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King & Queen   作者: 悠鬼由宇
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意味不な社命が二人を、そして家族を新たなるステージへと誘う

「金光さーん、昼飯一緒に食べませんかー?」

「は? ああ、山本くん、うん」


 転籍先の旅行代理店、という言い方はおかしいか。俺の勤め先。俺の会社。それだ。で飯に誘われたのは初めてだ。取引先の銀行からやって来た悪い噂しかない、やな奴の俺なのに。

 一年間誰も話しかけることが無かったのだが、一体どうした風の吹きまわしなのか?


 自己分析、これが出来ないと管理職には絶対なれない。

 銀行時代の管理職セミナーでも徹底的に分析され分析し、俺は今部下達にどう思われているのかがほぼほぼわかり掛けて来た時、支店長になっていた。

 なので、この会社の社員達が俺をどう思いどう扱っているか、よーく存じ上げている。

「いやー、昨日の会議ではありがとうございました。金光さんが僕の企画推してくれたおかげで…」


 有楽町にある社員五十名程のこの会社は、大手旅行代理店のような老舗旅館とのタイアップやら海外航空券付き宿泊などには関与せず、まだ流行っていない知る人ぞ知る穴場の旅館やホテル、観光地、特産品なんかを探し出して来ては主にネットで紹介し販売するというスタイルの、まあ俺から見たら学生サークルの延長、のような会社だ。

 なので皆、若い若い。社長なんてまだ三十代だ。


 そんな中に突如銀行から派遣された五十代の訳ありオヤジに対する一般社員の対応とはー

①無視

②シカト

③ハブる 

 のいずれかが最適解である。だが、社長、役員連中は未だに俺に対し、直立不動で敬語で対応してくる。俺が在籍していた銀行への気遣い以外ない。


 海千山千の元大手都市銀行支店長の俺から見たら、役員会議一つが茶話会程度にしか見えない。このサークルもどきの会社で一生懸命働いてる彼等が、哀れというか呆れてしまうというか、何で俺が学生さんの延長のような彼らと一緒に企画だの営業だの、今更しなくてはならないのか。という悲しい程の上から目線を隠そうともしてこなかった。


 一つだけこの会社の長けている部門は営業部だろう。小さい会社ながら、かなり積極的な営業を仕掛け、海外旅行のツアーなんかも仕切っているらしい。ま、俺の担当は企画部なので関係ないのだが。


 そんな事よりも、これまでこの会社の仕事に気が乗らなかった一番の理由は、やはり銀行で出世街道から転げ落ちたショックから未だ立ち直れないからだ。

 更に言えば、そうなった原因である里子の急死を完全には受け入れられていないのだろう。

 生前は大した事もしてやらず、あまつさえ不倫関係を楽しんでいた俺だが、里子の死後の人生の狂いっぷり… 左遷転籍、娘の反抗に始まる家庭不和、収入の激減、等々に打ちのめされ、何の生きがいも気力も無くただ一日一日を過ごしてきた。


 だが、こないだの衝撃的な一連の出来事が、俺の冷え切って凍りついていた心を少し溶かした事は否めない。その溶けた溶液が昨日チョロっと化学反応を彼らに引き起こしたみたいだ。


 山本くんを会社の近所の蕎麦屋に誘い、今日は俺の奢りだから好きなものを注文しなさいと言うと、唖然とした顔でそれでは、と特製天ざるセットをしれっと注文してくれる。

 そして注文を終えるや否や、昨日のプレゼンについての率直な意見を聞かせて欲しいときたもんだ。

 最初はまぁ良いんじゃない、なんてお茶を濁していたが、どうやら本気で俺の意見、即ち元大手都市銀行支店長の評価を望んでいる様子なので、蕎麦を啜りつつちょっと昔を思い出しながら、あの頃のように遠慮なく口を挟み出す。


「全然甘いぞ。企画全体としてはまあまあだが、特に予算の見積もり。学生じゃないんだからもっと正確かつ的確なものを」

 山本くんは苦笑いで、

「いやー 元大手銀行の支店長のお言葉、キツイです。でも、ええ、甘いんですね?」

「正直、旅行業界のイロハがわからんから、漠然としか言えないがな」

「え、は、色葉?」

「…… ノウハウというか、この業界のことがな。でも丁度いいわ。昨日の企画でな、お前があれだけ日帰り温泉推した理由、未だに全く理解出来かねるのだけど。何あの『僕ならこうですから』的な理由付け? 僕が行きたいのはよーく分かった。じゃあ世の中に僕みたいに考えている二十代の男性は何%いるの? それはザックリ何人なの? 十万人?百万人? で、その人達を既に受け入れている宿はどん位、何人? 需要と供給のギャップはどれ位なの? そこがお前のビジネスチャンスだろ。って… おい、飯食え飯…」


 二十代前半の山本くん。意外にもノートを取り始めた… と思いきや、なんとスマホいじり出してる… なんだこいつと思いきや、よく見るとONE DRIVEに書き込んでんのか。


 若い会社は面白い。飯食ってる最中に先輩の話メモるなんて。そんな姿は銀行時代に見た記憶がないし、やった記憶もない。

 その後飯が冷えるのも構わず、店のおばちゃんに追い出されるまで熱く指導してやると同時に、今更ながらこの業界のことを色々聞き出した、いやむしろ教えて貰った。


 旅行業。今俺が属している業界だ。東京オリンピックを控え、今最も伸びている業界であると言われているらしい。

 旅行、か。俺は一人溜め息をつく。

 俺自身忙しすぎて旅行なんてこの何十年殆ど行ったことがない。行ってみたいとも格別思わない。そう、俺は出不精なのである。


 休日には家で寝転んでいるのがデフォルトであり、連休なぞは日頃の激務の体力回復に充てていたものだった。今思うとそんな俺を里子も葵もよくぞ我慢してくれたものだ、心の中でオイオイと泣いてみる。

 そもそも、何故人は旅行に行きたがるのだろう。そんな原点回帰な気分のまま社に戻り、ネットであれこれ検索してみる。

 転籍して一年、初めてこの業界に、この会社に少し興味を持てた。


 気がつくと終業時刻となっている。転籍して一年、これ程時間があっという間に経ったのは初めて。大きく伸びをし、何となく周囲を眺めると、何人かの非難じみた視線を感じる。

 会社を出て、駅にある旅行代理店をふと覗いてみる。カウンターは満席、予想外の客の多さに目を丸くしてしまう。

 店外の旅行のパンフレットを手に取り眺めてみる。旅行好きでない俺でさえ、「あ、ここちょっと行ってみたいな」なんてつい思う程の出来である。

 そんな俺の横を次々と客が店内に入って行くのを見て、正直驚いてしまう。何と大勢の人が旅行を求めているのだろうか、と。


 ふと、普段旅行なんて行くこともないだろう我が地元の庶民層は、旅行にどんな想いがあるのか聞いてみたくなり、あの居酒屋に行く事にする。

 健太に連絡をすると直ぐに返信が来る。よっぽど暇なんだな地元の左官屋は。


 門前仲町の駅から地上への階段を上り、夕暮れ時の街をしばし眺める。大学生までずっと過ごしてきた地元なのだが、未だに地元感が湧いてこない。どちらかというと客人の気分だ。

 あの居酒屋までの道すがら、今まで気にしたことのない店をのぞいてみる。こんな店があったのかー 昔はこんな感じの店なんてなかったぞ… 新発見の連続だった。それ程、俺にとってこの街は、これまでの人生でどうでもいい街だったのだ。

 俺が生まれ育ったこの街。そして五十一歳の俺が残りの人生を恐らく過ごすであろうこの街。もう少し俺が心を開くべきなのだろうかー 

 そんな自問自答をしているうちに、あの居酒屋に到着する。


「珍しいじゃんよう、お前が俺誘うなんて。奢り?」

「それはないな、社長!」

「何だよーケチだな、専務!」


 そう。銀行から押し付けられた俺は、この会社の専務取締役なのだ。


「で、健太さあ、お前旅行なんて行きたいと思うのか?」

 乾杯もそこそこに、よく冷えたビールを一口飲んだ後、健太に尋ねる。

「うん。ウチのババアと普通に温泉とかなー」

 何と… こんな健太でさえ、まるで日常生活を語るように、旅行を口にするとは。

「…… そう、なのか… シロ… 忍ちゃんは?」

 忍は一瞬俺を睨みつけ、

「っち。あー、まーフツーに姐さんと温泉とか行ってますよねー、あと彼氏とも」

 俺は思わず口に含んだビールを吹き出してしまった。


 なん、だと……

 アルプスの白豚が温泉に浸かるシーンよりも、彼女に彼氏がいたことの衝撃が凄かった。

「へ、へー。て言うか皆、温泉なの? 他には?」

 白豚はまるで腐った犬の死骸を片付ける仕草で俺の吹き出したビールを掃除しながら、

「まあ若い頃はあれこれ色々行ったけど、今はやっぱ温泉っすかねー。旨いもん食いながら。旨い酒飲んで。あーー姐さん、今度いつ行きますー?」


「何だよキング。いきなり旅行話って?」

 クイーンがお通しの佃煮を小皿に入れて、俺たちにポイッと渡す。

「今の会社がさ、旅行代理店だって言ったよな。これまでさ、ぼーっと一年過ごしてきたから、これからは少しは真面目に仕事に取り組まないと、ってな。それで、お前ら庶民が旅行にどんなイメージ持ってるか知りたくてな」

 するとクイーンは目をキラキラさせて、

「おいおい! タダ飯! タダ風呂! いーじゃんいーじゃん! やっぱ持つべきは中学の友だねえ」

「おっ いいっすねー。頼みますよ、キングさんー アタシと姐さんに高級旅館、送迎付き、飲み放題付き、ポッキリ九八〇〇円!」

「俺も俺も! 頼むよー専務、俺、白骨温泉がいいなあー」

「あそこいーよなー。でもあたしゃ一度登別温泉って行ってみてーわー」

「いいっすねー。東北、冬の頃行ってみたいっすねー」

 北海道な。

「ま、おいしい話あったらアタシらに溢さず持ってこいやー 佃煮おかわりすっか?」

しねーよ。


 それにしても、全くもって意外だった。毎日毎日をカツカツで過ごしているこんな奴らですら、こよなく旅行を、特に温泉を楽しんでいるとは。


     *     *     *     *     *     *


「困った事になった。クイーン、ちょっと聞いてくれ…」

「お、おう、何だよ、話だけなら聞いてやるぞ」

「それが聞いてもらうだけじゃ駄目なんだ」

「な、何だよ、またアタシの顔に何かぶっかけ…」

「断じてその類の話ではない」

「ま、まあ、じゃあ話してみろや…」


 それは、あれからひと月ほど経った今日の会議。

 件の山本くんはどれ程頑張ったのだろう。彼の企画が役員会議で見事に採用される。

 正直大して斬新的な企画でも画期的な企画でもない。が、これまでどちらかといえば若年層にターゲットを絞ってきたこの会社が、顧客の年齢層を拡げていこうという、会社的には一大冒険的な企画なのだ。

 その企画とは、いきなりシニア層を取り込もうとせず、まずは五十代から攻めよう、というものなのだ。簡単にいえば自分の親の層を試しに引き込もう的なイメージだ。うん、悪くない。


 山本くんは各年代別人口、居住分布、可処分所得、移動可能地域なども引っ張ってきて、大学生サークルのイベントとは思えない程この会社的には立派な、まあ普通の会社なら普通の企画書を作り上げてきた。

 戸惑ったのは未だサークルのノリの社長以下の幹部達。これまでどんだけノリで仕事してきたんだよ。てか、良くそれで会社経営してきたな。よくウチの銀行… いや、あの銀行がここに融資してきたものだ…

 会社の顧客層を拡げる、即ち業務の拡大。今まで内輪でワイワイ楽しくやってきたのだが、これからは自分たちのよく知らない客層を相手にしなければならない。


 そこまでして会社を大きくしたいのか、もっといえばそこまでして儲けたいのか。その覚悟が経営陣に試される企画なのだ。

 それ自体は全く問題ない、寧ろまだ足りない。この若き幹部達に決定的に不足しているのが、自分達が会社法に定める所の営利法人だという認識の浅さなのだ。

 おっと、これくらいにしておこう。折角こちらも彼らもいいベクトルに進み始めたのだからな。


 それよりもこの企画の俺にとっての問題点。

「五十代の夫婦、乃至は恋人に提案する日帰り高級温泉」

 という企画案なのだ。


 いや企画自体は今までのこの会社にしては面白いと思われる。寧ろ同業他社も盛んに企画している。

 この会社にしては、いや普通の会社にしても非常に優秀な三ツ矢という営業部長が、山本くんの希望する幾つかの高級温泉旅館に打診し、承諾もとってきている。

 あとは誰か社員が実際に現地サーベイを行い、企画とのギャップを指摘し修正して世に出すだけなのだが、問題なのは五十代の社員が俺しか居ないという点。


 別に三十代の社員でも良いのではという意見が役員から出たが、あの山本くんがこう言い放った。

「三十代で行く温泉と五十代で行く温泉が同じ物だと、皆さんは言い切ることができますか。皆さんは金光専務が日帰り温泉に何を求め何に価値を見出すのか、想像出来ますか?」

 全員、一斉に首を横に振ったね。因みに俺も。


 でもそれは五十代の人々の価値観がどうのというよりも、金光専務が何を考えてんだかを想像出来ないってことなんだろう? なんて考えていると、山本くんがキリっとした顔を俺に向け、

「と言うことで、是非金光さんにリサーチに行っていただきたいんですが」


「と言う訳なんだ。言ってる事、わかったな?」

 俺はそう言い放つとビールを一気に呷る。

「…マジか …軍司がクイーン口説いてるわ」

 そうじゃねえぞ健太。よく俺の話を聞け!

「こ、こいつ、姐さんのこと何だと思ってんだコラ!」

 少なくともアルプスの白豚ではないと思っているが何か?

「要は、会社の金で高級温泉だかに連れてってやるから、アタシに一発ヤラせろって話でいいのか?」

 ニヤニヤしながらクイーンがタバコの煙を俺に向かって吹き出す。

 アホかコイツ。誰がこんな年増の貧乳とヤリたがるかっつーの。


「断じて違う。いや、前半は正しい。後半がお前は間違っている!」

「流石支店長、じゃねーや、専務。会社の金か、いーなー」

「高級温泉って何が違うんだろ。ねえ、アタシらの行くのとさー」

「てか、アタシ惚れ抜いたオトコとしかしねーから。残念だったなー」

「断じて違う。俺は胸のない女には勃たない」

「俺は胸はどーでもいーや。やっぱケツな、ケツ」

「まさか高級な温泉にはさ、若返りのエキスとか脂肪が溶けるエキスとか〜」

「誰が貧乳のささくれたババアだとコラ、この歳で右手が恋人のクソじじいが!」

「ば、バッカじゃね、こ、困ってねーよ」

 俺はついカッとなり、大ボラを吹いてしまう。


 三人は絶句し、

「えっ」

「えっ」

「えっ」


 俺は空咳をし、健太に目を向け、

「え、いや… お、おう。セフレの一人や二人はなあ、健太お前だっ…」

 クイーンがおもむろにガラケーを取り出し、

「えーと。『翔、お前の彼女のパパはセフレ…』」

 ババアのくせに妙に打ち込みが早い。

「いやいやいやいや… 島田さん、お、落ち着いて…」


 爆笑する健太が俺に向き直り、

「で、どーなのよ軍司、ホントはいんだろ。若くてエロいセフレ? ったくよ、俺にも一人くらい回せっつーの」

 俺は大きく溜め息を吐く。どうやら本当のことを言っておいた方が、後々面倒臭くならなさそうだ。己の恥を晒すのは忍びない、それもこんな奴らに。だが、仕方ない、己を晒さねば事は前に進みそうにない…


「それが、…あん時以来さ…」

 俺が清水の舞台から飛び降りる覚悟で話し始めるも、

「女子大生しか勃たないってか?」

「J Kしか…」

「何なら未亡人しか… ギャハハ〜」

 そうだ、精々馬鹿にするがいい。貴様ら如きに俺のP T S Dが理解できる筈もなかろう。


 爆笑している三人を睨め付けながら、俺はボソッと、

「勃たないんだわ」


 三人は表情を凍らせる。目をこれでもかと開き、口を阿呆の様に開きながら、同時に

「えっ」

「えっ」

「え?」


 俺はその原因を不思議と包み隠さず吐き出す。途中でチャチャ入れられるかと思いきや、意外に真剣に聞いてくれた。

「わかる。すっごーく分かる。やっぱお前、いいオトコだあ」

 健太が俺の肩を何度も叩きながら頷く。痛いって。

「うーーん、まーそれってキンちゃんの『授業自得』ってーの?」

 白豚の悪気のない指摘に、

「悪い。今お前に突っ込む元気ねえわ…」

「おっ勃つ元気だろーが?」

 ムッとして、

「おいこら。それシャレになってねーわ」


 健太がすかさず、

「重っ 軍司重すぎだわ。あ、軍の字と重いって字、似てね?」

「あああっ ほんとだぁ、ケンタ、ナイスぅ ギャハハハ」

「重司だ、重司! 金光きんぴか重司! ブヒャヒャヒャ」

 これ以上は付き合っていられない、そう判断し

「はあー すまん。俺、帰るわ」


 扉を閉めた途端、背中で大爆笑が聞こえた。溜め息が出る。


 そう、あれ以来、俺は所謂EDなのだ。俗に言う、勃起不全。成人男性の四人に一人が悩んでいるらしい。

 元々女好きで妻帯後もバリバリ現役だった俺だが、あの冷たくなった妻の口を見て以来、全く起立直立することが無くなった。そして全く女性にときめく事も無くなった。若くて巨乳の女子にも何も感じなくなった。


 おっと。そんな事はどうでもいい。それよりも、この与えられたミッションをどう遂行すれば良いのか全くわからなくなった。

 タダ風呂タダ飯ならば肉食獣の如く食らいついてくると思ったクイーンが、全くその気なし。まあ俺も彼女と二人きりで温泉に出かけるなぞ真っ平ごめんですが。

 これが社にいる何人かの若い美形の子とだったら、そっちの回復ないしは復活も期待しつつ甘んじて同行したい気分ではある。


 五十代の女性、か…… 俺は歩きながら憂鬱な気分になり、一人で近くの飲み屋にでも行って飲み直したくなる。だが、星一つ見えない門仲の夜空を仰ぎ見て、ふと思う。

 頑張っている山本くん。重たい腰を上げつつある役員、幹部達。彼らの期待に少しは応えねば男としての矜持に関わる。

 俺は何とかして五十代の女性と連れ立って、日帰り温泉旅行に行かねばならない。よし、絶対行こう。まずは結論から始めよう。


 で、どうする? タメ近くの女性に伝手も無く、何とか知り合おうとするその衝動さえ全く湧いてこない。

 そもそも俺の付き合う女性は大体年下、それも十歳以上離れていることが多かった。同年代、ましてやタメ年なんて、まともに付き合った事は皆無だ。

 まさかこの歳になってこんな悩みにぶち当たろうとはな…


     *     *     *     *     *     *


 気がつくと家の玄関をくぐっていた。大学生まで過ごし、そして三年前に戻ってきたこの家は、昔と変わりなく俺を優しく迎え入れ… ん? 何だ、この若者風のスニーカー…


「お邪魔しています、金光さん」


 笑顔が綻びるのと同時に、憎悪の表情が交錯する俺の顔を、心なしかビビりながら翔が挨拶してくれる。いや、怯えているのは俺の方か…


「パパお帰りー」


 葵の何かを期待する表情を見て、思わず噴き出してしまった。

「夕ご飯をご馳走になっていましたら、祖母から連絡があって。何かあったんですか? 祖母の文面からだと全く推測できないのですが…」

「まあ色々とね。キミのおかあ…、お婆さんは面白い方だね」

 彼は満面の笑みで、

「ハイ、自慢の祖母です」

「パパー、ビールでいい?」

 今の言い方なんて亡くなった妻と瓜二つだ。目頭が熱くなるのを抑えつつ話を翔に手向ける。


「俺、クイー、えっと、光子さんと中学一緒だったんだけど、その頃は話したことなくって。中学の途中から、そのー、凄い有名になっちゃって… ゴメンな、何言ってるか分かんないよな?」

 ところが彼は目をキラキラさせながら、


「『西中のクイーン』、ですよね。中一の時に生活指導の先生に暴行して警察に連行されて、あと駅前のもう無くなっちゃったスーパーで万引きの疑いをかけられた友人の復讐のため店に放火して、それと東中の三年生の女番長と対決して病院送りにして」


「凄いな… そんなんだったっけ…」


 思わずゴクリと唾を飲み込む。そんな危険な女に俺はゲ◯をぶちまけてしまったのか…

「ははは。で、金光さんが『西中のキング』。ですよね?」

 

 頭を棍棒で殴られた感だ。やめてくれ… 思い出したくない黒歴史…

「えーーー何それ、だっさー」

 案の定、葵が潰れて体液が滲み出たゴキブリを眺める視線で俺を見下ろす。


 すると彼は突如大声で、

「それはない! ダサいなんてとんでもない! 凄い人だったんだよ、葵ちゃんのお父さんは」

 葵がドン引きする程真剣な眼差しで、彼は滔々と語り出す。


「一年から三年まで学年テスト断トツ一位。廃部寸前のバスケ部を鍛え直して二年生ながらキャプテン、三年では都大会ベスト8。生徒会会長として当時の区立中学では画期的な冷水機を各階に設置。地域一の荒れた学校が三年時には地元警察から感謝状が届き、卒業式では先生生徒が抱き合って泣いたって。未だに地元で語り継がれてる伝説のキング、それがキミのお父さんなんだよ!」


 彼が切れ長の目を怒らせながら、葵に浴びせかける。

「「…… そ、そうなんだ…」」

 俺と葵が、ドン引きながらハモる。


「翔くんだって凄いんだよっ、パパ!」

 彼の話を一ミリも信じていない目つきで俺に言うので、

「あ、ああ知ってる。最初見たときは高校生かと思ったよ」

「違くて。翔くんの学校どこか知ってる?」

 確かクイーンが、私立の男子校って言ってた気がする。


「あのねー、なんとあの、開聖中なんだよ!」


 ……

 は……ぁ? 


 いやいや。開聖って… 東大合格者数、連続日本一の超名門… はあ?

「お恥ずかしい。僕なんかまだまだですよ」

 俺はマジマジと彼を睨み、いや見つめながら、

「だって… 翔くん、キミ、あの、クイーンの… ええええ?」

「祖母は、まあ、中卒なんですが… はい…」


 何故かお袋が大爆笑している。トンビが鷹を生むレベルではない。トンビが不死鳥を生むレベルである。あの女の遺伝子のことだ、突然変異を万か億ほど繰り返したに違いない。若しくは彼の母親は実の子でなく… あ、きっとそれだ。それに違いない。

 だが冷静に考えて、これで納得できる。普通の中学生なら老人が倒れたときどうするだろうか。きっと青ざめて何も出来ないか逃げるだろう。でも、あの天下の開聖生なら。


「翔くん。相談がある」


 こうなったら、この遺伝子学では全く説明のつかない超優秀な少年の懐に飛び込むしかない。恥もへったくれも無い。俺はこれまでの事を翔に訥々と話し始める。


 母親と娘の前で初めて語る俺の仕事への思い。亡き妻への想い。あ、流石にアレの話は時期尚早なので省略したが。そして今回の攻略不能に近いミッションのこと。全て包み隠さずに語り終えた時、翔は軽く頷きながら、


「うーん、成る程。要は会社の今後の発展と若い社員の成長の為に、祖母と日帰りで温泉に行かねばならない。そういう事ですね?」

「全くもってその通りだ」


 流石、理解が早い。俺ら凡人とは頭の構造が違う様だ。

「唯それがどうしても祖母でなければならない理由が弱いですね」

 この問題の最大のポイントをいとも簡単に指摘する。流石である…

「それも全くもってその通りだ」

「同年代の知り合いの女性が祖母だけだから、かー。厳しいですねー、それでは…」

「そうか。いや光子さんなら男友達大勢いそうだし、旅行なんてしょっちゅう…」

「あー、それはないです。断じて」

 翔がキッパリと言い切る。


「え?」

「ああ見えて、うちの祖母、滅茶苦茶身持ち固いんですよ」

「ええ?」

「本人曰く、ですが、今まで付き合った男性は三人」

「えええ?」

「そして、所謂セックスは、本人曰く、それぞれと、一回ずつ」

「ええええ?」

「その結果、僕の母、叔父二人の三人の子供。だそうです」


 俺と娘の開いた口が塞がらない。どうしてそんな嘘を孫に信じ込ませるのか不明だ。だがこの聡明な孫が祖母の嘘を簡単に鵜呑みにするとも思えない。ある程度の部分までは事実と推察し話を進めることにする。


「そ、そうか、知らなかったよ。そんな価値観の女性なら簡単に男と温泉旅行、なんて無いわな確かに…」

「はい。ですので、もしどうしても祖母を連れ出したいのなら、金光さんに相応のお覚悟を決めて頂かなければなりません」

「そ、それって?」

「はい。祖母と正式にお付き合いをしていただく、という事ですね」


 俺は一瞬クイーンと付き合っている自分をイメージする。

 定番デートは格闘技観戦、誕プレは『愛羅武勇』と書かれたTシャツ、家の観葉植物は大麻草、ディナーのB G Mは矢沢か長渕……


 嘔吐感に見舞われたので即イメージを永久に削除する。

「他に、方法は…」

「すみません、僕には思いつきません…」

 済まなそうに翔が呟く。

「そうか。だよな」

 深く溜息をつく。


 そんな重い空気の中、葵が急に、

「てか、ホントにパパ同い年くらいの女性の知り合いとか友達いないの?」

「いないよ。だってママとの年の差、数えてみ」

「えっと、ああ〜 そっかーパパ昔から若い女好きだもんね…」

 お、おい葵。お前、俺の何を知ってんだよ…

「ったく情けない。おんなじ女好きでもお父さんとは器が違うんだから」

「母さん、よせよ、聞きたくねえよ、俺もこの子達も。なあ。え… お、おい、なんで目を輝かせてんの二人共、ちょっと待てー」


「ゴホン。で、これから金光さんに、温泉旅行に行ける同年代の女性と知り合う可能性というのはあるのですか?」

 顔を赤くして咳払いをしつつ、翔が俺に振ってくる。

「可能性か。うーーーん、無いな」

「そうね、無いわね」

「うん。無理ゲーね」

 おまえら。もう黙ってろ!


「ゴホゴホ。では、その可能性を何かしらの努力で上げる、という方向性についてはどうでしょうか。例えば、地域のサークルに参加する、スポーツジムに入る、同窓会に出席する、とか」

「お見合いなさい、お見合い! 私聞いて回るわ! あ、前田さんとこのカナちゃん…」

 お袋が急にテンションを上げながら俺に掴みかかる。

「何で母さんテンション上がるの。そーゆーのホントいーわ。ふーーー」

「ねえ、付き合う前に絶対私に相談してよ」

 葵が情熱的な冷たい目(?)で俺を睨みながら呟く。

「いやいやいや、だからそーゆーの…」

「出会いサイトとか有り得ないからね。私のお母さんになるかもでしょ?」


 俺は肩をすくめながら、呆れ果てた顔で

「いやいやいやいや、もーさー。ね、翔くん。こんな感じなのよウチの家庭。薄っぺらく相手を選び与えようとする母、亡くなった母以外母と認めることのない娘。そしてもう勃つことのな…… おっと…(あぶねー)」

「気持ちは分かりますが、金光さん自身が現状から少し勃ち上がって頂かないと」

「え… あ… はい、最もかと(あービックリした)」

「でも本当に行き詰まりましたね。もう僕らではどうしょうも…」


 翔が本当に申し訳なさそうに頭を抱える。なんていい奴なのだ、どうでも良い彼女の父親のために、高い知能をフルで使ってくれるとは。やはり葵にはもったいなさ過ぎる。高校進学を機に彼女と別れるように進言しようと心に決めた時。


「あっ…」


 突然、葵がすっとんきょな声を上げる

「何?」

「パパ、翔くん、こんなのどお?」

 黒い革の手帳をチラリと眺めながら… いや、この時本当にそう見えたんだ… 葵は話始めるのだった。


     *     *     *     *     *     *


「お邪魔しまーす」

「どーもー」


 その翌日の夜。会社から帰宅した俺は、母、葵の三人でクイーンの居酒屋を訪れる。少し遅れて翔もやってくる手筈である。当然健太は呼ばない。むしろガセネタ掴ませて、この場から遠ざけてやった。

 シロブ、もとい、忍は仕方ない、放置だ。まあ空気は読めそうな女だから大丈夫だろう。

 大人達はビールで乾杯し、まずは他愛のない会話を開始する。程なく翔が引きつった顔で店に入って来る。


 決戦のゴングが鳴り響くー


「ほんと若いですよお、お婆さま、に見えません全然。フツーにお母様ですよお」

 葵が見え見えのおべっかをかます。すかさずクイーンが、

「お前、葵、っつったけ?」

「え? はあ」

「そーゆーの止めな。お前の腐ったクソ親父も、そーゆーおべんちゃらは絶ってー言わねえ」


 クイーンが葵を睨みつけて低い声で言い放つ。翔は真っ青な顔となり、

「お、おばあちゃん、ちょ…」

 葵も全身をブルブル震わせ、目に涙を浮かべー あれ?


「別に、おべんちゃら言ったわけじゃないっすけど」


 場が凍りつく。え、何、今の。葵ちゃんなの? 今の。嘘…

「ふーーーん。言うじゃん、若いってこえーわー、何言っても許されるってか、コラ?」

「お、おばあちゃん、ちょっと…」

「本物の若さが若作りに負けるとは思えませんが何か?」


 パリーン、パリーン、パリーン。俺と、クイーンと、そして何故か忍のジョッキが自由落下後に砕け散った。どうやら葵の作戦も砕け散ったかに思えたその時―


「ぶはははは、アンタ達サイコー」


 突如母がケタケタ笑い出す。どうした母よ。お通しに笑い茸でも入れられたのか?

「みっちゃん、アンタ覚えてる? 万引きした友達庇った時。その時の店員に何て言ったか」

「…… え」


 みっちゃん?

 母よ、何故この悪魔のような女をそんな親しげに…


「その老いぼれた目でぇー」

「ちょ、待っ」


 急にクイーンがきょどりだす。なんか可笑しい。

「アタイらの若さ故の過ち、苦しみ、嘆きがぁー」

「ヒー、待て待て待て」

「全部見えるのかよー、ってか!」


「ドヒャヒャヒャ、わ、若さゆえの?」

「ブヒャヒャヒャ、あやまちにくるしみになげき? ウケるー、駄目、くるしー」

 俺と忍は大爆笑だ。


「おばちゃん、マジ勘弁して… はい、すんませんっしたー。いやー、参ったわー」

 クイーンが額に汗を浮かばせ、何度もペコペコ母に頭を下げている。そしてふと思い出す。


「そう言えば母さん、昔スーパーでパートしてたよな。まさかそん時にコイツと…?」

 俺にニヤリと笑い、母親は更に容赦ない攻撃を繰り出す。

「あれ。そう言えば他にもみっちゃんー、色々あったわねー 店に謝りに来たときー」

「わーわーわー、覚えてません記憶にございませんすみません」

 最早目に涙を浮かべているクイーン。急に口調が変わりお袋が、

「んー、そーなんだー、仕方ないわー。で、葵ちゃん、翔ちゃん、何だっけ話って?」


 忘れていた。

 俺も死んだ親父も、一ミリもお袋に勝てなかった事を。

 怒鳴られた事なんて一度もない、俺も親父も。なのに全てを見透かされて、どんな嘘や言い訳も「フーン」と鼻で笑われて、最後には首を垂れて許しを請う、俺も親父も。

 彼女にとって単細胞のクイーンなぞ、手玉に取るのはさぞや簡単なのだろう。


 だけど本当に知らなかった、母とクイーンの意外な接点。そう言えば当時、大人達が忌み嫌っていたクイーンの事を母は何一つ悪く言うことが無かった気がする。

 それにしてもクイーン。今の今まで母と旧知の間柄だとは一言も言わなかったし。まあ、今見た感じだと、当時も母にボコボコにされたに違いない、精神的に。

 俺と親父がかつて結成していた被害者の会に入れてやってもいいかな。


 そんなお袋に心をやられたクイーンは、K O寸前のボクサーよろしくヨロヨロと棒立ちしている。そこにすかさず孫が勇者の如くとどめを刺しに行く!


「えっと、おばあちゃん、実は僕と葵ちゃん、箱根に遊びに行きたいんだよね…」

「はあ」

「でも流石に二人っきりって訳には、ねえ?」

「はあ」

「そこでさ。おばあちゃんと金光さん、僕らを箱根に連れて行って欲しいんだけど、駄目かな?」

「はあ?」


 彼女のガンはいつものキレが全くなく、母の穏やかな流し目が彼女の威勢を地の底まで落としていく。そして最後に

「はぁーーーーー。いつ?」


 我々は勝利の鬨を上げたのだった。


     *     *     *     *     *     *


 考えてみるとこの作戦、誰が美味しい思いをしたかと言うと、葵と翔なのだ。

 俺は何とか職務を遂行する上での相方を得た。以上。

 彼女は、過去の知られざる過ちを愛する孫に隠すために、別に行きたくもない旅行をする。以上。

 母は一人寂しく家でお留守番をする。チーン。

 とまれ今回の騒動で、俺は娘の意外な強かさを知ると同時に、今まで見た事のない一面を見せつけられ結構動揺している。まさか、学校でもあんな感じで先生に逆らったり、友人をあげつらったりしていないだろうな?


 翔くんに聞いてみようにも学校違うから… あれ、彼男子校だよな、どうやって知り合ったのかな。俺から見ても相当モテそうな顔と性格。

 まさか、葵の奴、まさか…


 翌日。急ぎ旅行の手配に入る。山本くんはこれほど俺が苦労した事を知る由もなく、箱根のとある超高級旅館の日帰りプランを最終稿として提示して来る。

 日程は梅雨に入る前のとある土曜日に決まる。思いの外有能な奴だ。


 俺と同行する女性が誰なのか詮索されるかと思ったが、そこまでされなかった。まあ俺個人に対してさほど興味はないのだろう。それでいい。

 社長が若干その点に興味を示していたが、銀行支店長時代に培った能面顔で

「個人情報なので」

 と言うと慌ててカクカク首を振る。あの女の事なぞ死んでも会社に知られてたまるか。


 遠くで女子社員たちがゲジゲジのバラバラ死体を見る目で俺を眺めている。俺は虫の死体以下の存在なのだ、この会社においては…

 そう思うと若干寂しい気分となるも、満面の笑みの山本くんを見るとこの仕事受けてよかったな、と思い始める自分に少し笑えた。


 その夜、再度クイーンの店に集合する。母は連日夕飯の用意をしなくて助かるわぁと喜び、葵は連夜彼氏と公然お食事ができると喜色満面。翔は今夜もどこかに導火線が落ちてやしないかビクビクしており、俺とクイーンは仏頂面。

 日程を伝え全員の予定を確かめると全員問題なし。移動手段として我が家の車、運転は俺、と順調に計画は進んでいく。


 運転はアタシにやらせろ、と煩い奴がいたが、変な運転されて大事な娘に何かあると嫌なので決然と断固断る。どうせ点数が残り少ないか免停中だろうと揶揄うや、金色に輝くゴールド免許を印籠の如く見せつけられ、危うくその場で土下座しそうになる。


 一人、健太が隣で不貞腐れている。今回の話からは完全に遠ざけていたので、この話を知った時の驚愕と失意の顔は見ものだった。

「ハアーー クイーン、ホント気をつけてな。コイツ手が早いからさ」

「おまえが俺の何を知っているのだ?」

「え? 若くて巨乳好き… あ。そっか。なら大丈夫大丈夫、クイーn 痛え!」

 クイーンの華麗な右フックが健太の左頬に炸裂する。

「もひおまへがクヒーんに手だひたら、おまへもこれくらふんだぞ」

 何を言ってるのかサッパリわからないので、

「そっか。そうだな、今度会社でいいプランあったら、お前に回してやるよ」

 パッと嬉しそうな顔をする健太。コイツ、ちょっといい奴かも知れない。


 家に戻り、最後の詰めだ。

「いい、パパ、まずは私達を強羅で降ろすんだよぉ」


 葵と翔は強羅周辺でデートするらしい。有名な何ちゃら美術館に翔が行きたがっているそうだ。あれ、お前美術に興味あったっけ、とイジるとプッと膨れっ面を披露する。まあいい。いい機会かも知れない、己と彼との知的格差に愕然とするには。そしてとっととお別れして己の智と背に合った男を見つければ良い。ま、健太みたいなのを連れてきたら、クイーンに木場に沈めてもらうけどね。


「俺たちさ、宿に二時には着きたいんだよな」

「そーかー、ウチから箱根までって、どれくらいかかるかなあ。えーと… このアプリによるとー」


 神奈川県箱根町。東京に隣接する県だ。車で二時間ほどの距離である。それなのに俺は葵と、家族と箱根に行ったことがない。何だか申し訳ない気分となる。


「木場か塩浜から首都高乗って、3号線経由で東名、そんで厚木で小田原厚木道路か。二時間くらいか…」

 葵は目をキラキラさせてスマホのアプリを眺めている。未だかつて見たことのない楽しそうな笑顔である。その理由は、俺との家族旅行なのではなく、彼との小旅行であるのは分かっちゃいるけど…

「へー、結構かかるんだね。ねえ。あの人と二時間もドライブ出来る? ぷっぷっぷ」

 葵が意地悪な笑顔を向けてくる。

「無理無理無理。絶対ムリだわ。葵たちいてくれて、本当に感謝だよ」

 …… できれば一緒に温泉旅館に来て欲しいです。


「でしょーー。お小遣いはずんでねー きゃ」

「ははは、仕方ないなーー って… あーー、コラ! お前いつの間にスマホ復活してんの! って、母さん、頼むよー、あんま甘やかさないでよ」

 つい先日、ウソをついた罰として止めた筈のスマホをチャッカリと使っているのに気づき、母に猛烈な抗議を入れる。

「だってあんた… 携帯無しで外出なんて、あたしゃ心配で心配で…」

「そーだよー。スマホ無いとその分ずっと翔くんと一緒にいなきゃ きゃは」


 すっかりご機嫌な葵なのだが。

「…お前さあ。気をつけろよ」

「何が?」

「娘ながら、お前ちょっとウザい」

「ハアー?」

「重い。その若さでそんだけ束縛とか、重過ぎる。翔君、かわいそうだ」

 葵は怒りもせず、むしろ哀れな瞳で、

「それはパパが軽〜い恋愛しかしてこなかったからでしょ!」

 母も葵に乗っかるように、

「そーよー、あんたってばさあー」


 婆娘による二重攻撃を避けるべく風呂場へ向かう。そして葵の成長につい戸惑ってしまう。小さい頃から父としてあまり関わってこなかった娘の成長を今こうして目前で見ていると、この子のことを本当に何も知らなかった事に後悔を禁じ得ない。

 それでも最近、葵が妙に俺と打ち解けている気がするのは俺だけか? それともこの数ヶ月の俺らの身辺の変化が、俺と葵を本物に近づけているのだろうか…

 

 葵とまともに話をするようになったのは、この門仲の実家に戻って一年位経ってからであろうか、今から二年ほど前である。

 それまでは俺はほぼ葵のことを亡き妻、そして母に全てを委ねてきた。だが二年ほど前から徐々に葵と関わるようになってくる。それまでは全く使わなかったラインでの連絡を取り合うようになったり、母と三人で外食に出かけるようになったり。

 正直、接し方が分からず、出かけるたびに何かしら買い与えてやったのも功を奏したのかも知れない、徐々に葵は俺との距離を近づけ、そして今に至る。


 俺はサッと風呂に浸かり、いつものようにすぐに出る。元々長風呂は嫌いで、何ならシャワーのみでも構わない。それに加え、ネットか何かの記事で、父親の出汁の取れた風呂は年頃の娘はとても嫌う、的な記事を目にして以来、葵の前に入るときには秒で出るように心掛けている。


 脱衣所で体を拭きながら、数日後に控えたクイーンとの日帰り温泉旅行について考え、溜息が出る。予想される事案がすでに七は思い浮かぶ。

 あんな社会の最底辺に棲息している人種が箱根の超高級旅館に行ったなら。間違いなく浮かれてありとあらゆる粗相をするだろう。俺が恥をかくだけならまだしも、会社の名前に傷がついてしまう。

 生まれながらの会社人間である俺が、その状況を看過できるであろうか?

 ここに来て、本当にこれが最適解であったのか、大いに疑問を感じてしまう。もっと他により良い方法はなかったのか。


 例えば、健太の古女房をお借りする… 嫌だ。絶対に。

 例えば、実家の段ボール箱に放置されている卒業アルバムを引っ張り出し、三十数年ぶりに突然女子達に連絡をとってみる… 無理だ。有り得ない。

 高校は男子校だったから、大学の仲間に連絡をとり、あの子の連絡先を聞き出し… ダメだ。面倒くさ過ぎる。

 こうなったら、あとは神頼みしか無い、どうか何も起きません様に。どうか仕事を全う出来ます様に。


 後で富岡八幡に行ってお祓い、もとい、お願いしてくるか…


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