51話 東への帰郷
首相サバートの傍らで微笑む、飾りのような女性。
最初に見たシェリーンの印象は、そんなところだったのだが――。
「あなた、起きなさい。情けないですよ」
ヴィーナスの鐘の音で失神していたサバートの頬を、彼女は容赦なく叩いている。
「どういうこと……?」
いつだったか、彼女と話をしたというジェニファを振り返ると。
「実はシェリーンさん、前首相の娘さんだそうでして」
「えっ……!?」
先に声を上げたのは、ギザールだった。
「……っ、ここは……?」
「あ、サバート目覚めた」
私の後ろに隠れるヴィーナスを発見した途端、サバートは顔色を変えた。
「よくも逆らったな」、「魔族は追放する」などと弱々しく吠えるサバートに対して――。
「それ以上喋るなら離婚ですよ、あなた」
「……っ」
口元を覆う布を揺らし、シェリーンが近づいていったのはギザールだった。
どうやら昨日の話を聞いて、彼が交渉役の要だと気づいていたらしい。
「私はこれまで夫に従い、盗品の魔道具を買い取っていました」
目を伏せ、彼女は静かに言った。
「その盗品ってのは、ヴィーナスくんに仕入れさせてたんっすよね」
「ええ……ですが」
その罪を政治で償いたい。
彼女は黙り込んでしまったサバートを一瞥し、提案した。
よその技術を盗むのではなく、正式に修道国との交易ルートを設けたいと。
「あなた方……魔導測量士さんの望みは、地図作りの拠点契約を結ぶことでしたね」
そのための契約条件として、できる限りの好条件を出したい――シェリーンの言葉に、ギザールは肩をすくめた。
「首相の奥さんに、そんな権限あるんっすか?」
「……前首相は、私たち夫婦に統治を委ねました。彼は元技術者、私は父の政治を幼いころから手伝っていたので」
サバートの補佐として、時には正しく都を守るように。
父の教えを、彼女は今こそ守りたいと言う。
「……どうする、ギザール?」
私は彼女の目に嘘はないと思う。
それでも、ギザールは私が思い至らないところまでいつも考えているから――そう訊ねると。
彼は座り込んだままのサバートと、背筋を伸ばして立つシェリーンを交互に見比べた。
「でもアンタは、これまでサバートさんの悪行に加担してたわけっすよね? 急にオレらに譲歩するのは、己の保身のためっすか?」
「それは彼女に失礼ですよ、ギザールさん」
助け船を出したのは、私の隣の彼女――まだ少しふらついているジェニファだった。
そういえば。シェリーンと最初に言葉を交わしたのは、ジェニファだったはずだ。
「彼女は最初から、夫とではなく自分と交渉して欲しいと、私に打ち明けてくださったのです」
(昨日、そんなことを話していたのか……)
「しょせん、私は政治家の娘です。政を行う夫を支えることに徹してきました。ですが……」
自分でも気づかないうちに、どうにもならない事態になっていた――と、彼女は深く頭を下げた。
「愛する夫に逆らえず、魔族を縛り付けるような行動に加担していること……罪悪感すら麻痺していたのですが……そこへ、外からあなた方が現れたのです」
修道国の人間でありながら、魔族のヴィーナスに釈明の余地を与えたこと。
そうして首相官邸まで付き合った私たちに、何かが変わる予感がした――シェリーンの真っ直ぐな視線に、目を奪われた。
同じだ。
ヴィーナスの白い翼と同じ。
彼女も本当に、何かが変わったのだ。
「そんな都合良いこと今さら言われたって……! ねぇ、ミュウルさん」
「いいよ、ギザール」
彼女がどういう意図で積極的になったのか、真実は分からない。
それでも彼女は、一度だってヴィーナスをまっすぐに見なかったサバートとは違う。彼女はヴィーナスを見ていた。声をかけることはなくとも。
「シェリーンがこれまでどうしてたかじゃなくて、これからどうするか……見てみよう」
不満顔のギザールを見上げると。
沈黙していた彼は、やがて深いため息を吐き出した。
「あー。はいはい、アンタはそういう人っすからね」
「正式な契約を交わすならまぁいいでしょう」と、ギザールは魔石を取り出した。
あれはたしか、“魔の割符”というのだったか。
シェリーンの手にギザールの手が重なると、石が真っ二つに割れた。
貿易中継都市ラヒムザードと修道国の間で、またひとつ地図作りの拠点契約が成立したのだ――。
これで三つ目の大きな足跡が、オーリウスの見守る白地図に刻まれたことだろう。
「……ミュウル、行くならそろそろ」
「うん……!」
東に帰省するというヴィーナスは、ためらいなく翼を広げた。
彼の身体からボコボコと黒い泡が吹き出し、また彼の姿が黒い天使へと変わっていく。
そんなヴィーナスの様子を、シェリーンは瞬きもせずに見ていた。
「もう、行くのですね」
『……安心しなよ。もう二度とここには戻らないからさ』
シェリーンは無言で頭を下げた。
それでも、床に座ったままのサバートは俯いたままだった。
「……」
でも――何を思ったのか、サバートは立ち上がり、執務室の壁に飾られていた巨大な宝石を手にとった。
「……これまで働いた分の報酬です」
サバートがそっと差し出した宝石を、ヴィーナスは無言で受け取ると。
彼に背を向け、私たちに手を差し伸べた。
『それじゃあ行こうか。ボクの故郷に』
「……うん」
これで良かったのかもしれない。
ヴィーナスとサバート――彼を閉じ込めていた籠との最後は。
シェリーンに丁寧なお辞儀をするジェニファ、まだ気を緩めていないギザールのふたりを両腕に抱え、天使の背中に飛び乗った。
「それじゃあ、ヴィーナスの本当のホームまで、よろしくお願いします」
『うん、任せてよ』
粉々に割れたガラス窓から、ヴィーナスの巨体が羽ばたいた瞬間。
もはや聞き慣れた悲鳴が上がった。
「うううう気持ち悪いいいい!」
「ギザール、下見ないで」
「こらそこ! ミュウル様に触らないでください!」
ギザールに噛み付きそうな勢いのジェニファに、「またか……」とため息を吐きそうになったけれど。
「あれ……?」
ジェニファが、震えるギザールの背に手を添えている。
「……」
あんなに気まずそうだったのに。
この二人はこれでも、うまく距離を縮めているのかもしれない――。
無意識なのか、ジェニファの腕に縋っているギザールの姿に、微笑んでいると。
「それはそうとミュウル様、何か忘れてません?」
「何かって…………あ」
『天使の件はなんだか面倒そうだし、僕はその辺で時間潰してるよ』
最後に聞いた、エリアスの声が響いた。
「このまま逃げられるなら、もう会わないほうがいいよね」
「はい! 全力で同意です」
彼は私に対して、誠実になろうとしているのかもしれない。
でも、まだそうはなれていなかった。
いまは彼のことを忘れて、上空からの景色を楽しもう。
『ミュウル、あれ見て! 砂漠が終わるよ』
「あ……ほんとだ」
私たちを乗せて飛んでくれている彼。
初めて出会った魔族が、ヴィーナスで本当に良かった。
砂漠の海にいるよりもずっと、森の上を飛ぶ彼が生き生きと見える。
『……はぁ、やっと復旧できました』
耳元からの突然の声に、肩が跳ねた。
「オーリウス……!?」
そういえば、ヴィーナスとの戦闘中、無理やり回線を切ったのだった。
『貴女たちは現在、東に向かっていて……これまでとは比べ物にならない速度で移動しているみたいですね』
「みたい……?」
彼にしては、ずいぶんと曖昧な言い回しだ。
でも、『白地図に足跡は残っていない』という彼の言葉を聞くと。
「あっ、そっか!」
私が地面を歩いてないから、足飾りが働いていないのだ。
世界の隅から隅まで歩いてやるつもりでいたのに――。
『心配には及びません。上空で得た情報も、着地地点を基準に補正されます。貴女が地上に降りれば、この白地図にも反映されるでしょう』
「おお……? 魔導すごい」
『ミュウル……さてはよく分かっていませんね?』
跳ねた胸を押さえ、地上に視線を落とすと。
「うわっ……! なにあれ!?」
いつの間にか見えていたのは、黒い水の流れる巨大な川だった。
人や獣の姿が見えないほど上空からなのに、川がとんでもなく広く見える。
「うひゃあー、これは相当でっかい川っすね! 流域面積は、修道国の川ぜんぶ集めても足りないくらい広いかも」
「……」
それよりも、ゴリラ並みの視力がある私は気づいてしまった。
樹海の中に突然現れた、底の見えない巨大な空洞。
黒い川の水は、あの中へ流れ落ちているみたいだ。
『気づいた? ボクの実家はあの中だよ』
「え……?」
家といっても、巨大な滝が流れ込んでいる穴にしか見えない。
いったいどうやって入るのか――口を開きかけた、瞬間。
「わっ……!」
身体が大きく傾いた。
ヴィーナスはためらうことなく、穴の中へ真っ逆さまに落ちていく。
『ようこそ、魔族のホームへ』
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次回、5章 人魔の洗濯川 ―ヴァリナ―開幕より、毎週【火・木・土】朝7時の更新となります。
次の地では、“壁”の意味が大きく塗り替わります。
そして、人間と魔族が抱える問題の鍵を、ミュウルたちが握ることに――。
引き続き、彼女たちの旅を見守っていただけましたら嬉しいです。




