26話 砂泳ぎレース
『手がいらないなら、ヒレを貸そうか?』
魚――いや、砂からこちらを覗く顔は、人みたいだった。でも髪の毛は生えていないし、手足は水かきのようになっている。
いったい何者なのか――?
『ぼくらは“砂漠たくしー”の……あれ? 言葉が通じてないのかな』
首を傾げながら、尾ひれの長い魚は私たちの周りをぐるりと泳いだ。
ヌメヌメした身体が砂をまとって、砂中を滑らかに移動している。
「なんっすか……この生き物は」
獣人を知っていたギザールも、今回は「文献で見たことがない」と固まっている。
「知らないなら、聞いてみよう」
見慣れない姿だけれど、ロマンティア語を話したのだ。
砂の中の生き物に、「名前は?」と声をかければ。
『“魚人族ナフメル”のいっぴき――フィレフィレ』
フィレフィレは膜に覆われた目で、私をじっと見つめた。
初めて見る瞳の形に、肌の色――不思議だけれど、怖くはない。
「魚人……?」
光魔法を展開寸前だったエリアスも、今は腕を下ろしている。
砂煙を上げて泳ぎ回る魚に、気を取られているみたいだ。
(今なら、エリアスから逃げられるかもしれない……)
「その砂漠タクシー、お代は後でもいい?」
『……うん、いつもは先なんだけどね』
フィレフィレのゆったりした返事を待つ間もなく、半透明のヒレがうねる背中に飛び乗った。
「ふたりも、早く!」
観察モードに入っていたギザール、私の背に隠れるジェニファを、巨大魚の背に引っ張り上げると。
『行き先は?』
「とりあえずここから離れて!」
『りょうかーい』
ゆっくりな返事と同時に、頭がガクンと揺れた。
「……!」
口を閉じていないと、舌を噛みそうになる――私たちを乗せた巨大魚は、みるみるうちに平原の緑から離れていった。
「へぇ、面白いこと始めたね」
こちらに気づいたらしいエリアスの声が、あっという間に遠くなっていく。
「ううう速いいいっ……み、ミュウルさん、やったっすねっ!」
「うん……」
相変わらず乗り物に弱そうなギザールの腰をしっかり掴み、背中にくっついているジェニファを振り返ると。
「ミュウル様、このお魚さんチョロそうでは?」
ぼんやりしているし、あとで乗り逃げしても気づかなさそう――と、ジェニファは余裕の顔で言った。
「……さすがにそれはダメだけど」
どうやらジェニファは、こういうのが平気らしい。
ならばギザールだけしっかり見ていなければと、震える身体を抱えたところで。
『あっ、お連れさんも利用してくれたみたいだね』
「え……?」
フィレフィレの指す方を振り返ると――。
「あははっ、これは愉快だね!」
「エリアス……!?」
別の魚人に乗ったエリアスが、私たちの後から迫っていた。
選抜隊を置き去りにしてでも、私を追ってくるなんて――!
「ほら、追いかけっこはもう終わりだ」
隣に並んだ彼は、また、私に手を差し伸べた。
自分が正しいと、信じて疑わない笑顔で。
「どうして私にこだわるの……!?」
分からない。
優秀な子を産む聖女が欲しいなら、他にもいるはずだ――震える声を吐き出すと。
「そりゃ君は、“僕が初めて好きになった人間”だからさ」
彼の白い頬が、赤く染まった。
「……え?」
暗い瞳の奥に、ゾクっとするような熱を感じる。
「たしかに、壁を越えられるほどの力を持つ聖女は他にいないけどね。でも今はそれ、どうでもいいんだ」
瞼を閉じた彼は――やがて、とびきりの笑顔をこちらに向けた。
「僕を傷つけられるのは、君……ミュウルだ!」
だから、手に入れたい。
何のためらいもなく放たれた言葉に、周りの音が止んだ。
「どう、して……」
ふたりを抱える手が震える。
以前の彼は、私の力しか見ていなかったのに――。
「ミュウル様! あんな意味不明クソヤロウの言葉、お耳に入れてはいけませんっ」
背後からの声に、震えが止まった。
「ジェニファ……?」
腰に回る腕が、温かい。
「そうっすよ。ミュウルさんはこれからも、オレと世界を回るんっすから」
「ギザール……」
重なった手が、力強い。
「そうだ、私は……」
ここまで来て、鳥籠の中へ戻る選択肢はない――!
「ジェニファ、ギザール、しっかり掴まってて!」
ふたりの身体から手を離し、耳元で揺れる石に触れた。
「オーリウス、どっちの方角に行けばいい!?」
少しの沈黙の後、耳元で「ゴホン」と咳払いが響いた。
『……現在、ライガ・マナ村から直線距離で北上中。最初に南下した海を、元の方角へ戻っています』
「えっ、じゃあ意味ないってこと……!?」
地図を新たに広げるなら、方向を変えてもらったほうが良いのではないか――そう提案するより早く、「とにかくエリアスを撒け!」と荒い声が返ってきた。
『……奴に関して、こちらの弁解は後です。今は逃げ切ってください』
「あっ」
ブツッと、通信の切れる音がした。
確かに今は、並走するエリアスをどうにかしなければ――。
笑いながらこちらの様子を伺うエリアスを、睨みつけていると。
「なんか、向こうの魚人よりノロノロ泳いでないっすか?」
すっかり調子が戻ったギザールの声がした。
『そりゃお客さん、先払いの方が速いのはとーぜんだよ』
ギザールが、フィレフィレと交渉をはじめたらしい。
「報酬でやる気が違ってくる」と言うフィレフィレに、ギザールは謎の骨ネックレスを差し出した。
「これ、獣人族の貴重なアクセサリー。一点ものっすよ?」
魚人にとって、あれは価値があるものなのか――前を向いたまま泳ぐフィレフィレを、見つめていると。
「あっ……!」
袋のように広がった大きな口が、ネックレスをパクッと飲み込んだ。
『しっかり掴まってて』
口調はゆったりなのに――砂を泳ぐ速度は、瞬きのたびに加速していく。
「これなら……!」
エリアスとの距離が、少しずつ開いていく。
でも――。
「じゃあ、こっちも追加で」
エリアスが魚人の口へ金貨を入れれば、あちらも生き返ったかのように速度を上げた。
「……!」
「ミュウル、競争は十分楽しんだでしょ? 帰ろう」
籠の中へ、と、あの手が再び差し出された。
「そんな……っ!」
このままでは、エリアスを引き離せない。
もし彼と正面から戦っても、今の私では勝てない。
それでも、やるしかないのか――。
汗と魚人の粘液で滑る拳を、握り直した直後。
「……もう、コレをやるしかないですね」
ジェニファの手のひらの中にあるのは、葉っぱに覆われた玉。
「それは……」
答えを訊くより早く、彼女は葉っぱを剥がした玉を振りかぶった。
それを力いっぱい――エリアスへ向けて投げつけたのだ。
「ミュウル様、目と鼻を塞いでくださいませ!」
青白い煙が周囲に広がった。
さっきの“めくらまし”より煙の量は少ないのに、何だか頭がくらくらする。
「なんだ、この煙……」
鼻と口を覆ったエリアスが呟く間にも、ジェニファは玉を投げ続けているが――距離が開くにつれて、届かなくなっている。
「貸して!」
こういうのは“ゴリラ”の仕事だと、玉を握った手を振りかぶれば――。
「……っ!?」
よし、直撃だ。
後頭部に思い切りいったが、あの人なら平気だろう。
「ナイスヒット! さすがミュウル様ですわ」
「でも、なんか……」
乗せてくれているフィレフィレが、揺れはじめている。
『このケムリは、ぼくもだめだ……一回もぐる』
「えっ、それってオレらは――」
『目と口と耳、ふさいで』
両耳をおさえ、目を閉じた瞬間。
ごうごうと流れる砂の音に包まれた。
フィレフィレが砂の中に潜ったのだ――。
何も見えない。
息が苦しい。
でも、前と後ろにふたり分の熱を感じる。
『もうちょっと〜』
フィレフィレの声が、砂の外よりはっきり響いた、その時。
肌に触れる空気が変わった。
「はぁっ……!」
砂だらけの頭を振り、瞼を開けると――。
夕日に照らされる、三角形の山がそびえていた。
レンガのような四角い石が、三角形に積み上がっている。
「これって……」
“前の私”が何度も読み返した、旅行雑誌のミステリー特集が頭をよぎる。
でも、いま目の前にあるそれは、写真よりずっと大きくて鮮やかだった。
「フィレフィレ、ここは……?」
興奮で震える唇を押さえ、問いかけると。
二足歩行になったフィレフィレが、石の建物を誇らしげに仰いだ。
『これがぼくらの家、ピラミッドさ』




