30話 ピラミッド・ダンジョン
地下を跳ね回る、魚型の影。
それらを一刻も早くぶん殴るため、研究室を出ようとしたところ。
『たいへん! ぼくのお嫁さんが、地下ダンジョンから戻って来てないんだ』
フィレフィレの珍しい大声に、足を止めた。
「え……?」
影が出ているのにヌルカが行方不明だと、彼は水かきのついた手をバタつかせている。
「フィレフィレ、大丈夫だよ。私がいくから」
今だって、「行ってほしい」と言われる前に身体が動いていたところだ。
『でも、ほんとにいいの?キミたちが影と戦ってきた話は、ギザールから聞いたけれど』
出会って間もない自分を、どうして助けてくれるのか――合理的な行動ではないと、フィレフィレは尾びれを私の腕に絡めた。
「ただ助けたいから」というのでは、彼は納得しないだろうか。
「砂漠でヒレを貸してくれたでしょ。あれで十分」
エリアスから逃げ延びることができただけでも、助かった。
ぬめる尾を引き剥がしながら、そう伝えると。
『……そっか』
フィレフィレは、今度はジェニファの方を向いた。
『キミはこのままでいいの?』
「え……?」
いったい何を言い出すのか。
突然話を振られたジェニファも、口を半開きにしたまま固まっている。
「フィレフィレ、今回は狭いところだし……」
魂を取り込んでいた巨大影はキツいが、あれくらいの小型影ならばひとりで対処できる。
そう言っても、彼はジェニファを見つめるだけだった。
「私は……」
「ジェニファ、大丈夫だから、ここで待ってて」
フィレフィレの言いたいことが分からないけれど――ヌルカが行方不明ならば、なおさら時間との勝負になる。
ぬめぬめになった腕を拭い、今度こそ研究室から出ようとすると。
「お待ちください!」
弾かれたように、ジェニファが駆け寄ってきた。
「一緒に行きます……!」
彼女は、私の腕に薬瓶の中身を吹きかけた。
腕についたぬめりが、一瞬で溶けていく。
「その……私も、薬での治療くらいならばできますから」
「ジェニファ……でも、危ないよ?」
「待っているだけは、もう嫌なんです!」
強い声に、思わず肩を揺らした。
正直、守りながら戦うのは大変だけれど――今ジェニファを置いていけば、彼女はもう何も言ってくれなくなる気がする。
「……分かったよ」
揺れる耳飾りを外し、ここで待機するというギザールへ預けることにした。
「ごめん、オーリウス。ちょっと大事な話をするから」
ジェニファに聞こえないよう言い残し、今度こそ研究室から駆け出した。
少し震えている、ジェニファの手を握って。
「ミュウル様……」
「大丈夫、何があっても守るから」
『未探索えりあ』の看板があるフロアまでは、昇降機が通っていた。でも、さらに下の部屋へ行くには、石のハシゴを降りなければならないみたいだ。
「ふっ……!」
小さな影を滅しながら、ヌルカの姿を探した。
下に降りるほど天井が低くなっていく。石の壁に描かれた魚の壁画だけが、同じ顔でこちらを見ている。
そして――ハシゴを降りる間にも、小型の魚影が次々と湧き出てきた。
「ミュウル様、体力回復薬をお飲みになりますか!?」
「ううん、まだ平気だけど……なんか、この影変な感じ」
そもそも影の感触は、冷たい霧を殴っているようなものだった。
でもそれ以上に、今回の影は手応えがない。
まるで空気を殴っているみたいで、少し気持ちが悪い――。
「また大群を倒してしまわれるなんて……ミュウル様、すごすぎますっ!」
少し元気になったジェニファが、薄暗い石の部屋に拍手を響かせている。
「修道院でも、光魔法を宿した拳で影を殴っていらっしゃいましたよね。アレも驚きましたけれど……」
今では、自前の聖力を拳に宿して、難なく影を消している。
ジェニファの指摘に、思わず「そっか」とこぼれた。
たしかに。いつの間にか、意識しなくても拳へ聖力が宿るようになっていた――。
「行こう、まだヌルカが見つからないから」
「それ、本当なんですかねぇ」
「え?」
「……いえ、参りましょうか」
少し煙が出た拳に息を吹きかけ、次のハシゴを目指した。
もう、何階――何十階降りただろう。
下に降りるにつれ、部屋のランプが減り、どんどん薄暗くなっていく。
どこかで水を叩くような音がしたが――ヌルカかと思って耳を澄ませても、返ってくるのは部屋の軋む音だけだった。
「ジェニファ、辛くない?」
「はい、足手まといにはなりません……!」
そうは言っても、今の速さではヌルカのところまでどれくらいかかるか分からない。
「ミュウル様!?」
「こっちの方が早いから」
少し息の切れたジェニファを抱えて、いっそハシゴを使わず飛び降りることにした。
「あぁ……」
息を感じるほど近いジェニファから、歯を噛み締める音がする。
「ジェニファ、怖い?」
「……怖いですよ、ずっと」
暗さや狭さが怖いのか、この先にある未知が怖いのか。
それとも――。
考える間にも、ジェニファは少し息を吐いて、私の首に腕を絡ませた。
「……ごめん。できるだけすぐに、ヌルカを見つけ出すから」
「…………」
抱える力を少し強めても、ジェニファは何も言わなかった。
もはやジェニファの表情が見えないくらい、部屋は暗くなっていく。
飛び降りてから地面に着くまでの感覚も、少しずつ長くなっているみたいだ。
「……すみません、一回下ろしていただけませんか?」
「うん」
声まで低く暗くなったジェニファを、床へ下すと。
「わっ……!」
突然、柔らかい身体に体当たりされた。
表情はよく見えないけれど――頬に、熱い息がかかる。ジェニファが至近距離で、私をじっと睨んでいるのを感じる。
「ミュウル様は先日、『自分だけの思いで進んでるわけじゃない』とおっしゃいました……でも!」
どうして、何も恐れることなく進んでいけるのか――。
かぼそい声に、息が止まりそうになった。
「どうして、今そんなことを聞くの?」
「大切なものが知らない間に失われてしまったら……私は、今度こそ……!」
震える手が、私の胸を叩き続けている。
彼女の恐れるものが、幻なんかではないと訴えるかのように。
でも――。
「今はフィレフィレが……私たちを助けてくれた彼の、大切なものが危険にさらされてるんだ」
「……っ」
それが彼女への答えになっていないことは、分かっていた。
でも、今は足を止められない。
「……行くよ」
立ち尽くすジェニファを、再び腕の中に抱えれば。
「……どうして……っ」
彼女の腕が、痛いほどに私の身体へ巻きついた。
ジェニファが本当に恐れているのは、私が危険にさらされることなのだろうか――?




