10話 聖女、地図を描く。
「オーリウスさん! 通行証のこと、本当なんですか?」
ノックもせずに飛び込んだ執務室。
その窓辺で、彼は青い月の照らす海を眺めていた。
「……」
怒りも焦りもない顔が、こちらを向いた直後。
彼は無言のまま、頭を下げた。
「え……」
「私の力が及ばず、申し訳ありませんでした」
人に軽々しく頭を下げるような人には見えない。
それなのに――。
「この国は信仰国家です。英雄が『白を黒にする』と言えば、それがまかり通ってしまうような」
自分の力では、勇者の息子の蛮行を覆せなかった。
彼は静かに言った。
「そんな……あなたが頭を下げるべきじゃない!」
つい彼の肩に触れようとした手を、直前で引っ込めた。
この人には、気軽に触れてはいけない――。
でも、私が手を引っ込めた一瞬を見られたのか。
オーリウスは視線を下げた。
「……あなたは私が気に入らないみたいだったのに」
最初に会った時から、オーリウスは私を見なかった。
それなのに、どうしてエリアスから助けてくれたのか。
「別に、気に入らないとは言っていません。ただ……」
眼鏡越しの瞳が、ほんの少し揺れた。
「面接の時、貴女が語った夢に自分の“もしも”を重ねた」
「え……?」
最初は、私が夢想の力だけで外に出ようとしているのだと思い、わざと大きな試練を課したという。
「旅は楽しいばかりではない。外の世界は危険だらけだ」
そう言って、彼は自身の足を見下ろした。
「……旅に出て、オーリウスさん自身の夢を叶えないの?」
ずっと訊きたかったことを口にした瞬間。
彼は目を開き、私を見上げた。
「だから面接の時、貴女は私に投票したのですか?」
「それは……ちょっと違う」
『一緒に旅したい人』へ投票するということだったから、無意識にオーリウスのことが浮かんだ。
「『一緒に旅したい受験者』と申し上げたはずですが」
「……それでも」
元勇者パーティーならば、なおさら外の世界のことを知っているのではないか。
だからオーリウスを選びたかったと――もっともらしいことを口にすると。
「この足ではもう、どこへも行けない」
「……!」
責めるのではない、柔らかな響きに胸を刺された。
私が喉元で止めている言葉を、見透かすような目だった。
「オーリウスさん、私……」
とにかく謝ろうと、振り返ると。
車椅子を壁の方へ移動させた彼は、真っ白な壁を見つめていた。
「あれ、まだ残ってたんだ……」
私が最初にここを訪れた時、描いた地図。
その赤い軌跡を眺めていた彼は、私の足元へ視線を落とした。
「足を出してください」
「えっ……」
何をする気なのか。
つい足を隠すと。
「違う! 何もしない! あ……いや、少し実験にご協力いただきたい」
彼が取り出したのは、丸い輪の形をした足飾りだった。
紫色の宝石がいくつも揺れている。
「これは?」
「そのまま歩けば分かります」
言われた通り、適当に歩いてみると。
「あ……!」
白地図の中に、赤い点がいくつも増えていった。
私の歩いたところが、地図の中へ記録されているみたいに。
「これなら……また明日来てください」
「えっ」
もう少し見ていたかったのに。
有無を言わさず、暗い廊下へ追い出されてしまった。
「なんだったんだろう」
ただ、オーリウスの瞳に宿った輝きが忘れられなくて。
今も胸が高鳴っていた。
翌朝。
明日も来いと言ったくせに、執務室にオーリウスの姿はなかった。
国土省のヘンテコな建物を巡ってようやく見つけたのは、試験会場だった中庭の中央。
彼は、職員が魔法で解体中の勇者像を見上げている。
「オーリウスさん」
「……ああ、貴女か」
何をしているのか訊ねると、彼はもう一度勇者像を見上げた。
「英雄の像が新しくなるそうです」
彼と一緒に旅をしたオーリウスは、像を通してどこか遠くを眺めている。
「……勇者って、どんな人だったんですか?」
別に、勇者自身のことはどうでも良いけれど。
“英雄”でも“魔族殺し”でもなく、オーリウスにとっての勇者がどんな人なのかは知りたい。
「勇者の息子が、あなたのことを“兄さん”って呼んでましたけど」
「いえ、実の兄弟ではありません。ただ……」
元同パーティーの勇者、その息子に魔術を師事しただけ――それだけ言って、オーリウスは口を閉ざしてしまった。
「……そうなんですね」
長い沈黙の間、じっとオーリウスの横顔を見守っていると。膝に置かれていた彼の手が、かすかに震えはじめた。
「この父親も、あの息子と変わらない。誰かを籠の中へ閉じ込めることで、世界の大きさを測ろうとした」
「籠の中……」
エリアスの面影がある勇者像。
『所詮は籠の鳥だ』
あの言葉が、黒い点になって染みついたままだ。
「でも……オーリウスさんは、私を外の世界に出そうとしてくれた」
解体しかけの勇者像から、視線を下ろすと。
一瞬だけ、暗い瞳がこちらを向いた。
「正式な選抜隊として送り出すはずが、不甲斐ない限りです……さて、執務室へ参りましょう」
苦いものを噛み締めたような、オーリウスの横顔。
それを目にした瞬間。
拳がミシッと軋んだ。
「ふぅ……」
(こんなものが建ってる限り、“灰色の窓”は消えない――)
音を立てる拳を、握りしめる。
胸の奥に溜まった息を、吐き出す。
そして。
勇者像の台座に向けて、拳を解き放った。
「うわぁぁぁ! なんだ!?」
「解体が面倒で、誰か狂戦士呼んだのか?」
職員たちが騒ぐ中。
「どうして、こんな……」
崩れていく像を、オーリウスは瞬きもせずに眺めていた。
「ここに、今度はゴリラの像を立てましょう」
「……は?」
聖女だった私は、勇者の息子が言う通り“籠の鳥”だった。
でも――今、私は籠の外にいる。
「誰の許可もいらない。自分で壁を壊して、外の世界を見てきます。それで世界地図を完成させたら……」
国中の勇者像が、私の像に置き換わるかもしれない――そう、確信をもって言えば。
オーリウスの唇が、かすかに震えた。
「あなただって、誰かに縛られるような人じゃないでしょう?」
それでも、今はまだ外を見ていない。
だから、一緒に行こう――。
そう言って、手を差し伸べれば。
「ふっ……」
オーリウスは俯いた。
「えっ……」
解体中とはいえ、像をぶっ壊したのはまずかっただろうか――額に冷や汗を感じていると。
「ふふっ……」
もしかして、あのオーリウスが――。
「笑っちゃうほど怒ってる……?」
「いや、違うんだ……はははっ……」
無邪気で幼く見える笑顔。
私を映す瞳の光に、つい目を奪われる。
「……なにか?」
「いえ、そんな顔もできるんだなって」
ついこぼしたら、彼はすぐにいつもの仏頂面に戻ってしまった。
「……変な顔をしていましたか?」
「ううん、笑ってましたよ」
そちらの方が、今よりずっと良い顔だった。
素直に告げると。
「……笑っていたのか、俺が」
か細い呟きが返ってきた。
「オーリウスって……」
笑い方を忘れていたのか――そう口にしようとした、その時。
「貴女はいつも、想像の外にいる」
「え……?」
「いいから来い」と、引っ込みがつかなくなっていた手に、彼の手が重なった。
「わっ」
見た目よりずっと優しい手が、私を引っ張っていく。
「オーリウスさ――」
「オーリウスで構わない」
彼はこちらを振り返らないけれど――手を握り返せば、繋いだ手の力がより強くなった。
思っていたより、ずっと大きい手だ。
私の手を丸ごと包み込んでいる。
「照れてる? ねぇ、オーリウス」
「……うるさい」
さっさと車輪を回すオーリウスに、思わず口角が上がった。
この人、やっぱり温かい。
「誰の許可もいらないとおっしゃるなら、私も覚悟を決めます」
「覚悟……?」
「勇者に逆らってみましょう」
そう言って、オーリウスは力強く私の手を引いた。
いつも氷のようだった頬を緩ませて。




