31話 石造りのネコは問う
何回ハシゴを降りても、フィレフィレのお嫁さん――ヌルカの姿はない。
ただ、殴りごたえのない魚影が飛び跳ねているだけだった。
「ここは……あっ、ミュウル様!」
ジェニファの指す方には、ランプに照らされる『B100』の看板があった。
でも――ずっと続いていたハシゴが、このフロアにはない。
「まだ、ヌルカに会ってないのに……」
ここが最下層ではないはずだ。
「どういうこと……?」
この部屋、これまでで一番狭い。
どこかに見落としていないかと、辺りを見回していると――腕の中のジェニファが、勝手に降りていった。
「あのお魚さんたちに、騙されたのかもしれませんよ〜?」
私たちから、さらに何か搾り取ろうと閉じ込めたのかも――ついにジェニファは、そんなことを口走った。
「そんな……」
これまでジェニファと過ごしてきて、感じたことのないモヤモヤが、張り詰めた胸を覆っていく。
「なんか、外のジェニファは人を疑ってばかりだ」
「…………」
ジェニファが黙ってしまっても、止まらなかった。
ずっと思っていたことが、口から滑り出ていく。
ギザールのことも、オーリウスのことも、彼女は信じるより先に疑っていると。
「何か……あったの?」
そう、最後に問いかけると。
ジェニファは見たことのない顔で笑った。
「これが本来の私ですよ〜。そうしなければ、生きていけませんでしたから」
本来のジェニファ。
修道院に来る前のことを言っているのだろうか――。
看板の周りをぐるりと回る彼女の靴音だけが、部屋に響く。
「10年くらい、一緒にいたのに……」
私は本当のジェニファに気づけなかったらしい。
頭の中によみがえる、ふわふわした表情。
柔らかくて、でも時々鋭くなる口調。
修道院の中で見ていたジェニファの姿に、もやがかかった。
「幻滅しましたかぁ?」
別に、と言いかけた口が閉じた。
彼女が私と過ごしてきた時間、見せてくれた表情、全部が嘘だったとは思わない。
少なくとも、私を追いかけてきてくれた彼女の心は否定できない。
「いいよ、これからは楽にして」
ジェニファがどう振る舞っていようと、私は変わらない。
この先影が現れて、ジェニファが危険になるような場面がくれば――ただ、影をぶん殴るだけだ。
早くなる胸を押さえて、そう言い切ると。
「……そう、ですか」
ジェニファは足を止めて、俯いた。
その横顔が、少しだけ泣きそうに見えた。
「そういえば……この部屋、どうしてこんなに明るいのでしょう?」
「それは……」
看板のところのランプでは、と、言いかけて口を閉じた。
奥の方まで、なんだかぼんやりと明るい。
壁が透けて光っているような――。
「明かりと空気が……隙間から漏れてる?」
試しに壁を叩いてみると、コツコツと軽い音が返ってきた。
これまでの部屋の壁と違って、石製ではなさそうだ。
「もしかして……」
ジェニファに離れているよう言い、拳を握った。
「……ふっ!」
軽い。
板より柔らかい感触に、腕がすっぽ抜けるかと思った。
壁は私の腕を通しただけで、崩れていない。
「穴開いた……これ、ハリボテ?」
固まりかけた粘土のような壁を、すべて剥がしてみると――。
「……!」
これまでの部屋の何倍もある、薄明かりの洞窟が広がった。空気が一気に冷たくなる。
「ずっと地下へ向かってたので、横に道があるとは思いませんでしたね」
「うん……」
とにかく、道はひらけた。
ヌルカを探しに行かなければ――。
「ミュウル様、アレは?」
影の代わりに現れたのは、見上げるほどの石像。
とりあえず、動いてはいないけれど――覚えのある顔に、心臓がドッと速くなった。
「えっ、これ……!」
おかっぱのような頭に、ライオンのような身体の男性――。
「スフィンクス……?」
大きな目が、私たちの来た暗い部屋を見通している。
でも――これは本当に、ただの石像なのか。
「後ろにハシゴとかあるかな?」
「ミュウル様、そんないきなり乗っては……!」
ジェニファに肩を掴まれたところで。
『コホン』
「え……?」
石のスフィンクスが、咳払いをした。
すかさず、彼の前足に乗せていた足を退かすと――。
『なぞなぞで〜す』
やけに軽い調子の声が響いた。
「なぞなぞ……?」
スフィンクスのなぞなぞといえば、“前の私”が数々の雑誌やテレビ番組で見聞きしているくらい有名だ。
もし、この世界でも同じだというなら――。
『朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足の生き物……じゃなくて』
「……じゃなくて?」
「人間」と言いそうになったのを飲み込んだ、瞬間。
『この部屋にいる相手の本音って、な〜んだ』
子どもが話しているような、軽い調子が響いた。
「相手の……本音?」
とっさに振り返れば、ジェニファもこちらを見ていた。
『この謎が解けたら、先へ通そうかな』
「謎って……」
たしかに、ジェニファが隠している気持ちは、私にとって謎だ。
『大切なものが知らない間に失われてしまったら、私は……!』
あの言葉を放ったジェニファが、何を恐れているのか。
見えそうで、見えない。
「ミュウル様は、旅を続けたいと思っています」
「え……」
「誰に止められても、足を止めることなく」
私を見つめるジェニファの瞳は、ゆらゆら揺れていた。
それが彼女の考える、私の本音――。
『……合ってる?』
やはり、どこか軽い口調で問いかけるスフィンクス。それに構わず、「ううん」とジェニファへ向き直った。
本音だとしたら、それだと足りない。
「私、ジェニファと一緒にいたい気持ちもあるよ。でも……納得してもらえないなら、国へ帰って欲しい」
「……!」
ジェニファの傷ついたような表情に、喉を塞がれた。
これで良かったのだ。
甘い言葉で期待を持たせるなんて、そちらの方が酷なのだから――。
ジェニファも、空気の読めないスフィンクスも沈黙したところで。
「旅は続けてほしくないです」
か細い声が響いた。
「でも私、ミュウル様と離れたくない!」
「ジェニファ……」
どんな想いが、彼女をここまで連れてきたのか。
それは本当に、私だけに向けられるものなのか。
いや――やっぱり違う気がする。
それでも。
「ジェニファ、あなたの本音は――」
「私が答えます」
迷いのない声に、「え?」とこぼれた。
ジェニファ自身が、これまで話したことのなかった秘密を明かすと言う。
「知ったら、もっとミュウル様は幻滅するかもしれません……でも」
それを聞けば、私が思い止まるかもしれないから――ジェニファは俯いたまま言った。
「それは……」
私と出会う前のことなのか。
訊ねてすぐ、ジェニファは小さく頷いた。
そういえば――彼女がどこの出身で、修道院に入るまで、どうやって生きてきたのか聞いたことがない。
「……私は、すべてを捨ててきたんです」




