41話 存在証明
白い翼の少年は、まだ私との力比べを諦めていない。
それでも、これ以上の抵抗は無駄だと悟ったのか――少しずつ、力が抜けていく。
「離せよ。これ、返すから」
「あ……うん」
ジェニファの薬瓶をこちらへ投げ渡すと、彼はいさぎよく両手を上げた。
やっぱり、何度見ても目が奪われる。
私たちと同じ姿をした彼の背から広がる、純白の羽に。
本当に、さっきはどうして飛ぶのをやめてしまったのか。
「さーて、とりあえず事情聴取からっすね!」
「あちらのオアシス公園へ参りましょうか」
黒い笑みを浮かべたギザールとジェニファに、少年は溜め息で応えた。
ただ、ずっと後ろで様子を見ていたエリアスが、「君、混ざってるね」と呟くと――。
「……あっち行く」
往来で人の注目を浴び続けるのも、よくないと思ったのだろう。
彼はすんなり連行されてくれた。
「それで? アンタ、何者っすか?」
「……はぁ?」
ギザールを睨みつける彼の顔は、まだ幼い。おそらく10歳前後だろう。
もし、人と同じ尺度で測れるのならば――だけれど。
「それをおにーさんたちに話す必要ある?」
「では、お姉さんに教えてくださらない? どうして私たちの前に、二度も現れたのでしょう」
ジェニファの問いかけにも、彼は顔を背けるだけだった。
それにしても。
オアシスの木陰にふてぶてしく座りながらも、彼は大人しく私に両手を掴まれたままでいる。
握った腕は、細くて力を入れれば折れそうな見た目をしているのに――実際に力を入れてみると、指の痕がつかないほど、肌も骨も強靭だ。
でも――大人の質問攻めに俯く彼は、やっぱりまだ子どもみたいだった。
「ねぇ。あなたの名前は?」
まだ、天使やドロボーしか呼び方がない。
そう言って、彼の正面に首を回すと。
「名前……どうして」
「え?」
「いや。なんでもない」
彼は目を丸くしながら、「ヴィーナス」と答えた。
「女神……?」
元の世界でも、聞き覚えがあるけれど。
今世の修道院でも散々教えられた、愛と美の女神だ。
「どういう意味かは知らないよ。じいちゃんがつけてくれたんだ」
意味はともかく。いま、彼が初めて自分のことを話してくれた。
頬が緩んだままギザールを見上げると、彼は深いため息を吐き出した。
「なにやってんっすかね、オレ」
ライガ・マナ村で、異種族との交流の基本を教えてくれたのは、他でもないギザールだ。
「魔導袋を盗まれて、焦ってたみたいっす」
改めてヴィーナスに向き合ったギザールは、鞄から干物のような何かを取り出した。それから、獣人たちにもらった骨の首飾りも。
「ヴィーナスさん。オレらは世界地図を作るための旅をしてます。そのためには、“どんな人がその土地で暮らしているか”知るのも、重要なことなんっすよ」
その中で出会った、亜人族からもらったもの――そう言って、ギザールはこれまでのお土産を掲げた。
あの砂色の干物、よく見たらフィレフィレの鱗みたいだ。
「アンタも良かったら教えてくれません? この都のことと、アンタ自身のこと」
盗んだものを全部返してくれれば、彼の行いは帳消しにする。
ギザールの言葉に、ヴィーナスの肩が揺れた。
「……」
ジェニファも、エリアスも無言で見守る中。
ヴィーナスはギザールの手元へチラッと視線を向け――「違う」と、小さく吐き出した。
「ボクに人間は混ざってない」
「え……?」
一瞬、頭が真っ白になった。
人でも亜人種でもなければ、彼は何者だというのか――空白の頭に答えが浮かんでも、やっぱり口は動かない。
そのまま、彼の次の言葉を待っていると。
「そうか、やっぱり魔族なんだね」
明るい調子で声を上げたのは、エリアスだった。
「魔族って……でも、ミュウル様!」
魔族は勇者が滅ぼした。修道国の人間は、それを信じて彼の像を崇めてきたのだ――。
「待って。エリアス、どういうこと……?」
「どうもなにも、そのままの意味だよ」
私が今手を触れている彼は、“翼を持つ魔族”。
エリアスは相変わらずの笑顔で、そう言った。
「そんな……」
修道院の中の景色しか知らなかった私の視界なんて、狭いことは分かっていた。
それでも――“いなくなったはずの存在”が今ここにいると言われると、指先が震える。
「勇者とかいう奴のいる国が、勝手に世界を自分たちのものだと思ってるだけだろ?」
ヴィーナスのとげとげしい言葉に、胸の奥がずくっと疼いた。
そうだ。
たしかに私たちは、閉じられた壁の中にいたくせに――この世界にはもう、魔族はいないと信じ切っていた。
修道国では“英雄の息子”ともてはやされる、彼を見上げれば。
「その通り。魔族は絶滅していないよ」
エリアスは淡々と言いながら、ヴィーナスの前に片膝をついた。
「魔族が絶滅していないことを知らないのは、ロマンティア国民だけだよ。親玉を倒したって、その配下すべてが滅ぶわけないでしょ?」
「そんな……」
すっかり口を閉ざしてしまったギザール、ジェニファを見回し、最後にふと思い出した。
「オーリウスも、このことを知ってたの……?」
今はエリアスのせいで、耳飾りの通信が切れている。
代わりにエリアスを見下ろせば、「もちろん」と軽い調子が返ってきた。
「父さんたち“魔王討伐隊”が倒したのは、魔王にたどり着くために必要だった魔族だけさ」
「……!」
すると、ピラミッドの地下にいたあの魚は――。
ギザールの方を見ると、彼はアゴに手を当てたまま、ブツブツと呟いていた。
やっぱりあれは、魔族だったのかもしれない。
でも、どうしてあの時、オーリウスは亡くなった魚を魔族だと言わなかったのだろうか――。
「父さんって……」
いつの間にか、手の中の細い腕が震えている。
「おにーさんたちは、ボクを殺しに来たの?」
さっきまでの不機嫌は消え、ヴィーナスの赤い瞳が揺れはじめた。
強がっていても、やっぱり――。
「違うよ。私たちはただ、進みたいだけ」
地図を作るのに、魔族の生き残りを倒す必要なんてない。
ヴィーナスの腕を解放して、代わりにそっと両肩を掴むと。
「……魔族は、ボクらの世界を暴かれるのを嫌がると思うよ」
そうなった時、仲間をどうするのか。
障害物として斬り捨てるのか。
魔王を倒した勇者と同じように――。
ヴィーナスの薄い唇から、次々とこぼれる疑問に、喉が塞がった。
「それは……」
今は、「わからない」としか言えない。
私がその時、自分の拳をどう使うのか、今は想像すらできなかった。
「……でも」
「え……?」
おねーさんが羨ましい――そう言って、ヴィーナスは目を細めた。
「羽がないのに、行こうと思えばどこまでも行けるんでしょ?」
やっぱり。
あの翼で逃げなかったのは、彼の意思ではなかったのだ。
「あの時、どうして……」
翼を使って逃げなかったのか。
問いかけると、彼はチラッと塔を見たが――すぐに私に向き直った。
何かを諦めたような笑顔で。
「ミュウル様!」
「え……?」
ジェニファの叫び声に弾かれ、顔を上げると。
鮮やかなオアシスに不釣り合いな黒服が、私たちを取り囲んでいた。
「……っ!?」
彼らのうちの一人、年配の男性が、ヴィーナスの前に座る私に向かって近づいてくる。
「ヴィーナス様との問題ならば、私たちにお話しいただけませんか?」
「え……?」
ロマンティア語だ。
黒服の彼が、動けない私に差し出した名刺。
それをギザールがひったくった。
「『ラヒムザード・都市開発機構』……っすか?」




