50話 舞い上がる翼
青空に溶ける純白の翼――その力強さに、目を奪われた。
ヴィーナスの姿は巨大化したままなのに、別の存在へと生まれ変わったかのようだ。
『ミュウル、きて』
「え……わっ」
黒い腕に抱えられ、これまで見上げていた空へ浮かんだ。
「すごい……」
前の私どころか、今世だって飛ぶのは初めてだ。
塔から落ちている時とは違って、爽やかな風が頬を打つ。
「ヴィーナス! 都がぜんぶ小さく見えるよ!」
つい、普段出さないような声を出してしまった。
真下には、白い建物と人の詰まった市場が、小さな模型みたいに並んでいた。さっきまであれほど高く見えた塔も、ただの細長い影に見える。
彼らを閉じ込めていたはずの街が、空から見るとこんなにも小さい。
『うん……そうだね』
私を抱えている彼の腕に、少しだけ力がこもる。
『ボクもすごく嬉しいよ。久々に飛べたんだ』
少し震えた声に、修道院の外に追放された時のことを思い出した。
あの時は、外に出られたことを踊って喜んだけれど――ヴィーナスもいま、そんな気持ちなのだろうか。
それにしては、どこか沈んでいるようにも見えた。
「ヴィーナス、どこか痛い?」
空中で止まったヴィーナスの顔を見上げると。
『ごめん』と、消えそうな声が降ってきた。
『あんな奴を守らせるために、キミを傷つけた……許されるなんて思ってないけど、本当にごめん』
「……ヴィーナス」
空中散歩で、すっかり忘れていたが。
肩には血のにじむ噛み痕が、たしかに残っていた。
「わりと痛かったけど……平気。私、ゴリラ並みに丈夫なのが取り柄だから」
するとヴィーナスは、『ごりら?』と首を傾げた。
『あっ』
彼が指す先には、花びらや薄膜のような翼を広げた者たちが飛んでいた。
ヴィーナスと似ているけれど、顔や形がまったく違う。
「あれは……魔族?」
『うん。ボクと同じ、この都市で働いていた魔族さ』
青空に飛び上がった数十体の魔族は、四方八方に飛び去っていく。
「すごい……色々な形の翼をもってるんだ」
『そりゃ、キミたちの髪や目の色が違うのと同じだよ。アレが壊れたおかげで、本来の力が出せるようになったんだ』
『ほら』とヴィーナスが指したのは、さっき私がぶっ壊した塔だった。
『サバートが話してたと思うけど……あれ、ボクらの力を抑えるためのカセだったから』
オアシス公園に横たわる、文字の刻まれた塔。
最初にこの都へ入ったときに感じた、あの塔からあふれる聖力。
それが今はまったく感じられない。
『ボクらにとって、人間の“聖なる力”とかいうのは毒なんだ』
「……そっか」
すると、私が聖力に覆われた手で彼を抱えた時、やはり痛かったのだろうか。
「ごめん」と囁いたところで、彼は魔族たちが見えなくなった空を見上げた。
『……ボクも家族のところに帰るよ』
「家族?」
『うん。東に、たくさんの魔族が暮らしてる川があるんだ』
「東……」
彼の向く先を視線で追っているうちに、「行ってみたい」と声がこぼれた。
世界を回るのに、きっと魔族を避けては通れない。
たしかに存在した彼らを、この目で見なければ――私の思う地図は完成しない。
『なに、ミュウルも来るの?』
「うん……だってさ」
私は一瞬でも、彼を怖いと思ってしまった。
だからこそ、魔族に会いに行かなければ。
彼らも、この世界の一部なのだから。
「おーい!」
無残にガラスの割れた首相官邸塔から、元気な声が響いた。
「ミュウルさん、ヴィーナスさん! ちょっとこっち、来てくれません〜?」
「ギザール……?」
驚いた。ヴィーナスが塔の中に降り立つと、目覚めたギザールが、まだ気絶しているジェニファとサバートを介抱していたのだ。
「もう身体は平気なの?」
「あー、なんとか。ヴィーナスくんの方も落ち着いたみたいっすね」
『……』
ヴィーナスの巨体から、白い鱗のようなものが剥がれていく。
やがて彼の身体は、元の子どもの姿に戻っていった。
久々に見る顔に、ほっと胸を撫で下ろした。
やっぱり、彼は彼のままだ。
「……ギザールも、ボクのこと怖がらないんだ」
「ん? そりゃ、ミュウルさんが一緒っすからね」
絶対に守ってくれると分かってるから、どんなものが来ても怖くない――。
そう言って片目を閉じるギザールに、思わず頬を緩めた。
「……あれ?」
何も変わっていないと思ったのだけれど。
私の隣に並ぶヴィーナスの背が、明らかに伸びている。あごの下にあった頭の位置が、目の高さにまで。
「ボクらは人間と成長の仕方が違うから。老いる速度もね」
「ふーん……」
魔族の見た目と年齢は、人間と基準が違うということか。
「あれ……?」
こんなことが最近あったような――少しだけ成長したヴィーナスを、まじまじと眺めていると。
大事なことを思い出した。
「あっ、そうだギザール」
次はこのまま東に向かいたい。
そうと提案すれば、ギザールも「賛成っす」と深く頷いてくれた。
「地理的に正解ってのもありますけどね。魔族が本当に生きてるなら、彼らの声も聞かないと」
「うん……そうだね」
あとは、意識を失っているジェニファが賛成してくれるかどうかなのだが――。
「……ミュウル様が、そうおっしゃるのなら」
「ジェニファ……?」
目覚めてぼうっとするジェニファの肩を、とっさに支えた。
顔色は悪いが、どこかスッキリした笑顔を浮かべている。
「……ジェニファ、ボク……」
ヴィーナスのか細い声に、ジェニファは顔を背けた。
それでも――。
「この生意気な小鳥さんが、ちゃんとまっすぐおうちに帰れるのか……見届けなければなりませんし」
「ジェニファ……」
相変わらず素直ではないけど、彼女も東へ一緒に向かうと決意してくれた。
「……そんなんで、これから大丈夫なんっすか?」
「余計なお世話です。ミュウル様の足手まといにはならないと決めたので」
ジェニファとギザールは、相変わらず互いの顔を見ようとはしない。
それでも、ピラミッドを出た時よりは口調が柔らかくなっているみたいだった。
「でも、どうしましょうね」
「なにが?」
ギザールは、サバートを横目に、風通しの良い窓の方へと向かっていった。
「オレ、目ぇ覚めて一番に気づいたんっすけど……ミュウルさんアンタ、この都市のシンボルタワーぶっ壊しましたね?」
「……っ」
心臓が、ひゅっと縮んだ気がした。
(やっぱりマズかったか……)
「いくらヴィーナスくんのためとはいえ、どうするんっすか!?」
首相と険悪になっちゃった、拠点契約どうしようと、ギザールはわめき散らしている。
「聞いた感じ、この辺ではここが一番大きな都っぽいんです。地図作りの拠点に絶対押さえておきたかったんすけど……つかそれ以前に、賠償ってなったらいくら請求されるか分からないっす!」
「それは……」
自分のしたことの重さを、今さらながら実感する。
でも、後悔はしていなかった。
今のヴィーナスの晴れた表情を見れば、「やって良かった」と強く言える。
「ヴィーナスさん、サバートさんが起きる前に記憶とか消せないのですか?」
ジェニファの非道な質問に、「残念だけど」と、ヴィーナスは首を横に振った。
「ダメだよ。ボクに関する記憶しか消せないんだ」
「……そっか」
やって良かったが、責任は取らなければ。
こうなったら、新しい塔を作り直すしか――。
「失礼いたします」
初めて聞く、穏やかな声を振り返ると。
「その件に関しては、私がサバートの代わりにお話ししましょう」
ガラスの散乱する書斎に立っていたのは、黄金のドレスを着こなす女性――首相の妻シェリーンだった。




