33話 殴り拓いた道
スフィンクスの間から落ちた先にあったのは、暗闇だけだった。
でも――互いの呼吸と温度だけは感じられる。
「ジェニファ、怪我は?」
「大丈夫です、ミュウル様。あなたがいれば、私は……」
「……そう」
ジェニファの言葉が本当かどうか考えるのは、後で良い。
今は明かりひとつない空間を、ジェニファと手を繋いだまま、少しずつ進んでいった。
「これは……」
手探りでも何となく分かる。
壁と床の感触、部屋の広さ、全部さっきまで通ってきた小部屋と同じ気がする。
「ちょっと待ってて」
「あ……」
名残しそうなジェニファの手を解き、少し離れて壁飛びをしてみると。
天井も床と同じ、ざらついた岩の感触がした。
「四角い部屋……たぶん、ハシゴがない部屋と同じ形だ」
でも、息ができるなら、完全密室ではないはず。
ひとまず、ほっと息を吐き出したところで――どこかから、水の滴る音がした。
「……!?」
足元が冷たい。
もの凄い勢いで、水位が上がっているみたいだ。
「ミュウル様、私……っ」
ジェニファの荒い呼吸を頼りに、真っ暗な中へ腕を伸ばすが――掴めない。
「大丈夫だから! 声の方へ……」
水が膝に触れ、私自身の息まで乱れる中。
ようやく、冷えた手に指先が触れた。
「見つけた……!」
手を繋ぎ直そうとしても、繋いだ手が汗で滑りそうになる。
いっそジェニファの輪郭を探って、震える身体を抱きしめた。
「ミュウル様……」
私より年上の彼女が、いつも導いてくれた手。
その温度を確かめるように、強く握って、「大丈夫」と囁くと――。
「私、怖くないです」
「え……?」
「ミュウル様なら、どうやってでもここから出してくれるって、信じていますから」
震えているのに、彼女は笑っていた。
「もう、村のことは忘れます。どうにもならないって、分かったから……だから……」
私とふたり、これからも一緒にいたい――。
縋るような声に、目の奥が熱くなる。
「……っ、ジェニファ」
絶対に離さない。
そう口にする代わり、抱きしめる腕に力を入れた。
「……っ」
首に回った細い腕が、それに答えるかのように力を強めた。
水が、もう腰にまで迫っているのに――温かい。
「どうして……」
「……はい?」
こんなところで、ふたり一緒に死ぬわけにはいかないのに。
どうやって切り抜けるかを考えるより早く、口が喋っていた。
「ジェニファがずっと薬師をやめなかったのは……どうして?」
耳元の荒い息が、静まった。
「まだ、希望を捨てなかったからじゃないの……?」
轟々と、水の音だけが響く中。
くっついた胸の鼓動が、どんどん速くなっていく。
ジェニファは何かを言いかけては、身体に力を込めていた。
「それは……」
その先の言葉は、途切れてしまったけれど。
ジェニファがまだ、「何も諦めていない」と確信した瞬間――拳が大きく脈打った。
水の中に浸かった拳が、光を放ち始めている。
「あ……ミュウル様の、聖力?」
「そこで見てて」
ジェニファの身体を離した後。
輪のような波動を放つ拳に、力を込めた。
まだ顔は見えないけど、ジェニファの不安げな息遣いを近くに感じる――。
「……はぁ!」
石の檻をグーパンで殴る。
拳に痛みが走っても、何度だって。
「ミュウル様っ……」
私の力で、この壁が壊れるかすら分からない。
でも――殴っていなければ、破ることはできない。
「水が、もう胸まで……」
冷たい水が、肩を刺しても。
「……ジェニファ、諦めないで!」
息を吸い直し、いっそ水の中へ身体を鎮めた。
このまま、もう二度と酸素を吸えなかったら――そんな考えが頭をよぎる。
それでも。
「……っ」
足裏をしっかりと床につけ、腕を構えた。
(もう、一発勝負――)
拳を握る。
軋むそれに、全身の熱を送り込むつもりで――力を込める。
拳を包む光の波動が、暗闇を裂いて広がる。
それが極限まで圧縮された、瞬間。
――振り抜いた。
「……ゴボッ……」
衝撃で、泡の塊がすべて口から出ていった。
まずい。
でも――力が抜けて、上がれない。
少しずつ意識が遠ざかる中。
ドクン、ドクン――と、鼓動だけがはっきり聞こえる。
それに混じって、誰かのくぐもった声も。
「……っ、さ……ま……!」
あれは、ジェニファの声――。
気づいた、その時。
目の前の壁に、光のヒビが走った。
小さな傷のようなそれは、大きな亀裂になって広がっていく。
「……っ、はぁ!」
隙間から水が流れていったのか。
気がつけば、顔が水中から解放されていた。
「ミュウル様、やりましたね! でも、まだ……」
壁の隙間から水が出ていったものの、水はまだ増え続けている。
「くっ……!」
まだだ。
この壁を、粉々になるまでぶん殴らなければ――!
拳が割れそうに痛むけれど、止まれない。
ジェニファの怯える声の方が、もっと胸が痛くなった。
「ミュウル様、血の匂いが……!」
「構わない」
ライガ・マナの壁を破った時の傷が、少し開きかけているみたいだ。
でも――今は絶対に止められない。
ジェニファは迷っているのだ。
闇の中で、光を見失いそうになっている。
だから、私が示さなければ――。
「はぁぁぁぁ……!」
暗闇の中。殴って、殴って、痛みも分からなくなったころ。
まばゆい光に、全身が包まれた。
壁を壊せたのだ――。
ジェニファの放心する顔が、今度ははっきり見える。
「ほら……殴り続けたら、いつかは外に出られるよ」
ようやく私を捉えた瞳に向けて、手を差し伸べると。
「……!」
ジェニファは少し泣きそうに笑いながら、「そうなんですね」と呟いた。
でも、彼女は私の手を取ろうとしない。
もう、私に縋りたいわけではない。
それでも、答えが見つからない。
そんな風に見える彼女に向き直り――もう一度、手を伸ばした。
「私たちの旅、ジェニファも一緒に行かない?」
「え……?」
「あの国にいたって、出会えない薬があるかもしれない」
世界は広いから――。
そう言って微笑めば、ジェニファの瞳が大きく揺れた。
「私のためじゃなくて。自分のために選んで、ジェニファ」
私は、私のために歩く。
「でも、一緒に歩く仲間は必ず守るよ」
「必ず」なんて、前は言えなかった。
今だって、大口だとは思う。
それでも、彼女の背中を押せるなら――。
「ミュウル様、私、わたしは……」
揺れる瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた――瞬間。
「もう一度お母さんに会いたい……っ」
震える声と一緒に、彼女の手が前へと伸びた。
「うん」
「お父さんにも、弟にも……」
「……うん」
迷う手へ、指を触れると。
「私も、ミュウル様と行きたいっ……!」
温かい手が、しっかりと私の手を握った。
「うん……行こう、ジェニファ」
薬草をたくさん刻んできた手。
私の知らない過去を抱えた、細い腕――。
今度こそ、離さない。




