60話 尊ぶべき壁
私たちの行く手を阻み、影を生む壁を、どうして魔族は崇めるのか。
問いかけに対して、ブーミダは“底抜け”の街の方へ頭を向けた。
「『壁と生きるものたちを、見よ』」
「え……?」
この地下に棲む魔族たちが、壁とどんな日々を送っているのか。
それを観察するようにと、彼は言った。
「でも、あの人がまたお怒りになりそうっすよね」
「それって……」
ヘリオスのことか、とギザールに聞き返すより早く、羽音が聞こえてきた。
「ちょっと人間! また性懲りも無く壁に近づいて、どういうつもり!?」
「あっ……」
さっそく、恐れていた事態が起こってしまった。
でも――真っ白な顔に青筋を立てるヘリオスの前に、ブーミダが立ちはだかる。
「『ブーミダ、許した』」
「……そうでしたか」
ブーミダの言葉に、あのヘリオスが大人しく踵を返した。
他の魔族たちも、壁の前へ立つ巨体に平伏している。
「へぇ。ブーミダって、ここの裏ボス的存在?」
「『ブーミダ、ただ地を這うだけだ』……って、相変わらずっすね」
「……そう」
それにしても、こうして一日見張ってみると、壁の側には多くの魔族が入れ替わり訪れている。
「まるで、人間のお墓参りみたいですわ」
ジェニファの落ち着いた声色に、「そうかもね」と頷いた。
彼らは必ず、自分の羽や毛の一部を、壁の根元に供えている。
その不思議な光景を、隣のギザールは無言でスケッチしていた。
「ん……?」
一部の魔族たちが、壁の前で身構えている。
その中には、初日に見た毛玉の魔族の親子もいた。
彼らが集中して見つめる先にいるのは――影だ。
まるでブーミダを小型化したような、ミミズの影がうねっている。
「今日もご馳走だ!」
「いただきまぁす」
どうやら彼らは、影を捕えているみたいだ。
しかも。
「アレは……影を食べているの?」
彼らは捕まえた影を、口から飲み込んでいるように見えた。
「『食事だ』って言ってますけど……マジっすか?」
ついにギザールも、ペンを止めた。
魔族が影を食べる――異様な光景が、目の前に広がっている。
その中には、ヴィーナスの姿もあった。
「ねぇヴィーナス、それ……おいしいの?」
彼はラヒムザードの都市で、私たちと同じものを食べていたはずだ。
それでも彼は、「これは魔族にとって必要な栄養」と言った。
「魔力の源なんだよ、これが」
魔力の源――そんなもの、初めて聞いた。
ギザールにも「知ってる?」と耳打ちしたが、彼は首を横に振っている。
「人間の魔力は、生まれつき器の大きさが決まってて……ええとつまり、食べて増やすもんじゃないっすよ、ふつう」
「じゃあ、魔族だけ特別ってこと?」
彼らは姿形に関係なく、影の捕食を楽しんでいる。
そして、壁から出てくるミミズ型の影――きっと私たちが“穢れ獣”と呼ぶものは、次々と沸いていた。
「……私も食べてみていい?」
アレを口にすると思うと、身体が震える。
でも、知らずにはいられない。
食事を堪能中のヴィーナスへ、おそるおそる尋ねると。
「人間はやめといたほうがいいよ。ほら、覚えてる?」
私が聖力を宿した手でヴィーナスを掴んだ時、彼は苦しんでいた。
つまり、人間の聖なる祈りの力は、魔族にとって毒になる。
かたや、魔族にとっての良質な魔力は、人間にとって毒になる。
ヴィーナスは食べながらも、そう教えてくれた。
「……そうだったんだ」
「『解したか? 人間』」
ブーミダの問いかけに、小さく頷いた。
壁の生む影は、魔族にとっての栄養。
生活の源。
今までの私の拳が、その土地に潜んでいた魔族の暮らしを、意図せず壊していたのかもしれない――。
「でも、ミュウルさん! ライガ・マナ村の時は、壁が生んだ影が村の子どもに悪さをしてたじゃないっすか」
たとえ魔族にとっては糧だったとしても、人間にとって影が脅威だったことは間違いないはずだ。
だから、私のしたことに罪悪感を感じる必要はない。
ギザールはそう言ってくれた。
でも――。
「ミュウル様……私、変わってしまったみたいです」
「え……?」
ジェニファは、以前の自分だったら「魔族なんて放っておけばいい」と思ったはず、と口にした。
「でも、私たちは出会ってしまいましたから……人の中で、必死に生きようとしていた彼に」
ジェニファの視線が、ヴィーナスへ向いた。
「……私もだ」
私も、ジェニファと同じ。
ヴィーナスに出会わなければ、自分の中にいつの間にかできていた壁に、今も気づかないままだっただろう。
「『ブーミダは往く』……って、もうっすか!?」
いつの間にか、巨大ミミズは、壁の横に新たな穴を掘っていた。
まともに別れも言えないまま、彼は穴の中に入り込んでしまう。
「……ありがとう、ブーミダ」
壁の守護者だという魔族。
そして、魔族の生活の源だという壁。
壁をしばらく眺めながら、地上に住むバシールたちのことを思った。
魔族にとって大切な壁を、バシールたちは壊すのだろうか。
でも、彼女らはここに魔族が棲んでいることも、壁がどんな意味をもつのかも知らないはずだ。
「あっ、ミュウル様あれ……!」
ジェニファの声に顔を上げると。
純白の翼を羽ばたかせるスーツの人間が、とんでもない速度で上へ飛んでいくところだった。
「ヘリオス……?」
擬態した彼の横顔は、ひどく張りつめていた。
ただ事ではない雰囲気だ。
「ねぇ、ヴィーナス」
まだ影を貪っているヴィーナスに、「水路問題」について何か聞いていないか尋ねると。
「ああ、そのこと? ヴァリナ村の人間が、ずっと止まってた水路工事を進めようとしてるって聞いたけど」
「え……?」
何気ないヴィーナスの言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。
たしかバシールたち「水路工事請負人」は、魔法の障壁のようなものが邪魔をして、水路工事が進まないと言っていたはずだ。
「ミュウルさん、もしかして!」
ギザールがパチンと手を打ったことで、意識がようやく戻ってきた。
「バシールさんたちが壁を突破しようとしてるって聞いて……ヘリオスさんが怒って出て行ったのでは!?」
「……!」
半年も膠着していた水路工事が、なぜ今になって進み始めたのかは分からない。
それでもヘリオスの様子を見る限り、壁に何かが起こりそうなのは事実だろう。
「ミュウル様、地上へ参りますか?」
「うん、今すぐ行かないと……!」
バシールたちを止める理由も、魔族を庇う権利も私たちにはない。
それでも、ヴァリナ村と“底抜け”の未来のことを考えると――足が勝手に先へ進んだ。




