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King & Queen   作者: 悠鬼由宇
3/8

娘と娘の彼氏とその祖母との旅行?仕事?仁義なき戦い?

 そして。

 運命の日は否応なしに訪れる。


 天候は天気予報通りの曇り。気温は15度ほど、なるほど温泉日和な天候な訳で。

 朝から葵のテンションはかつてない程ハイであり、俺が少しでもチンタラ支度をしていると早く早くと急かす始末。そんなに慌てなくても翔くんは逃げないよと言うと、もし逃げたらどう責任を取るつもりなのかと責め寄られてしまう。


 ああだるい。面倒だ。出掛けたくない。家で昼まで寝ていたい。


 全くやる気のない父を引き摺り出す娘の懸命さに、何とも言い難い感情が湧き起こる。

「軍司、さっさと行きなさい。みっちゃん時間にうるさいのよ」

 知るか! てか、何故そんなことを知っているのかお袋よ。

 元銀行員の俺の時間管理の底力を見せてやろう、俺はようやく目が完全に覚め、そこから葵以上にテキパキ準備をこなし、予定時刻丁度に車のエンジンをスタートさせる。


 クイーンの店の前に定刻に到着すると、咥えタバコの彼女と緊張感溢れる翔が突っ立っている。クイーンは超高級旅館、と言う事でコイツなりに気を使ったのか翔の指導の下なのか不明だが、いつものTシャツに穴あきジーンズ、では無く一丁前にスカートなんて合わせてきている。それに白のニットのセーターが良く似合っている。馬子にも衣装とはよく言ったものだ。


 翔もいいとこの若者らしい格好、ボタンダウンシャツにグレーのニット、プレスの効いたチノパンにスニーカーといった出立ちだ。あの女の血縁とは思えぬ立派な着こなしに感動を覚える。

 葵が助手席を飛び降り、翔の元に歩み寄る。淡いピンクのセーター、くるぶしまでのロングスカート、革のブーツ。二人が並ぶと、門仲カップルとは思えない、山の手カップルだ。


「ふーん、いい車乗ってんじゃねーか、さすが元エリート銀行員ってかコラ!」

 全くもっていつもの感じでクイーンが助手席に乱暴に飛び乗る。俺は横目でジロリと睨みながら、

「今日はありがとな、そんでよろしくな」

 と一応礼を言う。


 そういえばこの車は里子の死後に購入したものだ、母と葵以外の他人を乗せるのは初めてかも知れない。

「おおお、新車の匂いがするじゃねーか、どれどれ、んだよ買ってからまだ800キロしか走ってねーのか、よっしゃ、これからはアタシが乗りこなしてくれる。カッカッカ」

 旅行やゴルフ、アウトレットへの買い物なぞてんで行かない俺は、普段車を全く使わない。こんな奴に汚されるくらいなら、これからはしこたま乗りこなしてやる、そう誓いつつ車を発進させた。


「おおおお、カーナビ! スッゲー、おお、何じゃこれ、画面触って操作すんのか! ナウいじゃねーかコラ!」

 ナウい…… 何十年ぶりに聞いたぞコラ。案の定、Z世代が反応する。

「お祖母さま、ナウいって何ですの?」

「ハア? ナウいはナウいだべ。お前日本語知らねーの? ああ、地元の公立じゃわかんねーか、そっかそっか」

「そうですね、そういうウザいバブル語は公立じゃ習いませんから」

「てか、オメーはアタシの後輩なんだぞ、何ならコイツの後輩とも言う」

 運転中の俺の肩をポンポン叩きながら挑戦的に言い放つ。


 葵は顔面蒼白になり、

「今日と言う一日が台無しになること、言わないでもらえます?」

「んだとコラ! 舐めんなよ!」

「あ。またバブル語。翔くんに感染すると困るので、控えていただきたいですわ」

 バックミラーの中で、翔が蒼褪め凍りついている。いいか翔、余計な口を挟むなや、大人しくそこで眠ったふりでもしておけ。大人な男のアドバイスを念で送る。翔は俺の視線に気付き、カクカク頷く。よしそれでいい。ここは俺に任せろ!


「箱根ってさ。翔くんは知ってるよな、そうカルデラ地形なんだよ。大昔大噴火した後に水が溜まって出来たカルデラ湖が芦ノ湖な。飛行機から箱根を見るとさ、芦ノ湖の周りを切り立った山がグルリと囲んでるのがよく分かるんだって。『箱根の山は天下の剣』なんて言うもんな」

 翔は一瞬キョトンとするも、

「あ、ああ、そうですそうです、確か滝廉太郎が作曲したんですよね。『箱根八里』って歌でしたっけ。『天下の険』かー、そういう風に俯瞰してみたいなあ」

 流石の返しだ。俺が見込んだ少年のことだけはある。

「おう。天下の剣な。『強羅切り』っなんてあったりしてな ハッハッハ」

 すると翔は首を傾げ、

「あーー えーーと、その『剣』じゃ無いかと〜」

 俺は愕然とし、

「え… そうなの? じゃあ、何けん?」

「険、嶮。すなわち地形がけわしいって意味かと…」

 知らんかった… ガチで『剣』だと思ってた…

「そーーそーー、そっちだそっち。なー。さ、さすが開聖生! よく知ってるな…」


 会社では若手に素直に物を教えて貰えるようになったが、駄目だ。葵の手前、つい意地とプライドが出てしまう。

 そしてそれを敏感に嗅ぎとる男子中学生と女子中学生。苦虫と甘虫を噛み締めた風な笑顔と、明らかに鼻で笑っている呆れ顔。

 あー、知識知識。付け焼き刃じゃ駄目なんだよ駄目、って部下達を怒鳴りつけていた昔を思い出す。

 山本くんのレクチャーをもっと真摯に受けよう。真っ白な綿になろう。木綿のハンカチーフになろう。なぞと自己反省している横から突如クイーンが、

「お前らー、どーやって知り合ったん?」


 急ハンドルに三人が揺れる。

「あっぶねーなー、ちゃんと運転しろや。で?」


「えっとー、去年の秋にヨーカドーのスタバで中間テストの勉強しててー、どーしてもわからない問題があってー、ハーって大きな溜め息出したら横に座ってた翔くんが声掛けてくれたんですう。それでこの問題がどーしても解けないのって言ったら、ちょっと見せてって。そしたらああこの問題はね〜 って教えてくれて。それで他にも色々わからない所教わって。それで今度お礼させてってねって〜。そんな感じでーす」


「ふーーーーん。ニヤ」

「は、何か?」

「オメーも、したたかだなー」

「は、何が?」


 またまた険悪な空気が車内を漂い始める。葵と翔の出会いに結構動揺した俺は頭が真っ白状態であり、対応不能。それを感じてすかさず翔が止めに入る。

「ちょ、ちょっと二人共。おばあちゃん、やめてよー」

 クイーンは哀れな視線で、

「翔。アンタしてやられたんだねえ」

 頭の中の血管のどれかがブチっと切れる音がし、停車する必要のないetc、おっとETCで思わず急停止してしまう。


「おいババア、何言ってんだ!」

「オメー黙ってろ。で、先にそのスタバで席に座ってたのどっちよ?」

「え… 彼ですけど」

「ふーーーーーん」

 それ見たことか、とばかりにクイーンがニヤつく。

「何か?」

 翔は半ばパニック状態となり、

「ちょっと、ホントやめてよー。あ、そうだ、金光さん、箱根八里と言えば…」

 俺は声高らかに、

「♫ 大刀腰に足駄がけ〜 ヤンキーババアを踏み均す〜 ♫」

「パパ。ちょっと黙って。キモ」

「ダサいなお前、その何チャラ剣で娘にバッサリ斬られてやんの!」

 カッチーン。目の前が赤く染まる。

「てめえ。降りろ! オモテ出ろっ!」


 小田原厚木道路の変。最悪の出だしだ。


 非常に非情に気まずい空気の中、車は小田原を過ぎ、箱根口で自動車道を降りる。箱根登山鉄道を右手に感じながら国道を登っていく。銀行時代の先輩に、正月にこの道を駆け下りたことをいつも自慢していた人がいたな。

 蒲鉾屋がやけに目に付くがそれ小田原名産だろ、箱根と関係あるのだろうか、なんて思っているうちに箱根湯本に近付く。もの凄い人出だ。


 何年か前に噴火騒ぎですっかり客足が遠のいたのが(と山本くんが言ってた)嘘のようだ。多くの人が自撮り棒を振り回している。俺の左隣には、この棒を絶対持たせてはならない人間が、物欲しそうな顔で観光客を眺めている。

 それにしても土曜日とは言え、これほどの人が温泉目的(恐らく)で旅に出ていることに改めて驚く。旅とは程遠い仕事をしてきたとは言え、思えば家族旅行の一つでもしてきたかと問われれば首を振らざるを得ない。己の出世、仕事、女、その次に家族。土日も休日出勤、GWや盆暮れも家庭を顧みず仕事仕事、時々オンナの日々。

 当然、葵を箱根に連れて来てやったことなど、一度も無い。


 ふと後ろを振り返る。

 最悪の雰囲気の中、心なしか嬉しさを滲ませた表情の葵。その喜びはきっと彼氏との小旅行に対するものであろう。俺という家族とのそれのせいではあるまい。

 俺はホッとすると共に、軽い悲しみに苛まされる。もっと昔から、葵が小さい頃からこの笑顔を見たかった。そうすればもっとより良い親子関係を構築できたのではないだろうか。

 より良い家族関係。互いに嘘をついたり裏切ったりせず、喜びも悲しみも分かち合い、朝起きた時から夜寝る時まで笑顔の絶えない家庭… そんなものは夢だ、幻想だ、とうそぶく自分がいる、そんな家族がある訳がない、そう言い張る自分がいる。


 そんな事はない。夢でも幻想でもなく、そんな家族だって少なからず存在するのだ、と主張する自分の胸にそっと手を当て、その手を握りしめた時。

「あれ… 強羅って今の所を左折なのでは…」

 後ろからエリート中学生が声をかけてくれる。

「あららら… すまんすまん」

 違うわ違う、もーしょうがないわね、暫く真っ直ぐ行って左右左よ、とカーナビ嬢も複雑な図形を描き出してくれる。

「はーーーーーーーー」

 助手席から深く長い溜め息が聞こえてくる。


「な、なんだよその溜め息。悪かったよ」

「オメエ、道もまともに走れねえのか。そんなんだから人の道も踏み外すんだろうが!」

「お、お、お前に言われたか無いわ! お前は人の道どころか子供の道、少女の道、オンナの道、ありとあらゆる道の外を走って来たんだろうがっ」

「あたしは親の道、ばあばの道はど真ん中走ってきてるけどな」

「んぐっ…」

「てめえも親の道ぐらいはマトモに歩けや、ボケが」

 より良い家族関係。クイーンと翔、やっぱりあるじゃないか! ちゃんと存在するじゃないか、目の前にいい手本が!

「ちょ、ちょっとお婆ちゃん、あーー! 金光さんまた真っ直ぐ行っちゃっ…」


 危うく御殿場まで行きかけて、然し乍らようやく第一目的地の強羅にたどり着いたのは、それから約一時間後の事だった。


     *     *     *     *     *     *


「パパ、じゃああたし達はこれから岡田美術館とか回るから。どうぞごゆっくり〜」

 未だかつて見たことのないウキウキした笑顔で小さく手を振る葵。

「お婆ちゃん… 駄目、喧嘩、絶対…」

 一方、とても中学生とは思えない心配顔で俺たちを見守る翔。

「じゃあ、打ち合わせ通りな。夕ご飯お前らこの辺で済ませておいてな。小遣いは葵に渡してあるからそれで食うんだぞ。八時にここで待ち合わせ、な」


 俺から五千円、母から五千円をゲット済みの葵は満面の笑顔で何度も頷き、

「はーい。ま、何かあったら連絡取り合うってことで」

 そんな二人を森の魔女のようないやらしい笑いを見せながら、

「お前らー、電源切るなよーー ヰヒヒ」

 やっぱり心配で心配で仕方ない翔が、

「お婆ちゃん… 金光さんと、その、仲良く、ね」

「「それは無理」」

「……」


 嬉しさを隠しきれない娘と、不安で心配でオロオロする孫を駅前で降ろし、陰鬱な気分のまま俺は車を発車させる。これからは、そう、この女と二人きりになってしまうのだ…

 葵のあんなに楽しそうな顔を俺はこの数年見た事がない。いや、生まれてこの方見たことがない。親の道か。こんなにも奥の深い細道とは芭蕉も知らなかったであろう。


 ふと助手席を見ると、この因業ババアは鼾をかいている最中だ。今ならやれる、この手をその細い首に… いかんいかん、100%化けて出て呪い殺される。しかも俺だけでなく葵にまで取り憑きかねない。

 それよりも、そんなことをしたら山本くんの仕事に差し支えてしまう。そっちの方が重要案件なのだ。最優先事項なのだ。今日の所は勘弁しておいてやろう。

 この人としての判断が、後に人の命を救うことになろうとは、運命の神ですら…


 俺たちは国道を小田原方面へ戻り、第二の目的地、今回の最重要課題である日帰り温泉の宿へと向かう。隣の鼾を無視するために窓を少し開けると、新鮮な空気が流れ込んでくる。新緑の若い匂いに心が少し落ち着いてくる。


 そう言えば女性とドライブなんていつ以来だろう。俺はこれまで浮気相手とドライブデートなぞした事がない。浮気相手とはサクッとホテルで落ち合い、サクッとする事をし、サクッと食事でもして帰宅する。それが里子が亡くなるまでの俺の逢引のスタンスだった。

 それが今回― 鉄板のドライブデートなのだ。新緑の箱根路を颯爽と車を走らせ、スマホにダウンロードした懐かしの洋メロを流し、軽快なトークに時間の経つのも忘れ……


 隣を見る。口を開け涎を垂れ流し、だらしなく爆睡している女性… あれ、こんな筈では…

 違う違う! 

 俺はドライブデートに来たのではない! 絶対に失敗できない仕事で来ているのだ。若い二人の『アオハル』振りを見せつけられ、危うく本来の目的を見失う所であった…


 渡された資料によると、宿の名前は『銀の竪琴』。塔ノ沢にある部屋数は二十室そこそこの超高級旅館。通常の宿泊費は俺にとってあり得ない値段だ。こんなハイクラスの旅館は地方勤務時代の接待で呼ばれて以来だ。

 俺は温泉が好きではない。そもそも入浴時間が短い。五分と浸かっていない。長湯している時間が勿体無い。風呂は体を清潔に保つ目的でしかない。


 当然家族や彼女と温泉旅行なぞ経験が無い。旅館の料理にも期待してない。美味い料理は東京。全ての美食はその首都に集まる。経済と一緒だ。金も人も学問もオンナも、そして美食も東京一点集中であることを俺は前職を通じてしっかりと見て来ている。東京に近いとは言え、たとえアジアに名だたる箱根温泉とは言え、首都東京の料理にかなう筈がない。


 それなりに接待その他で美食を齧って来た俺は、一ミリも期待する事無く、旅館に向かっている。隣では、うわっ、口からヨダレを垂れ流している老廃棄物化した物体が異臭を…… いや、臭くはないな…

 今気づいたのだが。店に出ている時のこの女は、安っぽい香水臭がするのだが、あれ、今日はなんか爽やかな香りが車内に漂っている。が、仄かにヨダレ臭が混じっている。さっきほど深くはないが溜め息が出る。


 温泉。食事。五十オンナ。俺にとっての罰ゲームはまだ幕が上がったばかりらしい。


 幽谷を流れる早川を渡り、カーナビ嬢の導きにより、申告していた到着時刻よりも一時間ほど遅れて旅館にたどり着く。

 建物は質素ながらかなり質の良い木材をふんだんに使用しており、一見してただの温泉旅館との格の違いは明白だ。自然の中にひっそりと佇む大人の隠れ家、なんて他社のサイトのキャッチコピーそのままの姿につい苦笑いが出てしまう。


 隣のもはや爆睡状態である眠れる森の鬼女の肩を叩く。

「おい、クイーン、着いたぞ」

「っセーな、馬鹿やろ… お、着いたかー、えっ……」

 自然に溶け込んでいるかの様な建物を一目見て、クイーンは固まってしまう。


「どうした?」

「お、お、おま、こ、ここなのか?」

「どうやらそうらしいな」

「な、なんか、敷居高そーじゃねーか、ア、アタシやっぱいーわ」


 まさかのクイーンの挙動に俺は面食らう。

「は、な、何言ってんの、今更?」

「ば、馬鹿、こんな高級なとこ、無理だって」

 両腕を前で組み、助手席から動こうとしないクイーン。


「無理? 意味がわからん。さ、行くぞ。あ、その前に涎拭け」

 この女のことをそれほど知っている訳ではない。何しろ地元の有名な暴れん坊、もとい、暴れん嬢… 表現不能か… さて置き。兎も角、こんな弱気を垣間見せる女とは思いもしなかった。

 想定ではいつもの態度で『おっ、まあまあじゃねーか。タダ風呂タダ飯、ヒャッハー、あ、おっさん、この荷物頼むわー』くらいはアリと踏んでいたのだが。


 無理やり車から引きずり出したこの女は挙動不審、葵たちの言葉で言う、キョドッている事甚だしく、駐車案内の係りの人に何度も深くお辞儀するは、深緑の中にひっそりと佇む宿を見上げて口を押さえて硬直して動かなくなるは、入り口に向かう俺の後ろを怯えながらコソコソ歩くは… 全てを動画で撮っておかなかった事を後日どれ程後悔しただろう。


「お前、よく温泉旅館行くんだろ?」

「だ、だから、こんなスゲーとこじゃないんだって」

「スゲーもクソもあるかよ。たかが温泉、宿飯だろうが。ビクビクすんなって」

「お、オメーは慣れてんだろうが、アタシにゃ場違いってか、その…」

「はーーー? らしくねえな、さ、行くぞ」

「ちょ、待てって、おい、待って」


 そう言いながら、俺のジャケットの後ろをギュッと握っている。

 なんだこの感覚。俺の心に一瞬だが『この女可愛い』感が過ぎったぞ。なんだこの縋るような眼差し。微かに震えている細い手。真っ赤になっている形の良い耳。一瞬で過ぎ去ると思った感情が、意外にも俺の心に暖かさを灯し始めた時。

「お、おい。鼻毛出てんぞお前」

 急速冷凍。俺が馬鹿でした俺が馬鹿でした俺が馬鹿でした。


「金光さま、お待ちしておりました。旅行代理店、『鳥の羽』さまを通しての日帰りのご予約で間違いございませんでしょうか?」

「ああ。今日は宜しくね」

「それではこちらにお名前と連絡先の記帳をお願いいたします」

「はいはい。サラサラサラ〜っと。同伴者? おい、お前あと書いといてくれ」


 彼女のペンを持つ手がリアルに震えている。それも震度五強はある。それに小学生が見たら驚き呆れる書き順で書かれた名前を判読するには、もう少し文明が発展しなければ不可能だろう。住所に至っては、東京にこんな地名は無い、位に無残な出来栄えである。


 フロントの受付嬢はそれでも顔色変えず笑顔を絶やさずにいる。へえ、やるじゃないか、銀の竪琴。東京のそこそこのシティーホテルレベルじゃないか。

 感心して二人を眺めていると、額から汗を流しながらクイーンが俺を恨めしそうに見る。何故か罪悪感を感じる。フロントを離れ、部屋に案内してもらいながらこの旅館の風呂について説明を受ける。各部屋に内風呂があり、他に内湯、露天があると言う。


 山本くんからの資料にも書いてあったが、この複数の湯の意味が正直わからない。風呂なぞ一つあればいいではないか。何故露天? まあこれも仕事だ。俺の好き嫌いは置いておかねば正鵠を得られまい。案内された部屋に上がり、唖然とする。


「それではどうぞごゆっくりお寛ぎください。お食事は五時にお部屋に準備いたします」

 バッタの如く何度もペコペコお辞儀をするクイーンを横目に、この部屋の素晴らしさをどう会社でプレゼンすれば良いか頭を悩ませる。俺みたいな温泉旅館素人でもわかるこの高級感、そして清潔感。畳、調度品、障子、全てに圧倒される。目を閉じると何とも言えない畳の香りについ笑みが溢れてしまう。


 そして部屋付きの内風呂を見て心底仰天してしまう。すごいな日本人、これは文化だ。入浴という習慣を文化にまで高め、その極みを見た気がする。間違いない、この風呂に浸かれば俺の入浴に対する概念が大きく変わる。そう思わせる何かを一人感じていると、

「ビ、ビール飲まねえか?」

「そうだな。俺は一杯くらいなら飲むかな」


 冷蔵庫に入っていた箱根の地ビールを空け、グラスに注ぎ二人で乾杯だ。

「プハー、生き返ったー、いやー、参ったわー」

「何なんだよ、さっきからお前、借りてきた化猫みたいじゃないか」

「だからよー、こんな高級なトコ、生まれて初めてなんだよ。お前と違ってアタシは庶民様なんだからよ」

「俺だって同じだって。そもそも温泉旅館なんて滅多に来ないんだからさ。やっぱここは普通の旅館とは相当違うのか?」

「ぜっんぜん違う。何から何まで全然」

「何から何まで?」

「駐車場に止まってる車が違う。全部高級車」

「そ、それは客筋の問題だろ」

「全てがあまりに綺麗すぎて、スッゲー緊張する」

「それは普段薄汚いお前の問題だろ」

「受付とか仲居さんが丁寧で優しいけど目が笑ってない」

「それはお前が不審すぎるからだろー… あれ怒んないのか?」

「お前とかどーでもいいくらい、ここは綺麗で高級で、キンチョーする」


     *     *     *     *     *     *


 相変わらず思ったことを包み隠さない。それだけにこいつの叫びは庶民層の代弁と受け取ってよさそうだ。するとこのクラスの旅館はちょっと背伸びした庶民層には敷居が高いのか?

「なるほど。じゃあ温泉だ。色々入って来て、またお前の率直な意見を聞かせてくれ」

「お、おう。あ、それよりアイツら二人、よろしくやってんのかな。美術館行くとか言っといて、実は奴らも温泉っ 今頃二人一緒にこんな風呂に入ってっ… いってー」

 思わず頭を叩いていた。ヒットアンドダッシュ、俺は鍵を握りしめ、

「俺は露天風呂とか行ってくるからお前はその内風呂から先に入れや。ビール追加していいぞ」

「は、何言ってんだオメー、外に出たフリして覗こうって魂胆だろー」


 俺は全身全霊で溜め息を吐き出しながら、

「いやいやいや、大丈夫。お前があと二十歳若くて性根入れ換えて人の道を真っ直ぐ進んで人に優しく己に厳しく、そして豊乳手術受けた後ならその可能性は若干上がるがな」

「すまん、日本語喋ってくんね? 何だよ豊乳手術って。てか、折角なんだからさ、でっけー風呂入りたいんだよ。この部屋の風呂は別にいいわ」

「成る程。じゃあ俺が入らせて貰うわ」

「おう」

「ああ」

「…」


 クイーンは何故かモジモジしながら俺をじっと眺める。

「何だよ?」

「着替え」

「は?」

「浴衣に着替えてーんだけど」


 浴衣に? 何故に? 意味不明。

「何で?」

「は?」

「え?」

「お前、マジでこーゆートコ、アレなんか?」

「さっきから言ってんだろ。で、こういう所では浴衣に着替えねばならないのか?」

「お前、ホント日本人なのか? 温泉来たら浴衣だろ、即」


 浴衣、成る程、浴する際の衣。なんか面倒臭い。

「仕方がない、わかった。じゃあ着がえよう」

「お、おお。じゃあそっちで着替えるから… 覗くなよ」

 俺は少しキレながらクイーンを睨め付け、

「さっきのセリフ、繰り返そうか?」


 隣の部屋から衣擦れの音がする。何も感じない。たかがババアの脱衣行為だ。想像するのもキツい。あの貧相な丘が老化で垂れ下がっているのを… 想像してやはり後悔する。溜め息をつきながら俺も着替える。浴衣なぞ身につけたことがあったか。子供の頃にあったかもしれない。

 帯が面倒くさい。適当に巻いて締めて、着替え終了。座卓に座りグラスに残ったビールを飲み干すと、クイーンが隣部屋から姿を現す。


「……」

「んだよ?」


 想定、外だった、完全に。今日一番の、いやコイツと出会ってから一番の想定外だった……


 確かに胸元は論外だ。辛うじて双丘の膨らみが見られる程度だ。

 だが、巻き上げられた髪、それにより露わにされた白く細い首筋、一部の隙もない浴衣の着こなし。帯もピッと決まっていて細いウエストに嫌が応にも目が吸い寄せられる。

 自分ではこの旅館が高級すぎて緊張するとボヤいていたが、どうしてどうして、彼女の佇まいは宿の高級さとの相互作用により、観る者の心を激しく揺り動かすのは間違いない。


 俺の心も大いに揺さぶられている。一言で言うならば… 色っぽい。艶やかだ。これまで付き合ってきた若い女性には決して垣間見られなかった色気に、俺はかなり動揺している。


「浴衣… 似合うじゃないか…」

 かろうじて声に出す。するとクイーンは俺の浴衣姿を眺め、呆れ顔で

「お前、日本人やめろ。なんだその浴衣の着方、ガキかお前。母ちゃんに教わっとけ。てか、今から内風呂入るんだろ、何で今着替えんの? バカかお前」

 心は一瞬にして平静を保ち始めた。


 外の風呂に行く前にもう一缶飲みたいと言うので、ちょっとだけ付き合うことにする。グラスにビールを注ぎながら、

「だけど、お前の息子… 孫、ホント良くできた子だよな」

 としみじみと呟く。

「まあな」

「…… その、なんだ、翔の父親って…?」

「ああ。真琴の旦那な」

 あそっか。翔の母親がマコトさんと言うのか。

「あ、いや、…マコトさん? の父親って…?」


「はあ? ああ、あの人のことね…」


 突然、夢見がちな顔に豹変する。懐かしさと嬉しさと、そして寂しさがクイーンの表情を彩るのを俺はやや落ち着きを無くしながら窺う。


「あの人はね… 私が家裁に送られた時の検事さんなの」


 突如、クイーンの口調がガラッと変わった。何じゃコレ? 余りの激変ぶりに俺は激しく動揺してしまう。


「え…?」

「ほら、十六の時に… ちょっと無茶してね… 私、逮捕されたのよ」

「ど、どうしたクイーン… その話し方… いや待て、でも検事って… 何したんだ?」

「んー、族同士の喧嘩よ」


 ああ、翔が話していたアレか。そう言えば当時、俺も聞いたことがあったな。全国紙ネタになったほどの大闘争だった筈だ。

「まさか、相手殺しちゃったとか…」

 俺は唾をゴクリと飲み込む。まさか、な?

「殺しとけばよかったかも、あの人達」


 いやいやいや。一体何人がその日地獄を見たのだろうか。それにしてもクイーンのこの態度…  日頃の毒舌べらんめえ口調からは全く想像が出来ないこの人格変化。これでは単なる品の良い美しい美魔女ではないか!

 見事にハマっている美しい浴衣姿とこの淑やかな態度に、俺の心の奥底に何かが灯った気がする…


「いや、傷害くらいなら検察官送致まで行かないだろ…」

「んーー、止めに来た警官も何人か、あとパトカーもちょっと、ね」

「ハア? 何で… 逆ギレか?」

「んんん。仲間を逃がすためかなー」

「傷害、職務執行妨害、暴行、器物破損… これはダメかも知れないね」

「共同正犯もね」

「…お、おう。で?」

「で、送検されてそこで黙秘していたのよ。だけどその検事さんが…」

「け、検事さんが?」

「ブッサイクで、小太りなんだけど」

「だけど?」

「チョーーーーいい人だったの。私の家庭の事情、仲間の事情、事件の原因、相手の非道さとかを全部受け止めてくれて。あんな人、男では初めてだったの」

「男、では?」

「女の人なら貴方の… いえ、それでね、少年院出た後も、色々相談に乗ってくれて」

「乗ってくれて?」

「それで… この人なら信用できると…」

「できると…」

「だから、この人に捧げたいと…」

「ゴクリ。そ、それはその…」

「私の処女を」


 もう温泉や仕事どころでは無い。地元で知らぬ者はいないダークレジェンドの秘部、もとい秘話である。健太や忍は知っているのだろうか。

「それで、その人と結婚を?」

「ううん。だってその人、奥さんいたもの」


 全力でずっこけた、さながらドリフの如く。この女が不倫、ちょっと想定外であった。

「…… それな」

「初めてを貰ってもらう。それだけで良かったの」

「は? じゃあ…」

「うん、その一度きりよ、その人とは」

「ちょっと待てーーー、よし、その人とは一度きりな、で、その一度で…」

 クイーンは顔を赤らめ、恥ずかしそうな表情でそっと呟く。


「そう。真琴が出来たの」


 上野動物園のマウンテンゴリラに思い切り殴られた様な衝撃を受ける。

「マジ…か?」


 俺が呻く様に言うとクイーンはそっと頷き、苦笑う。

 彼女は翔に言っていた、これまでに三回しかセックスをしたことが無いと。当然俺は笑い飛ばしていた。そんなことはありえないし、そんな女はこの世にいる筈もない、と。だが彼女のこの独白を聞いて、俺は自分の価値観を疑い始める。彼女はこの様な事で嘘をつく事はあるまい。短い付き合いだがそれは分かる。

 

 そして、その彼女の価値観に驚愕すると共に惹かれ始める。この容姿だ、中身は別として、これまでの人生で大勢の男共に、相当言い寄られてきたであろう。

 相手の金、権力、容姿に惑わされる事なく、自分の価値観のみを拠り所とし彼女は男を選んできた。相手の想いでは無く、自分の想い。

 彼女に想われた男達に会ってみたい、何故かそう思った。


 クイーンが露天風呂に出て行った後、部屋の内風呂に入る。あまりの衝撃の告白に茫然自失状態の俺であった。俺の価値観を覆す女がこの世にいたとは思いもしなかった。

 女は相応の対価さえあれば、惚れた男でなくても体を委ねる事ができる。男はその体さえ手に入れられれば対価を渡すことに吝かでない。俺はそう信じ、実行してきた。


 周りを見てもそうだった。金や権力を持った老人たちが、それを対価に若く美しい女を側にはびらせ、女たちもそれに満足している姿をいやと言うほど眺めてきた。

 まさかこの世に、本当に惚れた相手にしか体を委ねない女がいるなんて…

 浮気をしたことのない主婦は相当数いるだろう、いや大半が経験ないのかも知れない。だがそれは夫以外の男から求められた事がないからであろう。

 もし本能的に好意を寄せてしまう男からチャンスを与えられ求められた時、それを断れる女はどれだけいるだろうか。俺は今までそんな女は存在しないと確信してきた。

 俺の考えが間違っていたのだろうか? この内風呂に入りながら自問自答する。


 湯船に浸かり外を見渡す。

 鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 風に揺すられた樹木の擦れ合う音が耳に心地良い。

 緑が目にしみる。

 仄かに立つ湯気が現実から俺を遠い世界に誘う。

 湯の香りとヒノキの香りが俺の自問自答の思考を停止させる。

 ・・・・・・・・・・

 どれ程時間が経ったのか。

 常に時間に追われていたこの数十年のしこりが、嘘のようにほぐれていく。

 軽い。

 心が軽い。

 ・・・・・・・・・・

 喉が渇く。湯船から出て、体を拭き、机に置いた腕時計を見て驚く。三十分経っていた。時を忘れる、とはこの事なのだろう。

 俺は今、心の洗濯をしたのだ。入浴は時間の無駄と決めつけていた自分が過去のものとなる。


 何も考えないことがこれ程までに人をリラックスさせるとは。今日の旅行が心底憂鬱だった自分が嘘のようだ。この『無の時』を求めて人は温泉に来るのだろうか?

 成る程、俺は今まで人生を少し無駄にしてきたのかも知れない。この歳にしてこの感動を知るとは思わなかった。この気持ちを役員、幹部達にどう講釈すれば良いか。いや。彼等は既に知っているはずだ。知らなかったのは俺一人。

 だが、これで良い。『無知の知』。己が無知である事を自覚し、その自覚に立って真の知を知れば良い。


 喉が渇いたが帰りの運転があるから、冷蔵庫の天然水で喉を潤す。冷たい水が喉を通り過ぎる。途轍もない快感を感じる。もはや官能の世界だ。湯上がりの冷たい水。甘露とはこのことを言うのであったのだ!

 ごく当たり前の事にこれ程までの快感がある。そんなことも知らずに過ごして来たのか。まあ、いい。俺は知った。無知である事を知ったのだ。これからだ。

 この小さな内風呂でこれ程の経験が出来たのだから、内湯、露天風呂はどれ程俺を感じさせてくれるのか。浴衣の帯をしっかりと結び、期待に打ち震えながら俺は部屋を出た。


     *     *     *     *     *     *


「今日は土曜日だから混んでると思うけど、平日も混むのかな?」

「はい、お陰様で今月は平日もほぼ予約でいっぱいです」


 内湯に向かう途中、フロントで支配人を呼び出し、この宿のリサーチする。支配人は俺と同年配、東京の一流ホテルのフロントマンに匹敵する程の人物、と見た。

「客層としてはどんな感じなんですかね?」

「大まかですが、やはりシニアのお客様が多いかと。若いお客様も少なくはないです」


 おおお。大当たりだぜ山本くん。シニアの金持ちがちょいと箱根の湯に入りに来るって訳なんだな。ふと気になったことを聞いてみる。

「外国のお客さんは多いのかな?」

「当館では少ないですね」

 箱根湯本は中国人と思しき外国人だらけであった。彼らはこの様な超高級旅館には来ないのか。それはきっと…

「やはり価格のー」

「はい、金額に見合う価値を見てくださるのは、やはり日本のお客様ですね」

「成る程、コストパフォーマンスか。これ程の金額に見合うハード、ソフト、サービス、そして…」

「はい、あと人材ですね」

 良い企業イコール優秀な人材。当然のことである。

 

「ウチの社は今まで若年層相手なんだけど、僕以上の世代にここの良さをどうすれば上手く伝えられるかな?」

 支配人は軽くウインクしながら、

「それは当館を出られた後に、必ず判るかと」

 俺もウインクを返しながら、

「ははは。期待しちゃいます」


 バブル全盛期には様々なマニュアル本があって、その記事に俺らは翻弄させられ踊らされて、本当に価値あるものに金を払っては来なかった。言い換えれば、本物の価値を自分たちで主体的に決めてこなかった、決められなかったのだ。

 

 だが今は、ネットの口コミなどで多少の主観のズレはあるものの、概ね正当な評価をお客側が下しているのである(と山本くんが言っていた)。

 本当のモノの価値を知らず、ブランド品、有名処に群がっていた昔と違い、今は本当に良い物でないとこの時代の人は見向きもしない。

 逆にその価値に見合うものであれば、喜んで大金を払う。


 となると俺ら会社の仕事は如何にホンモノを、如何に感動を見つけ出してくるか、それに尽きるのではないだろうか。

 この宿などは既に知れ渡っていて、我が社が顧客に提供しても目新しさがない。だとすると、この宿レベルでまだ既読のついていない宿、景観、名産を見つけ出し世に出す、これが我が社のスタンスであるべきなのだろう。

 であるならば、如何にして今後日本全国津々浦々、アンテナを張り巡らして行くべきなのか。その辺りが今後の我が社の発展の為の課題であろう。


 さて、仕事は半分終わった。まずは内湯から楽しませて貰おう。

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

 いい。

 実に良い。


 俺は子供の頃から公衆浴場が嫌いだった。何が嫌いかと言うと、知らないオッサンに話しかけられることだ。

 特に門前仲町の銭湯は下町のオッサンが多く、やたらと話しかけられる。仕方なく返事をする。すると話が進み、結局早く湯船から出たい俺は我慢して長湯する羽目になる。

 あの頃の思い出があるので銭湯や温泉は好きではなかったのだが、ここは良い。


 今、俺の他に二人。一人は初老、もう一人は二十代。三人で浸かっているが、それぞれが湯を楽しんでいる、と言うか自分の世界に浸っている。

 おそらく初老の方は定年退職後、半年に一度の贅沢を伴侶と共に、そして二十代の方は彼女へのサプライズデートとして、それぞれこの湯を楽しんでいるのだろう。

 きっとそうに違いない。元銀行員の観察眼は刑事に匹敵するのだ。そうなのだ。


 改めてこの内湯を見回すと、本当に隙のなさを感じてしまう。

(多分)檜造りの湯船、シャンプー、ボディーソープなどのこだわり方、磨き抜かれた大きな窓ガラス、そしてこの柔らかな湯。

 クイーンは堅苦しさを感じてないか、あとで聞いてみよう。俺には宿の真心と誠意を感じる、それだけなのだが。

 ただ、部屋の内風呂ほどの感動は正直ない。五感で湯を感じることはとても出来ない。


 そうなると、もう一つの露天風呂に大いに期待が高まる。

 自分の人生? 彼女とのアレ? に浸っている二人を残し、俺は早々に湯を上がり脱衣所に戻る。

 入る時にもちょっと驚いたのだが。

 何と行き届いた脱衣所なのだろう。脱衣カゴは恐らく東南アジアの籐家具だ。床は水がすぐに染み込む工夫のなされたものである。体脂肪率測定機能付き体重計が俺を凹ませ、今セレブ層で大流行りの羽根なし扇風機が俺の火照りを吹き飛ばしている。


 洗面所には何種類もの化粧水類が置かれ、ドライヤーはあの有名なドイツ製のやつである。バスタオルは日本製、これ程のサービスは東京の高級ホテルを軽く凌駕しているであろう。

 これだけのものを提供してくれるなら、このお値段は妥当である。そう断言できる。先程の支配人のしてやったりの笑顔が目に浮かび、一人笑ってしまう。


 俺の知っている温泉宿では、内湯から直接露天風呂に行くのだが、この宿は違う。内湯と露天風呂がそれぞれ別個に存在するのだ。どちらも同時に楽しみたい人には不便かも知れないが、この方式の利点は脱衣所の混雑が緩和されることではないだろうか。

 内湯を楽しみたい人と露天風呂を楽しみたい人がそれぞれ別々の空間にいることで、より『隠れ宿』的な個別感が体感できるのだ。


 一人納得し感心しながら露天風呂の脱衣所に入る、案の定入浴客は俺一人のようだ。

 あ。

 そう言えば、内湯にサウナがあったわ。山本くんに、

「いいですか、これから時代はサウナです。サウナを制する宿が日本を制すのです、よくリサーチして来てください」

 と言われたなあ。


 俺は、風呂、銭湯、温泉は単に嫌いだが、サウナは大嫌いである。一万円もらっても断る自信がある。理由。狭い空間、いわゆる密室で高温多湿の環境がよろしくない。更にそこに汗まみれの他人と同席… 有り得ない。それが例え若くて巨乳のかわい子ちゃんと一緒であったとしても、だ。


 正直、俺たち昭和人の感覚で言うサウナ。それは、男女交際ならぬ男男交際の場、と言うイメージが強い。新宿や新大久保のサウナはその線でとても有名であり、女大好きの俺は男の裸体、それも汗だくの全裸は正直見たくない。


 だが山本くんは、これからサウナは間違いなくブームとなる、特に若者の間で、と言うのだ。この小僧は何を言っているのか、と思ったし今も思っている。

 長年銀行マンとして培ってきた俺の審美眼は、それを拒絶している。絶対にサウナブームなぞ来ないし流行らない。


 ま、後でちょいとだけ覗いてチャチャっと報告すればいっか。

 それよりも、露天風呂だ、露天。


 浴衣を男らしく脱ぎ捨て、藤籠に放り投げる。大いなる期待感を胸に、露天風呂への扉をゆっくりと開いていく。

 ちょっと肌寒い風が少し火照った体に気持ちが良い。新緑の湿った匂いと、軽い硫黄臭に体が喜び始めている。

 一歩進むたびに足裏が冷たい。だが歩を進めていくに従い、逆に胸は熱くなっていく。


 早く入りたい。すぐ目の前の、緑に囲まれた露天風呂に!


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