43話 天使の豪邸
首相と友だちの天使は、何だか暗い顔をしていたけれど――。
「わわっ、すげーっす! なんすかこの豪邸!」
都の富裕層の住む、アブダバル区。その中心部に建つヴィーナスの家を見上げ、ギザールは倒れそうになっていた。
「すごいでしょ? おにーさんが一生働いたって、住めるかどうか。ひとりひと部屋全然いけるよ」
ヴィーナスは得意げに言いながら、いくつあるのか分からない部屋を回って紹介してくれた。
砂漠の真ん中にある都で、水風呂付きの家はたしかに贅沢だ。
でも――彼はこんな広いところに、ひとりきりで住んでいるのか。
「ミュウル様! この問題児、貴女と相部屋になると言ってきかないのです!」
ジェニファの叫び声に、思わずため息が漏れた。
吹き抜けの玄関口で、彼女はエリアスと揉み合っているみたいだ。
「僕たち結婚するんだし、別に構わないでしょ。ね、ミュウル?」
「エリアス……」
いっそ見なかったことにして、前で揺れる白い翼を振り返ると。すでにギザールの姿はなかった。
「あのおにーさん、地下室に行きたいなんて変わってるよねぇ。『砂地でどうやって地下構造を作ってるのか』……とか言いながら、行っちゃったよ」
ヴィーナスの苦い顔に、思わず笑いそうになった。
「ギザールはいつもそうだから」
私も早いところ、エリアスに見つかる前に部屋へ入れてもらおう。
それに――少し休んだら、ヴィーナスに聞きたいこともある。
きっとギザールも、彼に袋のありかを問い詰めるだろうけれど。
それよりも今は、首相に会って以来元気がない彼が気になっていた。
「赤髪のおねーさんは色々壊しそうだから、ここがいいんじゃない」
ヴィーナスに続き、足を止めると。
そこは礼拝堂を思い出すほどの、広い一室だった。
こんなに良い部屋――本当に、使っても良いのだろうか。
「ボクに自分から名前を聞いてくれたの、おねーさんだけだった。ここに来てからは……じゃ、おやすみ」
「おねーさんじゃない。ミュウルだよ、ヴィーナス」
扉をくぐりかけていた彼は、足を止めた。
振り返ったまんまるな瞳が、私をじっと見つめている。
「……そっか」
「ヴィーナス……?」
部屋の中に戻った彼は、巨大なソファに腰かけ、「羽についた汚れをとってほしい」と言い出した。
「……触ってもいいの?」
「うん。ミュウルならいいよ」
さっき、馬鹿力と遠回しに言われたのに――とにかく、あの翼に触ってみたくてウズウズしていたのは確かだ。
綿毛のような毛がびっしりと詰まった羽の表面を、そっと指先で撫でてみると。
「わっ……」
本当に、鳥の羽みたいだ。
修道院で世話していた鶏と、感触が似ている。
でも、それよりずっと硬い。
生え際の部分は温かく、力強く脈打っていた。
「すごい、ドクドクってしてる」
「……そりゃ、そこには太い血管走ってるんだし」
この翼なら、本当に空を飛べるのかもしれない。
でも彼は、市場で取り押さえた時――私を振り切って飛ぶことはしなかった。
「ねぇ、あれってどうして?」
何度目かの疑問を繰り返すと。
彼はついに観念したように、「飛ばなくても生きていけるならいい」と吐き出した。
ここでの生活に「飛ぶ力」は必要ない。
そう聞こえたけれど、何だか違う気もする。
「あと……ヴィーナスは、そんなに生活が苦しいように見えないけれど」
どうして私たちから路銀を奪ったのか。
本当は一番に聞きたかったことを、ようやく訊ねると、彼は静かに視線を映した。
外にそびえる、あの塔へ。
「……ミュウルたちから“変わった袋”を拝借したのだって、換金するためじゃないし」
「じゃあ、何のため?」
ヴィーナスは、呼吸が止まってしまったのではないかと思うほどに動かなくなった。
いくら待っても、返事はない。
それでも――。
「足りない」
「え……?」
「外に置いてきた家族が、ボクみたいになれるには……魔族が生きにくい世界を変えるには、まだ足りないんだ」
外に置いてきた家族――ヴィーナスはどこから来たのだろう。
そういえば、彼はロマンティア語を話している。
「まさか修道国から来た……なんて」
「どうでも良いだろ、どこから来たかなんて。ミュウルにとってボクは……迷惑な盗人なんだからさ」
ヴィーナスはそれだけ言うと、また口を閉じてしまった。
盗みがお金のためではないと言うのならば。
彼は私たちから取ったもので、いったい何を得ているのか――。
返事を聞く前に、彼はこちらへ向き直った。
「……ここに来てからは、みんなボクのことを見ても、最後には“見なかったこと”にするんだ」
「え……?」
ヴィーナスの赤い瞳が、淡く光った瞬間。
羽に触れていた指先の感覚が、鈍くなっていった。
指だけではない、頭までぼうっとする。
カーン、カーンと、修道院の鐘のような音が、空っぽの頭に響いて――。
「……やめた」
「え?」
「なんでもない」
頭の中のモヤが晴れていく間にも、羽を細かく散らした翼が、ドアに飲み込まれていく。
「サバートが、明日は昼頃に来いって。それまでのんびりしてたら……あと、盗んだ袋はここに置いとくから」
「ヴィーナス……」
さっきの妙な感覚は、いったい何だったのか――。
魔力を帯びた皮袋の中を覗いてみたけれど、たぶんお金はそのままだった。
ベッドに寝転び、目を閉じてみると。
サバート、その妻、ヴィーナスの顔が、次々と浮かんでくる。
「あの人たち……本当に、魔族を受け入れてるの?」
魔導袋を盗んだことはともかく。
ヴィーナスは、心根から悪い子ではなさそうだ。
ただ――。
『これまで信じてきたことを、突然変えろと言われるのも無理な話です』
「……オーリウス?」
耳飾りからの突然の音に、全身に力が入った。
そういえば、エリアスの通信遮断がいつの間にか解けていたのだ。
「……今、何してるの?」
『はい? 貴女が魔族の話をしていたのでは――』
「いま、私ひとりなんだ」
もっと声が聞きたい。
そう言うと、オーリウスは黙ってしまった。
「あれ……?」
何かおかしなことを言っただろうか――。
代わりに、ガタガタと音が聞こえてくる。
「オーリウス?」
『すみません、移動しました。それで……貴女はどうかなさったのですか?』
追ってきたエリアスに疲れたのか。
それとも、旅自体の疲れがそろそろ来たのか。
いつも以上に早口な彼の声を聞きながら、目を閉じてみると。全身がベッドへ沈み込んでいく気がした。
オーリウスの声が耳元にあるから、私はいつも安心して足跡を残せるんだ――。
『……良いのですか?』
「ん?」
『……勇者が外でどんな旅をしてきたのかを、私は貴女にずっと黙っていたのですが』
それに、まだ私たちに話していないことがほとんどだ――オーリウスの声が、少しずつ小さくなっていく。
確かに、彼が何を見てきたのか、何を知っているのかは私も知りたいけれど。
「少しずつ話してくれればいいよ。旅はまだまだ長いんだし……あ、そうだ」
これからは毎晩ちょっとずつ、オーリウスが前回した冒険の話を聞かせてほしい。
すっかり落ち着いた声で、お願いすると。
『……構いませんが』
なんだか歯切れが悪い。
また、照れているのだろうか。
国土省の庭で勇者像を破壊した、あの時みたいに。
からかうように、「照れてる?」と訊ねると。
『……悪いですか?』
観念したような声に、胸が跳ねた。
でも、オーリウスはそれ以上何も言わない。
沈黙が続くと、息遣いが伝わってしまいそうで緊張する。
「その、どうして照れてるの?」
もう何度も、彼とは耳飾り越しに話してきた。
それなのに――と、問かければ。
『もっと声が聞きたいなんて……そんなこと、初めて言われました』
真剣な声に、もっと鼓動が早くなった。
「え……」
最初のアレに照れていたのか――。
私はただ、広すぎる部屋で「いつもの声」が聞きたくなっただけなのに。
頭が熱くて、何も言葉が出なくなった、その時。
「あっ」
ブツっと、耳元で音がした。
オーリウスが意図的に通信を切ったのだろう。
「そっか……」
それだけ絞り出して、天井を眺めた。
魔石か何かでできたシャンデリアの光が、天井から柔らかく降り注いでいる。
「この部屋、暑いのかな……」
少し熱くなった頬をこすりながら、呟いたところで。
軽いノックが響いた。
「ミュウルさん、今いいっすか?」
「……ギザール?」
天使について話がある。
いつになく真剣なギザールの声に、重怠い身体をさっと起こした。




