35話 勇者アンチの魚
勇者が、このピラミッドを訪れていた。
しかも壁を壊すために――。
「それ……本当なの?」
魔王討伐に旅立った勇者が、こちらの大陸へ渡ったことは知っていた。
でも――どうして、壁を壊しに来たのか。
ヌルカは『それ以上は後で』と言って、壁画から離れてしまった。
「お願い、教えてほしい。私たちも壁を壊して旅をしてるんだけど……」
壁がどうして存在するのか、壁から生まれる影が何なのか、何ひとつ分かっていない。
先回りして詰め寄ると、ヌルカは『しっ』と口の前で一本指を立てた。
『フィレフィレ、勇者の話が嫌い。聞かれたら怒る』
「え……?」
のんびりしたフィレフィレが怒るなんて、勇者はいったいここで何をしたのか――なおさら気になる。
「分かったよ、じゃあ壁のことだけでも――」
『ミュウルは勇者を信じているの?』
天井から降ってきた声に、思わず肩が跳ねた。
フィレフィレの声だ。
しかも、まったくいつもと同じ調子だった。
「ええと……信じるっていうのは?」
勇者個人について、特に思い入れはない。
いっそ、その息子に頭を悩まされるくらいで。
『ぼくは勇者を信じられないんだ。あの人はぼくらの研究対象を壊していったんだからね』
「研究対象……?」
いったいフィレフィレは、何のことを言っているのか。
訊ねる間もなく、いつの間にか、部屋の隅にいたヌルカに手招きをされた。
この先に、その「研究対象」があるのだと。
『壁があった場所まで、つながってる。でも今のわたしたち、あんまりこの先いけない。人の肺じゃないと』
まだ、ハシゴが地下に降りている。
その先は暗闇に包まれていた。
『ミュウルなら止めないよ。キミは並外れた力を持っているから』
行くならこれを――と、ヌルカが差し出したのは、小型カメラのような機械だった。
「これを付けて行けば、そっちも同じものが見られるってこと?」
『うん。でも今度は、ジェニファを置いていくんだよ』
今がやっと、最下層まで半分の地点だというのならば仕方がない。
“ゴリラ”の体力ならまだしも、ジェニファの疲労は相当だろう。
「ミュウル様、ごめんなさい。また私、お役に立てなくて……」
「ううん、もう十分だよ。ジェニファは先に休んでて」
帰ってきたら、また体力回復の薬膳茶をもらおう。
息を吸い直し、すっかり血の止まった拳を何度か回したところで。
「あれ……?」
今さら気づいた。
オーリウスは、元勇者パーティーだ。
壁や影の正体について知らなくても、ここへ来た記憶はあるのではないか――。
『…………』
呼びかけても、オーリウスは答えなかった。
「……どうして」
そういえば、彼はこの場所に来てから沈黙していることが多かった気がする。
ジェニファに気を取られて、ちゃんと見えていなかったけれど――ライガ・マナで獣人に驚いていた彼が、魚人のことはあまり尋ねてこなかった。
最初から、ここのことを知っていたのだろうか――?
「……とにかく、行ってみるよ」
オーリウスが黙っているつもりなら、直接この目で見てくるしかない。
勇者が壊した壁の跡。
そして、彼が壊したフィレフィレの「研究対象」とやらを。
『ミュウルさん! こっちの映像機ってので、そちらの様子はよく見えてますんで』
だから、安心して進んでほしい。
ギザールの言葉に、頬が緩んだ。
「うん、行ってくるよ」
ヌルカにも目で合図をして、『B100』よりさらに下へ飛び込めば――空気がさらに冷たくなった。
少し息苦しさすら感じるのに、部屋はさらに狭く、暗くなっていく。
「……もっと高くなってる」
部屋から部屋へ降りるまでの時間が、さっきまでより長い。
水の中とはまた違う恐怖が、少しずつ背筋を這い上がってくる――でも。
「……身体、軽い」
ジェニファの薬のおかげで、水中での壁殴りで消耗した体力は回復している。
勇者、それにオーリウスのことを頭に浮かべながら――ただ無心に、地下へ繋がる穴を飛び降りていった。
「……ん?」
そろそろ50階ほど降りただろうか、と、どこかにあるかもしれない看板を探していると。
『ミュウル……貴女は勇者について、どのようなイメージをお持ちですか?』
「え……?」
フィレフィレみたいなことを訊ねてきたのは、まさかのオーリウスだった。
ずっと、だんまりだったのに。
「息子はアレだけど……別に、思い入れはないかな。彼のために祈ったことはないし」
聖女だとしても。彼に対して、“知らない時代の英雄”以上の感情はもてなかった。
そう正直に答えれば、また沈黙が流れた。
『……そう、ですか』
今度は何を思ったのか、オーリウスはギザールに『貴方は?』と話を振っている。
『オレ? んー、世間様では英雄っすけどねぇ』
そうだ。
15年前に勇者が魔王を倒したから、この世界から人族を脅かす魔族が消えた――そう言われている。
『でも魔族って、本当にぜんぶ消えたんすかね?』
『……』
どうしてオーリウスは、今こんなことを私たちに訊くのだろう。
「オーリウスに前、勇者ってどんな人だったのか聞いたよね」
その時は、「あの息子とそう変わらない」と答えてくれた。
『B150』の看板を横目に、そう訊ねると。
『……ええ。確かに、そうお答えしました』
あの答えを聞いて、オーリウスは勇者を、あまり良く思っていないのだと記憶していた。
「でも、ヘンだ」
『はい?』
「今のオーリウスは、何か隠してるみたい」
『……』
声が消えた。
やっぱり――彼は勇者がしたことに関して、口をつぐんでいるみたいだ。
『ミュウル、そろそろ最深部が近いよ』
声が、いつものゆったりしたフィレフィレに戻った。
「……うん」
跳ねる鼓動を感じながらも、拳を握りしめた。
どこからか、水の音がする――。
「……!?」
『B200』の看板を横目に飛び込んだのは、青く光る水辺。
その崖の先に、ちょうど足がついた。
踏み外していたら、底の見えない水の中へ落ちていたところだが――。
「どうして、こんな地下に海があるの……?」
天井も崖も、青白い結晶でできている。
もしかしたら、この流れている青い水も――。
『ミュウル、後ろを見て』
「え……」
フィレフィレの声に従い、振り返ると。
「……!?」
そびえる巨大な影に、思わず飛び退いた。
これは――魚の死骸だろうか。
今世と前世を振り返っても思い当たらない、見たことのない青魚。干物みたいになって、結晶の壁に貼り付けられている。
「……魚人?」
干物を眺めるうちに、無意識にこぼしていた。
人とはかけ離れた姿をしているはずなのに。
『ソレ、勇者たちが息の根を止めたんだ。ぼくらはずっと、生かしておいたのに』
「え……?」
淡々とした声に、息が止まるかと思った。
「どういうこと? これは……何なの?」
たしかに、目の前の魚は死んでいる。
でも、腐臭ひとつせずに佇んでいる。静かに瞼を伏せて。
『オーリウス……そうだ、思い出した。声だけのキミ、あの時の稚魚じゃないかな?』
勇者に「オーリウス」と呼ばれていた子どもがいた――フィレフィレの指摘に、オーリウスは小さく声を上げた。
やっぱり――彼は最初から、魚人族のことを知っていたらしい。
『どうしてキミは着いてこなかったの?』
「それは……」
今のオーリウスの状態を、フィレフィレは知らない。
私も、彼の足については何も知らないけれど――。
『……あの後、足を患ったので』
『病気? それは妙だね』
私が今いるここを、勇者と一緒に訪れた時――15年前の彼は、病ひとつない身体に見えた。
フィレフィレの言葉に、オーリウスはとうとう沈黙してしまった。
『彼に関わると、良いことがないね。キミも、ぼくらも』
フィレフィレは、何が言いたいのだろうか。
轟々と流れる水の音を聞きながら、震える息を吸った。
「……ねぇ、フィレフィレ」
『うん?』
「教えてほしいんだ」
15年前、勇者はなぜこの魚を殺したのか。
それがたとえ、オーリウスにとって明かされたくない過去だとしても。
私は聞かなければいけない――見えない壁の向こうへ、進むために。




