プロローグ:聖女、壁を殴る。
ためしに壁を殴ってみたら、皮膚の焼ける音がした。
「うわ、熱っ!」
向こう側には風も吹いているし、鳥の影も飛んでいる。
なのに、触れた瞬間――焼けた鉄板へ拳を押しつけたみたいだった。
私が“ゴリラ聖女”でなければ、指先ごと消し飛んでいたかもしれない。
「ミュウルさ〜ん!」
弾んだ声を振り返ると、骨の首飾りを揺らす男が、息を切らして走ってきた。
「はぁっ……やっぱアンタ、馬より速いわ。てかその障壁ほんとに壊すんです?」
「もちろん。ぶっ壊さないと進めないし」
「……っすよね」
ギザールは呆れたように笑って、止める言葉を呑み込んだ。
この壁の前まで、私たちは旅をしてきた。
修道院から飛び出して、海を越えて、姿形の違う人たちに出会って。
そして、ようやくここまで来たのだ。
「離れてて。たぶん粉々に砕けそう」
「そういうの、触っただけで分かるんすか?」
「聖女の勘」
息を吸い、拳を握る。
なけなしの“聖力”を込めれば、熱を持った皮膚の奥で、骨がぎしりと鳴った。
「……ここまで来たよ」
聖女らしく祈れと、言われ続けてきた。
清らかに、穏やかに、ただ勇者のために祈るものだと。
けれど私の手は、お祈りに向いていない。
閉じた扉を見ると、ぶん殴りたくなる。
壁があるなら、その向こうを見たくなる。
『聖女はどこへ行っても籠の鳥だ』
私を追放した、あの人の言葉が今も胸に残っているけれど――空まで伸びる壁には、赤髪の女が映っていた。
純白の法衣は土で汚れて、頬には細かな傷がある。
修道院にいた頃より、ずっとひどい格好だ。
でも、そこに映っていたのは、籠の中で祈るだけの聖女ではない。
「この先の景色を、後から来る誰かに残せるなら……」
もう一度、拳へ力を込めた。
足下には、まだ地図に描かれていない大地。
目の前には、世界を隔てる壁。
そして今の私には、それを壊す拳がある。
「行くよ」
振り抜いた、瞬間。
キン――と、世界の開く音がした。
「ミュウルさん!」
「……うん、やったね」
砕けた壁の破片が、光になって降り注ぐ。
熱が関節を焦がす。手の骨が軋む。
でもそれが、たまらなく気持ち良い。
振り抜いた私の腕は、壁の向こう側へと突き抜けていた。
「あ……」
草原の湿った空気に、焦げた匂いが混ざる。
壁の向こうに広がっていたのは、砂漠の海。
波のようにうねる砂の上を、足の生えた魚がぴょんぴょん跳ねている。
「うぉぉぉ! なんですかアレ」
「学者さんも知らないの?」
見たことがない生き物と地形。
教典にも、修道院の地図にも、こんな景色は載っていなかった。
だからこそ、胸が震える。
「それにしても。さっすが、“ゴリラ聖女”の名はダテじゃないっすね」
「……ウホウホ」
壁が崩れる時の音、修道院の鐘に似ている。
でも、あの鐘が私を籠へ呼び戻す音なら――この音は、「外へ出ていけ」と告げる音だ。
「私はもう、籠の鳥じゃない」
降り注ぐ光の破片の向こうを見据えた。
まだ名前のない景色。
まだ誰も描いていない道。
「行こうギザール。まだ、世界は白紙のままだから」
――この時の私は、まだ知らなかった。
壊したはずの鳥籠が、私を追いかけてくるなんて。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話からは少し時間を戻して、ミュウルが修道院を出ることになる始まりの事件へ向かいます。
拳で道をひらく爽快さと、世界の謎を追う旅を、ここからお楽しみください!




