1話 ゴリラ聖女、地図に触れる。
屋根を踏み抜いた。
修道院の外にそびえる、あの壁を越えるため。
「こらぁ聖女ミュウル、止まりなさい!」
「ごめんオババ。お祈り生活はもうたくさん」
地上でわめく大聖女様に手を振って、遠くの壁に向き直った。
あと少し。
あの屋根を伝って、鐘楼へ飛び移って、そこから外壁を越えれば――。
「あっ」
ぐらり、と足下が傾いた。
軸足をついた像の頭が、ポッキリと折れてしまったのだ。
「あぁっ、勇者様のお首が……!」
「どうせ何体もあるでしょ」
「聖力がほぼない出来損ないのくせに……降りてきなさい!」
出来損ない。
言われ慣れた言葉なのに、今日は少し胸が騒いだ。
聖女らしく祈れと言われても、私の手はお祈りに向いていない。
走り回るだけで礼拝堂を壊すこの身体なんて、なおさらだ。
「力こそ正義」と言い返すより早く、背後から拍手が飛んできた。
「さすがミュウル様!」
大聖堂の円窓からこちらを覗いているのは、薬師見習いのジェニファだ。
葉っぱの絡む金髪を揺らし、目を輝かせている。
「先ほどの身のこなし、壁画に描かれた“獣”のようですね〜」
「けもの?」
首を傾げながら、円窓へ飛び込むと。
着地した薬品庫には、乾いた薬草と消毒液の匂いが満ちていた。
ジェニファはすぐに雨戸を閉め、私の手を引く。
「とにかく、こちらへ」
「私、脱獄計画の途中なんだけど」
「あら、ここが監獄だとでも?」
ふんわり笑うジェニファの視線の先には、礼拝堂で勇者像へ祈りを捧げる聖女たちがいた。
純白のヴェールに、絹の法衣。
そろった祈りの声。
締め切られた扉と窓。
きれいで、静かで――息が詰まる。
「……やっぱり監獄じゃない?」
「でしたら、出て行かれる前にお見せしたいものが」
「外のもの?」
「はい! ミュウル様が、きっとお好きなものです」
胸が跳ねた。
外。
壁の向こう。
まだ見たことのないもの。
ジェニファに釣られていると分かっていても、そんな言葉に私は弱い。
「……少しだけだからね」
ジェニファは満足そうに笑い、迷いなく地下へ降りていった。
石段を下りるたび、空気が冷えていく。
祈りの声も、大聖女様の怒鳴り声も、遠くなる。
やがて彼女が足を止めたのは、灯火に照らされた小さな地下洞だった。
「わぁ……」
滑らかな岩壁いっぱいに、色鮮やかな線が描かれている。
地図だ。
赤い線が大陸を縁取り、青い線が川のように走っている。
ところどころ、見たことのない生き物や、奇妙な建物まで描かれていた。
でも、完成していない。
「この人が実際に見たものを描いたのかな……?」
あちこち輪郭が欠けていて、どう見ても未完成なのに――身体が壁画に吸い寄せられていく。
「あっ、これです! ミュウル様そっくりな“ゴリラ”という獣」
ジェニファが指さした先には、黒い毛並みの大きな獣が描かれていた。
太い腕。分厚い胸板。なぜか妙に自信ありげな顔。
「……私、こんな色黒ムキムキじゃないんですけど?」
怒ったフリをして振り返れば。
「強そうなところが」と、ジェニファは慌てて付け加えた。
でも――ゴリラよりも、赤い線の方が気になる。
欠けた大陸。
途切れた海岸線。
描かれていないはずの、その先が。
「これをお見せしたかっただけなので〜。そろそろ戻りましょうか」
「待って」
ジェニファの手を解き、地図に向き直った。
知らないはずなのに――この地図に描かれていない場所まで、分かる気がする。
「この大陸……まだ先があるはず」
「え?」
気がつけば、赤い線の上に指が伸びていた。
欠けた海岸線の続き。
島の位置。
まだ描かれていない道。
指が空白をなぞるたび、頭の中に白い線が走る。
「ここを越えたら、海があるんだ……この先には確か、砂漠があって」
「ミュウル様……?」
その向こうに、世界で一番大きな山が――。
「いっ……!」
鋭い痛みが、指先から胸の奥まで突き抜けた。
「ミュウル様!?」
視界をザザッと影が裂き、そして――。
目の前に浮かんだのは、“灰色の窓”。
「え……?」
突然、知らない部屋が現れた。
窓のそばで揺れる、白いカーテン。
机の花瓶。
それに、細い手がなぞっている紙の地図。
「私は……また、どこへもいけないの?」
誰かの声――いや、今のは私の声なのか。
いやだ。
また、あの窓の奥へ戻される。
「ミュウル様!」
「……っ!」
声に弾かれ、顔を上げると。
青白い景色が飛んで、泣きそうな顔が目の前に現れた。
「いま、どなたかをお呼びします!」
「……大丈夫だよジェニファ」
深く息を吸って吐くうちに、身体のこわばりが解けてきた。
「でも、そんなに真っ青に……」
「ちょっとめまいがしただけ」
でも、胸の奥だけはまだ熱い。
あの窓。
あの細い手。
自分の奥に眠っていた誰かが、地図に触れた拍子に目を覚ましたみたいだった。
「……行かなきゃ」
自然と、声がこぼれた。
「ミュウル様?」
「私、外の世界を見たい……ううん、見なきゃいけない」
勇者像へ祈る毎日に飽きたから。
そう言うのは簡単だった。
でも、違う。
この地図に触れて、分かってしまった。
私はただ、逃げたいだけではない。
この壁の外に何があるのか。
あの灰色の窓は何なのか。
それに――どうして私は、知らないはずの地図の続きを知っているのか。
「確かめたいんだ、私」
心のままに言い切ると。
ジェニファは無言のまま、困ったように眉を下げた。
「……それでも、今は謝りに行きましょう。勇者様のお首も折れましたし」
「どうせ何体もあるって」
「そういう問題ではありません〜」
繋がれた手に、さっきより少し力がこもっている。
ジェニファに引かれて石段を上っていくと、地下の冷たい空気が遠ざかり、礼拝堂の光が近づいてきた。
「あれ……?」
さっきまで聞こえていた祈りの声が、消えている。大聖女様の怒鳴り声も、聖女たちのざわめきもない。
代わりに、背筋を這い上がるような気配がした。
「なにか……来る」
「えっ?」
ジェニファの手を振りほどき、階段を駆け上がった、瞬間。
「キャアァァァ!」
誰かの悲鳴に肩を弾かれた。
礼拝堂の本堂には、粉々になったステンドグラスが散乱している。
「いったい何が……」
外れかけた扉を張り飛ばし、日の下へ出ると。
そこにいたのは――半透明の、ドロドロした黒い獣。
獣は影のように増えながら、逃げ惑う参拝客を追いかけていた。
爪も牙もあるのに、輪郭だけが水面みたいに揺れている。
「なに……あれ」
初めて見る異様な生き物を前に、全身が震えた。
拳は握れる。
足も動く。
いつもなら、殴ればだいたい何とかなる。
でも――分かってしまった。
アレは多分、拳が届かない。
「でも……助けないと」
気づけば、足が駆けていた。
初めて、殴れる気のしないものを殴るために。




