追いかけようとしたけれど――。
「あれ……?」
頭の中の鐘が止んだ。
身体も自由に動くようになっている。
「ミュウル様、私のことが分かりますか!?」
「ジェニファ……うん、なんか大丈夫みたい」
ヘリオスが、能力の発動に失敗したのだろうか。
焦るふたりと、ポカンとするヴィーナスに向かって問いかけると。
目を丸くしたヴィーナスは、「どうして効かなかったんだろう」とつぶやいた。
「じいちゃんの“魅了”にかかったら、女の子はみんな動けなくなるんだけど……効かなかった相手なんて、初めて見た」
私がヘリオスの外見に対して、別になんとも思っていなかったからか――よく分からないけれど、正気なうちに動かなければ。
ヘリオスを殴ってでも止めるために。
「ミュウルさん待って! アレって……」
ギザールの指す先には、アシャの後ろ姿があった。
揺れる三つ編みが追いかける相手は、ヘリオスだ。
「まさか……彼女ひとり呼び出して、操ろうとしているのでは!?」
ジェニファの言葉に弾かれ、拳に力がこもった。
「やめろヘリオス……!」
緊急事態だ。
もう迷わず、ヘリオスに拳を喰らわせようとしたのだが――。
「もう遅いわ」
「え……?」
低い囁きに、腕が止まった。
ヘリオスの前にいるアシャは、ぼうっと彼を見つめている。
「そんな……!」
半年の間話し合いを続けてきたと聞いていたのに。
まさか今になって、こんな手段に出るなんて――。
「先に仕掛けてきたのはあっちよ。てかアンタ、どうしてアタシに攻撃できたのよ」
「……?」
どうやらヘリオスは、私が魅了されなかったことに首を傾げているみたいだ。
「まぁ、もういいわ。手駒はできたもの」
アシャを利用して、工事を中止させるしかない。
人間が工事を押し進める気ならば、こうせざるを得ない。
ヘリオスの主張に、やはり正面から「ダメだ」と言い切ることはできなかった。
「でも、こんな……人の心を無理やり操るなんて!」
ジェニファの悲痛の声に、解けかけていた拳が揺れた。
そうだ。
いくらヘリオスが仲間のために壁を守ろうとしているのだとしても、これはいけない。
ただ、今ヘリオスを殴ったところで解決するのだろうか――?
「私は、どうしたら……」
拳を握るべきか、解くべきか。
不敵に笑むヘリオスと、ぼうっとしたアシャを見つめていると。
「……ッ、ハァ!」
アシャの、暗い幕に覆われていた瞳へ、光が戻った。
「アシャ……?」
「『……私、ごめんなさい。あなたのことが好き……だから』」
悪者にしたくない――ヘリオスを見上げたアシャが、はっきりそう言った瞬間。
目を見開いたヘリオスと視線がぶつかった。
「どうして……」




