4話 追放聖女、壁と出会う。
勇者の息子を殴った。
後悔はない。
大聖女様との面談で、最後にそう告げた直後。
私が放り込まれたのは、屋根も食事もない大森林だった。
「ごめんね。修道国では、上流階級に暴行を加えた者は追放なんだ」
そう言って笑うのは、真っ赤な頬をさらした勇者の息子。
「凶暴な影が出るってウワサの森だけど、君なら大丈夫だよね」
「……」
殴られた相手を見送りに来るなんて、ずいぶん暇なんですね――そう返したいのを、ぐっと呑み込んだ。
「今度は従順な聖女を探すよ」と、エリアスが薔薇の紋章のローブを翻したところで。
「……ぶはぁっ、何とか耐えられた」
口を覆う手を離した、瞬間。
『ミュウル様、行かないで!』
修道院の門を出る時の、ジェニファの声がこだました。
「ごめんね、ジェニファ……でも」
私にとって、何もないこの森は――。
「っし! 塀がない! 私、修道院の外にいるんだっ……」
沈みかけの夕日へ腕を突き上げる。
今ならどこへ行こうと自由だ。
「ふぅぅぅ! どこへ行こうか、なっ!」
独創的な踊りを、森の小動物たちに披露し終えたところで。
腹の音が鳴り渡った。
「……とりあえず、お腹減ったな」
木があって動物がいるなら、食べられる実くらいあるだろう。
風に揺れる木々の奥へ、苔むした道を踏みしめ進んでいくと。
「あれは……」
開けた崖に佇むのは、ツタの絡まる岩。
「魔王討伐隊・勇者旅立ちの地」と刻まれた、白い石碑だった。
その隣には、海の遥か彼方を見つめる、鎧の像が鎮座している。
「こんなところにも勇者像があるんだ」
雨風に削られた顔が、どことなくエリアスと似ているのがムカつく。
それは仕方がないとしても。
「勇者は、どんな景色を見てきたのかな……」
人を食べる魔族を、すべて滅ぼした英雄――そう教えられてきた彼は、きっと修道国にいては一生できない体験をしてきたのだろう。
「私は……外を見ることすらできなかった」
無意識のうちに呟き、勇者像に触れた、その時。
目の前に、ザザッと歪みが走った。
「今の……!」
修道院の壁画前で見た、あの光景と同じ。
そう、気づいた途端。
風の音が止んだ。
勇者像が消え、森の木々が倒れて。
残ったのは、暗闇に浮かぶ“灰色の窓”だった。
『ここは……』
自分の声が、遠くから響いて聞こえる。
『そうだ、私は……』
思い出した。
あの灰色の窓。白いカーテン。
“前の病室”から見えたものだ。
『あなたの病気は、転んで血が出るだけで命に関わるの』
“前のママ”の声が、薄暗い天井に反響した。
走ってはいけない。
外へ出てはいけない。
『そっか……』
私、前は病室で死んだんだ――。
行きたい場所を、雑誌のページと地図の上でなぞるだけで。
コンクリートの壁に囲まれたまま、私の人生は終わっていた。
そう気づいた、瞬間。
誰もいない病室に、黒い影のようなノイズが走った。
『××、苦しいのか……?』
ベッドの横に現れたのは、黒塗りの顔。
『次は外へ出られるようにしておいた……少し、やりすぎたかもだが』
何のことを言っているのか。
問いかける間もなく、目の前の病室が歪んでいった。
顔がよく見えない“誰か”も。
「…………あれ?」
いつの間にか、私は勇者像を見上げていた。
18年間祈りを捧げ続けた彼は、何事もなかったかのような顔で、海の向こうを眺めている。
「……私、前は外を歩くこともできなかったのか」
でも今は、顔を上げれば暖かい風が頬を打つ。
肺いっぱいに、緑の匂いを感じることができる。
「この丈夫な身体さえあれば、私はどこまでだって行ける……」
前の私は、旅雑誌をめくるたびに願っていた。
こんな景色を、自分の目で見てみたいと。
それが叶うかと思うと、両足が疼く。
「とりあえず、向こうの大陸に渡れないかな」
勇者が冒険に旅立ったとされる、あちら側。
かなり遠くに見えるけれど、今の私なら泳いででも行けそうだ。
「よしっ」
軽く柔軟を終え、群青にきらめく海へ飛び込もうとしたところ。
「痛っ!」
額に何かがぶつかった。
何もないはずの目の前に、手を伸ばしてみれば――指先に、硬く冷たい感触がある。
「なんだこれ」
半透明の何かが、目の前に高くそびえていた。
「……まさか、これがあの壁?」
修道院からは、もっとはっきり見えたはず。
でも近くでは、ほとんど見えない。
空も、海も、向こうの大陸も見えている。
それなのに、行けない。
「せっかく修道院を出たのに……」
分かってはいたことだけれど、胸の奥が軋んだ。
病室の窓。
修道院の塀。
そして、世界を隔てる壁。
いつも私の前に、邪魔な何かが立ちはだかる。
「……よし、ぶっ壊すか」
叩けばコツコツと音がする。
ガラスのような素材なのだろうか。
これさえ越えれば、本当に外の世界へ行けるのだ――正体不明の影を消せた今、どんな物でも殴れる気しかしない。
希望に震える拳を、握り締める。
息を吸い、目を開いた。
「ふっ……!」
一点集中の本気。
でも――ひらひらと半透明の波が立つだけで、壁はびくともしなかった。
「……なんか、避けられてる?」
何度やっても変化はない。
布をひたすら殴っているような感覚が返ってくるだけだった。
「殴るのじゃ、ダメ……?」
ただ、そっと手を添えてみると。触れたところが、ピリピリと焦げるように痛んだ。
「力以外の破り方があるのかな? でも……」
どうしてこんなところに、こんな壁があるのだろう。
壁画の地図は、“前の世界”とよく似ていた。
でも、この世界には壁がある。
同じようで、違う。
「しかも勇者が通った場所なのに……」
遠くを見つめる勇者像を見上げたところで。
森の音がしんと止んだ。
ピリッと、背中に緊張が走る。
「何か……来る」
木々を踏みしめる音。
獣の荒い吐息。
「助けてぇぇぇ!」
木陰から飛び出してきたのは、黒髪の青年。
いや、青年というには少し幼い顔立ちをしている。
でも――違う。
いやな気配を放っているのは、彼ではない。
『ギ……ギギギ……!』
彼を追ってきた巨大な何かが、こちらへ迫ってきた。
刃型の羽を打ち鳴らしている――杭を打つように、カチカチと音を立てて。
「あの羽虫……“影”!?」
間違いない。あの獣型の影と同じものだ。
実体のなさそうな黒い身体。
でも、あの刃みたいな羽だけには、はっきりと殺意が込もっている。
「少年、こっち!」
「あっ、アンタは……とにかく危ないから逃げて!」
横を通り過ぎていった彼は、大量の古本を抱えていた。
「何してんすか!? おねーさんも早く!」
足を止めた少年の背を押し、迫る“虫の影”を振り返った。
「私はアレ、ぶん殴ってくるから」
「なっ……そんなの無理っすよ!」
力で殴るだけでは無理かもしれない。
でも――。
「これでも私、“ゴリラ聖女”なんで」
呼吸を深くして、なけなしの聖力を絞り出した。
今度はひとりでも、あの影を殴り倒してみせる――。




