55話 聖女、腕相撲で無双する。
四姉妹と競うように運んだ水を、ようやく下ろしたのは――藁の家が並ぶ田舎町だった。
「『今日の水だ! いつもよりいっぱいだ!』……って、町の人たちが集まってきたっすね」
頭に布を巻いた人たちが、水桶とバシール一家に向かって手を合わせている。
どうやらここでは、水が貴重らしい。
「バシールさんたち、運んだ水を皆さんに毎日配っていらっしゃるのでしょうか?」
ジェニファの疑問に、「うん」と頷いた。
一家の鍛えられた二の腕からは、日々の積み重ねが感じられる。
「ん? ギザール、あれ……」
桶を囲む子どもたちの奥で、立派な金の布をタスキ掛けした人が微笑んでいる。真っ白なヒゲの彼は、バシールを手招きしていた。
「あー、あれは隣町の町長らしいっすよ。子どもたちによると」
「……ふぅん」
この町の人たちは、爪から服まで泥で汚れているというのに。
町長だという彼だけは、洗い立ての布を身体に巻いている。
「ギザール、何の話か聞こえる?」
「『例の計画』はどうなっているのか……とか、『水路のこと』……とか言ってますね」
「水路……」
しばらくの間、ギザールを介して聞き耳を立てていると。
「ミュウル!」
眩い笑顔とともに、バシールが私たちの方へ寄ってきた。
「『さぁて、ミュウルちゃんのおかげで、せっかく今日の分の水が倍になったんだ。美味しいもんでも作ろうかね』」
水運びを手伝ったお礼に、私たちをもてなしてくれるというバシール。
その後ろでそっと町を去ろうとする町長を見比べたが――。
彼らが何の話をしていたのか、今は聞けなさそうだ。
「ミュウル様、もちろんいただきますよね?」
異国の料理に興味津々なジェニファは、すでに姉妹の後へと続いていた。
バシールたちに案内されたのは、藁ぶき屋根の、鮮やかな色の家。
他もそうだが、ここの村の家には壁画が描かれている。
「えっ……お家の装飾、めちゃくちゃ可愛いですわね! あの星の絵はどなたが?」
ジェニファが姉妹と身振り手振りで盛り上がる傍ら。
ギザールはシャツの腕まくり上げて、バシールの料理を手伝いに向かうところだった。
「この地域の香辛料、いちいちミルで引くんっすねぇ!」
外にある集団用の厨房で、バシールとギザールは盛り上がっている。
「……どうしようかな」
絵のことはよく分からない。
料理に関しては、「食材を炭にするから触るな」と、ギザールに釘を刺されている。
とりあえず歩き回って、白地図を少しでも埋めておくか――。
足首で光る紫色の宝石に触れ、オーリウスにでも声をかけようとすると。
家の裏でひとり本を読む、眼鏡の少女が目に入った。
「アシャ、川の方を見てるの?」
「……?」
言葉は分からない。
それでも、ギザールに頼りっぱなしではいられない。
身振り手振りでアシャを指し、三本線で地面に川を描いた。
ちゃんと、ヘリオスたちの棲む大穴も含めて。
「……っ!」
アシャは目を丸くして絵を見つめ、ちょっとだけ頬を染めた。
「ん……?」
どうしたのだろうか――ただ、川を描いただけなのに。
「……穴の存在、知ってるのかな」
彼女は本をぎゅっと抱きしめるだけで、答えてくれそうにない。
端が擦り切れた本の表紙には、ツノの生えた人型の生き物が描かれていた。
「もしかして、アシャ……」
ここに魔族が棲んでいると知っているのでは――。
そう尋ねようとした、瞬間。
アシャは立ち上がり、厨房の方へ向かっていった。
「ミュウルさ~ん! ご飯できたっすよ」
「え……もう?」
アシャを手伝い、色鮮やかな料理を家の中へ運び込んだところで。
「『遠慮なく食べとくれ!』」
豪快に――というより、取り合うように食べる姉妹たちに混ざり、香辛料の香り漂う揚げ物をいただくことになった。
薄く平べったいパンもあるが、オレンジ色のパラパラした米料理も気になる。
「いただきます……」
まずは腹ごしらえから。
姉妹たちに負けないよう、いただけるものを大体取り終えたところで。
「バシール、どうして水辺の側に住まないの?」
さり気なく尋ねてみると、彼女は一瞬手を止めた。
「『ここは先祖代々暮らしてきた土地だからね』」
笑っているのに、額のシワだけは消えていない。
「……そっか」
便利かどうかだけが、判断軸ではないらしい。
「バシールさん……」
いつも会話を回してくれるギザールも、アゴに手を当てて考えている。
食卓が静かなまま、「ごちそうさま」を口にしようとした、その時。
空になった大皿を手に、バシールが立ち上がった。
「『さぁて、やるかい? 力自慢大会とやらを』……って、本気にしてたんっすか!? 『だったら腕相撲にする?』……って、長女さんまで」
アシャ以外の姉妹たちは、腕を回し始めていた。
「どうなさるのです? ミュウル様」
ここで断ったら、たぶん後で後悔する。
彼女たちのしなやかな筋肉がどれほどの力を秘めているのか、実はずっと気になっていたのだ――。
「だったら……やるしかないか、腕相撲」
最近出番の少なかった拳を鳴らし、肩を回した。
「でしたら、私が審判を務めますわ!」
「ジェニファさん、アンタまで……」
まさか未知の土地に来て、腕相撲をやることになるとは思いもしなかったが――こういう力勝負に対してノリの良いジェニファの合図で、バシール家の腕相撲大会が開幕した。
「『じゃあ、年が若い順からミュウルさんに挑んでく?』って……もう勝手にしてくださいって感じっすよ」
溜め息を吐くギザールに背を向け、まずは短髪の四女と向き合った。
まだ10歳前後というところか――利き手ではない左をテーブルに乗せ、彼女の小さな手を握ると。
「頼みますから、傷害事件だけは起こさないでくださいっす」
「はいはい。ギザールは黙って見てて」
とは言ったものの、骨を折ってしまう可能性もなくはない。
とりあえず小指一本を差し出したところ、四女は顔を真っ赤にして小指を押してきた。
「……ングググ! ハァ……ッ」
それでも申し訳ないが、手首が返る様子はなかった。
ついに諦めた彼女の手を離せば、こちらを指さして何かを言われた。
「『怪物並み』……だそうっす」
「おお」
ぱっと見の印象として、申し訳ないが、姉妹全員本命ではなかった。
次の三女も、左の人差し指と中指二本ですぐに勝負はついた。
「さっすがゴリ……ミュウル様!」
ジェニファが大興奮する中。
「『そんな野蛮なの、あたしはパス』……って、アシャさんは不参加っすか」
アシャは壁の方を向いて、また読書をしていた――表紙に翼のある生き物が描かれた、あの本だ。
「ミュウル様、抑えてくださいっ……!」
「あっ」
ジェニファの声に弾かれ、思い出した。
いまは長女と、三本指で戦っている途中だったのだ――。
でも。
まだ勝負はついていないのに、長女は腕を下ろしてしまった。
「『アンタがよそ見しても、びくともしなかったから』……って、長女さん棄権っす」
力比べに無関心なギザールの背後から、「ふんっ」と声が響いた。
そして。
ついに前へ進み出たのは、一家の大黒柱バシールだ。
「『母ちゃんがウチで一番に決まってんだろ?』」
バシールのはち切れそうな二の腕を見て、身体が震えた。
左ではダメだ。それに今度こそ、ぜんぶの指を差し出すと――ズシンと重みを感じる指が、手に絡んだ。
「『アタシに勝てたのは、亡くなった夫くらいさ』」
「……じゃあ、そこに私も入るね」
これまでの姉妹とは、空気が違う。
魔力を持っていないはずのバシールから、圧を感じる。
「それでは、レディー……ファイッ!」
ジェニファの手が離れた、瞬間。
テーブルの中央にひびが入った。
「っ……!」
肘が木材にめり込んで、テーブルが今にも壊れそうだ。
「『お母さん! それ今月換えたばかりのテーブル!』……って、アシャさんお怒りっす!」
それでも、決して力を抜けない。
「ふっ、ぐっ……!」
バシールの強さは、私と違って腕力頼りではない。
全身の使い方がうまい。何より、腕相撲の技術が高すぎる。
「くっ……」
呼吸をしたら負ける。
でも――楽しくて、この瞬間が終わってほしくない。
川のことも、ヘリオスのことも、この一瞬だけはどうでもいい。
「……ミュウルさん?」
「ミュウル様、笑っていらっしゃいますねぇ」
握った手が、完全に中央で止まったまま――勝手に口角が上がるのを感じていると。
「『失礼します』」
どこかで聞いた声に、楽しかった頭が冷めていった。
「え……?」
バシールの手の力が抜けていく。
扉の方を向いてしまった彼女の視線を追うと――。
「『水路工事請負人のバシール様、いつもお世話になっております』」
気味が悪いほどキレイな笑顔で立っているのは、どこかで見たスーツの男。
あの病的に白い肌と銀髪、それに目立つ赤眼は――。
「『ヴァリナ川大穴の住民代表――ヘリオスです』」




