49話 聖女、籠を砕く。
『ミュウル、目を開けろ!』
「……っ」
声に弾かれ、足が動いた。
「私、いま……」
目の前の黒い天使が響かせる音に、頭と身体が縛られていた。
オーリウスの声がなければ――あの鋭い翼に、首を刎ねられていたかもしれない。
『距離を取りましたか? そのまましばらくは、相手の様子をうかがいなさい!』
魔族との戦いならば心得ている。
そう言って、オーリウスは耳飾り越しにも分かるほどの、張りつめた息を吐いた。
「彼はどうしちゃったの……?」
ヴィーナスの外見が、子どもから怪物のように変化した。
息を整えながら、そう話すと。
『……羽化か。まだ子どもの姿だったのなら、あれはサナギに近い状態で――ミュウル避けろ!』
「えっ……」
頬に風を感じた、その瞬間。
ゾッとするような気配に押され、身体が上へと跳ねていた。
いま、私がいた床に、鋭い翼が刺さっている。
『みゅうミュウウル、だいじょうぶ』
彼は何度も繰り返している。私を殺しはしないと。
それでも。
私が避けると、気絶しているサバートたちの方に翼の刃が向かってしまう。
『ミュウルルル、お願い、ダ。ぜんぶ、おワラせよう』
「ヴィーナス……」
砂漠の大都市で、豪華な籠に入れられていた男の子。
そして、私にとっての彼は――。
「……」
まだ、言葉が出てこなかった。
『いいですか? 相手の攻撃範囲と行動パターンをある程度掴むまでは近づかないように』
「……うん」
ほっとするようなオーリウスの声を聞きつつも、頭では分かっていた。
ヴィーナスを落ち着かせるには、ここだと限界かも――と。
「……よし」
背後で倒れるギザールたちを一瞥し、ヴィーナスに一歩近づいた。
距離が近くなるだけで、肌がぞわっとあわ立つ。
「ごめん、オーリウス」
『はい?』
「近づかないは無理だ」
『ミュウル……何をするつもりだ? 答え――』
まだ言葉の途中だったけれど、耳飾りの通信装置を切った。
いまはヴィーナスと向き合わなければ。
それにしても。
彼の顔面を流れる黒いドロドロ、やっぱり影みたいだ。
念のため、両手を聖力の白い波で覆った。
「……行くよ」
深く息を吸った、直後。
割れた床を強く蹴り、巨体の腰を掴んだ。
『あああイタい! ミュウルる、イタイよ』
「……っ、ごめ、んっ」
息を吐き出せば、潰れそうな重さだ。
それでも全身の力を振り絞って、ヴィーナスを肩に担いだ。
そのまま割れたガラス窓を振り返り――。
「くっ……っ、はぁぁぁ!」
ヴィーナスごと、外へ身を投げた。
『な、ナな、ナニ?』
激しい風の音に混じって、ヴィーナスの不安げな声が聞こえてくる。
「ヴィーナス、大丈夫だから」
とにかく今は、彼をサバートから引き離さなければ。
このままでは、彼が背負わなくても良いものを背負ってしまう。
純粋で寂しがりなだけの彼が、やっぱり人を喰らう魔族だったなんて――誰にも言わせない。
「大丈夫、落ちても絶対に受け止めるから……」
肌を焦がすような太陽に照らされる中、逆さまの街が見えた。
それに、彼を縛っていたという無数の塔も。
『はなしテよ、痛いいたいよ』
「……!」
尖った翼の縁が、私の身体を細かく刻んでいく。
ひりつくような涼しい痛みが、全身に広がっていく。
でも、殴れない。
彼は私を“ミュウル”だと分かっている限り、彼が自分を抑えようと必死な限り、私は彼を傷つけない。
「……そろそろ、受け身を取らないと」
軋む身体をねじり、私たちの落下を見守っていた塔に向き直った。
手や足をかけて止まるのは――だめだ。
止まる前に、手足が焼け落ちる気がする。
「だったら……ヴィーナス!」
『……!』
手に纏わせた聖力を打ち消す。
それと同時に、彼の片翼を、文字の刻まれた白い塔壁へと突き刺した。
翼が壁を裂きながら落下する最中――少しずつ、勢いが落ちていく。
「やった!」
でも、地面に足が着く直前。
今度は肩に、鋭い痛みが走った。
「ぐっ……」
光る輪っかの浮かんだ頭が、真っ二つに割れて――中からのぞく黒い歯が、私の肩に食らいついていた。
「ヴィーナス……?」
『痛い……こわい……ミュウルるる、サバート守った。アレと、おなじ。食べて……ナくすしか、ない』
「……!」
私が彼をサバートから遠ざけたことを、彼はそう捉えたみたいだ。
実際、その通りなのだが――。
それだけではない。
肩に食い込む歯をそのままに、震える息を整えた。
「ヴィーナス、聞いてほしい」
さっき、塔の上で彼が訊いたこと。
『人間にとって、魔族は本当に悪者なのか?』
あれの答えを、彼に示さなければ。
たとえどんな形でも――。
「魔族が人間にとって悪い存在なのか、まだ分からない」
『……っ!』
オアシスの真ん中に降り立った、黒い翼の歪な天使。
自分を利用する大人を憎み消そうとする、魔族の子。
「正直、今のあなたの外見は……私たちと違うとは思う」
それが、今の彼を目の前にした、偽りのない言葉。
でも。
「あなたを信じるかどうかは、今この瞬間決める」
『エ……?』
「あなたが本当に私を食べるのか。いま確かめるよ」
こんな痛み、初めてだった。
肩に走る、肉の割けそうな痛み。それと胸に食い込むような痛みが、響き合っている。
今すぐ彼を殴って、走り出したいけれど。
じっと、こちらを見下ろすヴィーナスの顔を見つめた。
『…………』
目も鼻も口もない彼から、視線を感じる。
たぶん、彼は強い。
彼がそうしようと思えば、いつでも私を食べてしまえるはずだ。
大聖女様から聞いていた、話の中の魔族みたいに――。
『……うっ』
「え……?」
いま、彼の顔から何かが垂れてきた。
冷たくて黒い滴が、次々と私の頬を打って流れていく。
「ヴィーナス……」
「泣いているのか」と訊ねても、返事はない。
代わりに、彼の口が私の肩から離れていった。
『ウぁァ……』
遠くに聞こえる市場の喧騒と、オアシスを焦がす日差しの音が、やけにはっきり聞こえる中。
彼は黒い涙を落していた。
『ミュウル……ボクはずっと、飛びたかったんだっ……でも、ここから出られなくて……もう諦めてた時に、キミが来て……』
「ヴィーナス……」
彼の言葉が、流れるようにこぼれていく。
姿はそのまま黒い天使だけれど、中身は元の彼に戻ったかのようだった。
『キミだけだったんだ……だから、絶対にキミは傷つけたくなかったのに……ごめん……っ』
血のにじむ肩に、触れそうで触れない指先が向けられる。
後悔と一緒に、「触れてはいけない」という恐怖が伝わってくるみたいだった。
「……分かったよ、ヴィーナス」
拳を握り、彼に背を向けた。
『え……どこ、行くの?』
晴天を遮る、文字だらけの塔。
オアシス公園の真ん中に立つこれが、この都で一番高いはずだ。
その真下に足を進め――拳を構えた。
今から殴るのは、障壁でも穢れ獣でもない。
たぶん、やったら拠点契約を結べなくなる。
それでも――。
「こんな塔、空を見上げるのに邪魔だ」
塔の一番太い支柱に、軋む拳を叩き込んだ。
『……!』
塔の表面が少しずつひび割れ、土壁が崩れていった。
『すごい……塔を、壊しちゃった』
最初にラヒムザードを訪れた時、感じた違和感――塔が帯びている聖力が薄れた気がする。
都を覆っていた、白い光の膜まで溶けていく。
『ミュウル』
静かな声を見上げると。
「あ……」
さっきよりもずっと青い空の中。
控えめに微笑む天使が、真っ白な翼を広げていた。




