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オマケ倉庫  作者: 水城
7/7

椿姫/最果て

■ダチェット伯爵家シリーズ「椿姫幻想曲(ごめんなさい、R18です)」の後の話。もし、可能なら、「椿姫…」読了後にご覧になることを、お勧めします。「オマケ倉庫」に入っている六話目(http://ncode.syosetu.com/n3878bo/6/)の後くらいのお話です。

この話自体は、年齢制限はありません。

(1)


「だから……後のことは、とりあえず、エージェントのアドラーに言っておいてくれ、彼なら何でも解るから。ではまた、半年後に。ミスタ・オークス」


テディ・バートラムは、朗らかで快活な声でこう言いながらも、ありていに言うなら、まるで部屋から追い払うようにして、来客を返した。


保険組合からの個別の調査を、都度都度で請け負う身ではあったが、テディ・バートラムは、ロイズの建物内に、なかなかの作りの事務室を割り当てられている。ロイズの依頼において、テディの調査の実績がどれほどのものであるのかは、このことから容易に知れるところだった。


ロイズの調査員オプ

テディ・バートラムは、そんな風に呼ばれる存在だ。

無論、それは広く誰にでも知られるような仕事ではないのだが。


今しがた追い払われたミスタ・オークスと入れ違いに、早口のテナーの声が、テディの部屋へと近づいて来る。


「『何でも解る』は言い過ぎだ、バートラム。やりかけのことを、みな私に押し付けていくつもりか? いいか、私は『オプ』じゃなくて、『代理人エージェント』だぞ」


調査の仕事を受け、自らが抱えるオプに、それを仲介する代理人。

そんなアドラーが、せかせかとテディの部屋に入ってきた。


「すべてを片づけてから出かけようとしてみろ、俺はいつになったら、新婚旅行に旅立てる?」


手早く手紙の束をまとめ、テディは大きな手帖に挟み込む。


「おいおい、いつどこの国に行って、どのホテルに泊るつもりなのかは教えておいてくれるはずだ、バートラム。乗る船は? もう手配済みなんだろう?」


「御免こうむる。そんなものを、いちいち教えていたら、毎日のようにお前から、電信や電話があるに違いないからな。それでは、一体何しに旅行に行くのだか解らない」


「そうはいってもバートラム、私は困るぞ。いつ、どの国にいるのかくらいは聞いておかないと」


「用があれば、俺から連絡をするさ、アドラー。とにかく、二か月はヨーロッパ、二か月はオスマンの東、それから後はアメリカに回る。じゃあな」


デスクの引き出しに鍵をかけ、テディはボーラーを頭に載せる。

コートをハンガーから取ると、袖に腕は通さず、肩から羽織って、アドラーを置き去りにして部屋を出て行った。




(2)


ここでもない、あそこでもない。

いや、ここもあそこも、と。


膨れ上がり、とり散らかる旅行の計画をまとめ上げ、やっと出発を決めることができたのは。

今、出発しなければ、リルのもっとも敬愛する義姉アン・マリアの出産の頃合いに、イギリスに戻ってこれないかもしれないという恐れがあったために他ならなかった。


もちろん、アンの出産を待ってからの出発では、あまりに遅すぎるのは言うまでもない。


そんなあれこれを勘案すると、旅行予定は半年間が限度だった。


だがそれでも、リルの希望をかなえるには、到底、ゆとりのある日程とまでは言えなかった。

回りたい国を考えたら、もう三か月ほどあってもいいくらいなのだ。


ともかく出かけるなら、今を置いて時期はない。

そのためには。

アドラーに何と文句を言われようとも、置きざりにするしかない雑事には、目をつぶってもらわねばならない。

もう、出発すると決めたのだから……。


決然と顎を上げ、テディは、通りに飛び出し、辻馬車を捕まえた。



(3)


メイフェアの自宅にテディが戻ると、常ならば、必ず玄関で出迎えるはずの執事の姿が無かった。


それはもう、一週間も前からそうではあったのだが、その日も、どうにも浮足立って慌ただしい空気が、家中を包んでいた。

初めて長旅をするテディの妻リルの荷造りに、使用人一同が大わらわだったのだ。


おそらく、みな、階上で、まだ荷造りに頭を悩ませているのだろう。

テディはすぐに、そう思いついて、髭だらけの口もとをふわりと解けさせた。


なにせ、執事フィリップスは長くテディの従僕を務めてはいたものの、ご婦人の荷造りなどには、あまり経験がない。

今やフィリップスは、いっそリルの実家の館「アンテソープ」から、執事を借りてくるべきではないかと、そんなことを、真剣に考え込むほどだったのだ。


それでも、メイドのベッツィーとエマの手もあり、なんとかリルの荷造りは進んではいた。

特に、機転のきくエマの活躍ぶりには、大いに救われていたのだった。


テディは、階上の妻の部屋へと足を運ぶ。


「お帰りなさい、テディ」


部屋中に広げた荷物の数々を、妖精めいてひらひらと飛び越えやってくると、リルがテディの首筋に飛びついた。

「お仕事は、みな終わりましたか?」


「ああ、心配ないよ、リル」

テディは即座に、こう応じる。


終わったと言えば終わったのであり、終わっていないと言えばそうも言えなくはないという状況であることなどは、あえてリルに伝えるまでもない。


「さて、荷造りがはかどっているようだね? 可愛い小鳥さん」


「はい、持っていくものの表を、エマが作ってくれました。あとはトランクに詰めればいいだけなの」


ごく簡単に、リルはこう言ってのけるが、はてさて。

「後は詰めるだけ」ということの手間など、おそらく何も理解していないのであろう。


ひどくおっとりとしたリルの言葉に、フィリップスがせつなそうに顔をしかめているのを視界の端で見て取ったテディは、こみ上げる苦笑をかみ殺すのに必死だった。


「旦那様、なにかお飲物でも、お召しになりますか?」


自宅に帰ってきた主人を出迎えそびれた上に、即座に、酒の一杯も供することができなかったことが情けなく。

執事フィリップスは忸怩たる思いで、慌ててこう訊ねた。


「ああ、いいから。フィリップス、それがひと段落するまでは、俺のことは構わなくていい」

主の鷹揚さに救われるような想いと、自分への歯がゆさを噛みしめる無念さに、フィリップスは、どうにもやるせない顔になる。


「旦那様、どうぞ」


と、すかさずシェリーグラスを銀盆に載せて現われたのは、メイドのエマだった。


ひらりとグラスを取り、明るくエマに礼を言って、テディはリルの腰を抱くと、部屋を出て階段を降りていった。




(4)


居間の長椅子に、妻と並んで座りながら、テディはシェリーグラスに口をつける。


「あのね、テディ。旅行にはエマについてきてもらいたいの……駄目かしら?」

リルが瞬いて、テディの大きな焦げ茶の瞳を見上げた。


「それはいい考えだ、リル。むしろフィリップスを連れていくよりはいいかもしれない。留守宅は、ベッツィーとフィリップスに任せよう」


最初、テディは、フィリップスを連れて旅に出ることを考えていた。

だが、留守宅に男手もなく、ただ、メイドふたりを置いておくのは、少々不用心だ。

残されるふたりも、さぞ心細かろうと心配だったのだ。


「ね? エマ。テディも、その方がいいって。一緒に行きましょう? いいでしょう?」

リルがエマに視線を向ける。


「しかし、奥様……私、旅行なんて。それも外国へ行くなんて……やっぱりベッツィーさんの方が」


言葉も解らなければ、社交場の作法も、ろくに知りもしないのだ。

ひとりで、それも外国で、ちゃんと奥様のお手伝いができるだろうか?

いくら勝気なエマとはいえ、あれこれと心に不安がよぎってしかたがない。


そんなエマの考えを見透かしたかのように、テディが言った。


「細かなエチケットやなんかはね、エマ。君のように聡くて頭の回る娘なら、すぐに熟知するさ、心配ない。それは最初は、少しばかり覚えることが多いかもしれないがね。それにだ、うちの小鳥さんの面倒をみなければならないのはともかくとしても、旅行というのはなかなかに興味深いものだよ? エマ」


エマはたじろいで、押し黙る。


「君にも色々と支度があるだろうから、休みを取って揃えるべきものを揃えたらいい、そうだな……必要になりそうなものを、後で書きだしておこう。もちろん、支払いは持つよ。一番急ぐのは、服の仕立てだな。明日にでも行っておいで」


続けざま、朗らかにこう言い放たれては、エマも断る理屈を見つけられない。

そして、リルがさらに追い打ちをかけた。


「だってね、エマ。ベッツィーは、よその国に行くなんて、怖くて絶対にいやだって言うのですもの。船に乗ると思ったら、もう息が止まってしまいそうだって。ベッツィーったらね、海が怖いのよ?」


古株のメイド、ベッツィーがひどく臆病で保守的な性質であることは、エマもよく知っていた。

彼女にとっては、英仏海峡を渡ることすら、南米に行くのと変わらないほどの命知らずの大冒険に思えるのだろう。


「奥様、それでは……僭越でございますが、私がお供させていただきます」

言ってエマは、深く膝を折ってお辞儀をし、その場を一旦、下がって行った。



(5)


「しかし、半年も君がロンドンから不在になったら……さぞかし『キンドルさん』が寂しがるだろうね?」


リルのためにあつらえたショコラを持って、ふたたび居間に現れたエマに向かって、テディが、さりげなく声を掛けた。


神妙そうなふりをしつつも、テディ・バートラムの黒目がちの大きな目が、悪戯小僧のようにきらめいているのを、鋭いエマは、決して見逃しはしない。


「まさか、そんなことはないと思いますわ……旦那様」

言って、エマは、ごくわざとらしく暖炉の上の唐三彩の駱駝に目をやった。


……この髭熊ったら。

私が昨日リック・キンドルとダンスに行ったことも、お見通しって言いたいわけなんでしょうよ?


そんな風に舌打ちをしたいような気持ちを押し隠しながら、エマは密かにほぞを噛む。


ふたりの話を傍で聴いているリルは、ショコラに口をつけたまま、おろおろと視線をさまよわせた。

だが、唐突にすっくと立ち上がると、暖炉の上から駱駝の「キンドルさん」を下ろして、それを持ったまま階上へと昇って行く。


「……お、おくさま?」


茫然と呟いてから、エマはリルが何をするつもりなのか、はたと思い至り、大慌てで、その後を追いかけた。


「これを?! 荷物にですか……? 奥様」


フィリップスが上げた戸惑いの声。そこには、隠しようもなく苛立ちの刺が満ちていた。


「だめ? フィリップス」

リルが、しおしおとうなだれる。

「だって、半年もエマがいないと、寂しいって、テディが……」


「奥様。一体、なぜご旅行に、その陶器の駱駝が必要なんでしょう? まったく不要ではありませんか、私はそう思いますが」


よほど荷造りの心労がたたっていたのか、フィリップスは、憤然と息巻いて立ち上がった。

「……鞄には、もうどこにも、こんなものを入れる場所などございません」


そこへ慌てて、エマが飛び込んでくる。


「フィリップスさん、大丈夫です。いえね、ちょっとした手違いですから。ええ本当に」


そして、リルの手から駱駝の唐三彩を取ると、リルへと、こう囁き掛ける。

「奥様、旦那様が……先から仰っておられるのは、この『キンドルさん』のことじゃないのです……」


きょとんと首を傾げて佇むリルを、エマは部屋から連れ出す。

居間に戻ったリルとエマを迎えたのは、テディの満面の笑みだった。


「リル、どうしたんだ? いきなり」


「あの……旅行に『キンドルさん』を連れて行こうとおもったの。さみしくないように」


リルが、またしょんぼりと俯いた。

「でも、フィリップスが怒ってしまって」


「怒る?」

わざとらしく、テディが首を捻った。


「ああ、あいつは実はなかなか癇癪持ちのところがあるんだよ、リル。気にしなくていい。だが、『キンドルさん』を『旅行に連れて行く』というのは、すごぶるつきの良い思いつきだな」


「旦那様、一体……なにを」

エマが、低く押し殺した声を絞り出す。


「うん、エマ、君はおそらくリルの世話だけで手がいっぱいだろうからね。俺の手伝いをしてくれる人間がいてもいい。なにせ、なかなかの長旅だからな」


エマは、テディの言わんとすることをすぐに察し取ったものの、そのあまりに突飛過ぎる思いつきを、どうにも信じることができない。


「旦那様……旦那様は、旅慣れていらっしゃいますし、至らぬ私ではありますが、それでも十分ご不自由はないかと存じますが」


「いや、是非にキンドル氏を誘いたいね。よし、いまからダチェットへ電話してみようじゃないか」


言ってテディが、長椅子から立ち上がった。


リルは、またしても首をかしげる。


……たしかに、駱駝の『キンドルさん』をくださったのは、オーガスト兄さまで。

きっと、キンドルさんのことを、とても気に入っていらっしゃるとは思うけど。

でも、わざわざお電話をして、旅行に持っていくかまで、訊く必要ってあるのかしら?


「まあ、彼はオーガストの気に入りの家令だからね。なかなかに、手放したくはないだろうが。しかし、そろそろキンドル氏にも長い休みが必要な頃合いさ。なんと言っても、オーガストの人使いは荒いからな」


部屋を出ながら、テディがこう語るのを聞いて初めて。

リルは、やっとすべての話の合点がいった。


目を見開いて両手をくちもとへと当てると、息を飲んで、リルは震える声を出す。


「えま……わたし、なにかをまちがえていたのかしら、まあ……まあ、どうしましょう。だって、あなた」


おろおろと視線をさまよわせるリルを、そっと見つめながら、エマは穏やかにこう応じた。


「たしかに、奥様は少々、勘違いをなさっていたこともおありだったかと……いえ。どうか、そんなにお気になさらず、本当に。まったく大したことではないのですから、奥様」



(6)


受話器を耳にあて、テディ・バートラムは電話機に向かった。


ある意味、いまひとりのアンテソープの主とも言うべき存在であろう先代から館に仕える執事エヴァンズの、慇懃な取り次ぎを経て、テディの旧友であり、妻の兄であるオーガスト・ユースタス・スタンレー卿、すなわちダチェット伯爵が、電話口に現れた。


「……どうしたのだ、テディ。お前たちは新婚旅行に行くと言っていなかったか? おい、まさか……リルの具合でも悪くなったのではないだろうな」


さっそくに心配性の発作を爆発させるオーガストに、テディは失笑を禁じ得ない。

だが、早速に要件を切り出した。


「何? 電話が遠いのだろうか? 僕には君の言う意味がまるで解らないな、テディ」


この上なく慇懃無礼な声音で、猛烈な皮肉を吐きだすオーガストは、まさに社交界でのふたつ名「気難し屋」にふさわしい偏屈ぶりだった。


「なぜ、お前とリルの旅行に、『うちの家令』を連れていく必要があるというのだ?」


オーガストの刺に満ちたな対応にも、まるでひるむことなく、テディは歌うように朗らかに話を続ける。


「『エマがいなくて寂しいだろうから』だって?! 何だ、誰なのだ、その『エマ』というのは? メイド? 君の家の?」


苛立つオーガストの声を聞きながら、テディの眼前にはありありと、眉間にくっきり皺を寄せた不機嫌極まりない旧友の表情が目に浮かぶ。


「君の言うことは、さっぱり話が解らんな、テディ・バートラム。ともかく、リックに話を聞いてから、折り返す」


そう言って、ダチェット伯爵は、旧友からの電話を切った。




(7)


「という訳なのだがな、リック。一体、何の話か、お前には解るか?」


大きなマホガニーのデスクに頬杖をついて。

オーガストは、眼前にかしこまって佇む家令のリック・キンドルを、黒曜石の瞳で見据えた。


動転する気持ちを何とか瞬きの内に押し隠し、リックは主ダチェット伯を、無言で見つめ返す。


「……なにせ、テディの家には、一度しか行ったことがない。『エマ』というのが、どのメイドか、僕には、さっぱり解らんのだが」


独り言めいてこう呟くオーガストを見ながら、リックは「それ以前に、あの時の旦那様ときたら、リリアンさまのことしか、目に入っておいでではなかったのだし?」と、内心で噛み締める。


「で、そのメイドが、リルの身の回りのことをするために、一緒に旅行に行くらしい。半年だそうだ。彼女がロンドンにいないと、『お前が寂しがる』と、テディは言うのだが、そうなのか? リック」


「……はあ」


思いもかけぬ事態に面食らったリックの口からは、肯定とも否定ともない返事しか出てこない。


常にそつなくオーガストの信頼を勝ち取ってきたリック・キンドルだ。

普段ならば、決してそんな粗相をするような男ではないのだが、テディ・バートラムからの電話は、あまりにも唐突で、あまりに突飛であった。

リックは完全に狼狽していたのだ。


一方。

オーガストの方はといえば、あまりに気のないようなリックの返答ぶりが、まるで主たる自らの存在を軽視しているかのように思われて仕方が無く、主人としての、そして伯爵としてのプライドを、大いに傷つけられていた。


不機嫌極まりない様子で、オーガストが続ける。


「はっきりと、質問に応えて欲しいのだが? リチャード・キンドル」


そして、「気難し屋」のふたつ名に違わぬ、険しい皺を眉間に寄せた。


「別に他の男のことを訊いているのではない、ほかならぬ『お前自身』が、そのエバとやらがいなくて、寂しいのかと、そう訊ねているのだぞ?」


「『寂しい』とは思います、ミーロード(旦那様)……あと、『エマ』です、名前は」

リックは、やっと常の澄ました口調を取り戻して、こう応じた。


オーガストの口の端が、ひどく皮肉げに、そしてどこか面白がるかのように、キュと上がる。


「それは失礼したな。それで? いつの間に、ロンドンにいるメイドなどと、そんなにも親しくなったのかは知らぬがな、リック。つまり、お前とそのメイドには、『そういった了解』があるということなのか?」




(8)


「そういった了解」があるのか? などと。


一足飛びに話を進められ、さすがにリックも、ふたたび狼狽した。


「……いえ、旦那様。そこまでは」と。

慌てて言い返すリックに、オーガストが黒い瞳を鋭く光らせた。


「『そこまでは』だと? リック、一体、お前はそのメイドと、どんな交友をしているというのだ?!」


「交友って。旦那様、特にはその……時折、ロンドンに赴いた際。一緒に来てもらって。その……夜にダンスの相手を」


「夜に共に外出して、ダンスをするのだな? メイドということは『かたぎ』の婦人ではないか? そんなことをしばしばするなら、無論、そのメイドだってお前に『そういう了解』あるものと思うに違いないだろう?! そうでなければ、うら若い婦人が、男と夜、『ダンス』に出かけるわけもない」


リックの右手が思わず、額へと動く。

続いて、かすかな溜息と呻きが、そのくちびるから洩れた。


もちろん、「夜にダンス」という部分に、オーガストが、それ以上の「ふしだらな意味」を持たせて叱責しているのではないことは、リックには十分に解っていた。


そう。

この社交界随一の美男子で、馬場馬術の名手、そして社交界随一の『気難し屋』ダチェット伯オーガスト・スタンレー卿というのは。

とてつもなく前時代的な倫理観の持ち主なのだった。


つまりは、未婚のうら若き「かたぎ」の婦人が、夜に殿方とふたりきりで、しばしば「ダンスに出かける」というのは、「そういった了解」のある相手としか行われるべきではないというのが、オーガスト・ユースタス・スタンレー卿の信条なのである。


それに加えて、そのメイドの雇い主から、こんな電話がかかるとは。

伯爵に、自分とエマとの間に、「そういった了解」があると思われても無理からぬことではあるが……。


リックは、破天荒極まりないセオドア・バートラムの悪戯めいた焦茶の目を思い出し、苦笑いを噛み殺した。


と、オーガストが、俯いて溜息をつく。


「嘆かわしい、リック・キンドル。お前がそんなに浮ついた不謹慎な男だったとは。ご婦人とそんな無責任な付き合い方をしているなんて」


続けざまに非難され、つい、リックの口が滑った。


「無責任だなんて……旦那様。私の方では、そう言う時期が来れば、それでもいいなと思ってい……」


ゆっくりと、オーガストが顔を上げる。


「それ『でも』いいだと? まったくどっちなのだ、リック。その、エバとかいうメイドと身を固めるつもりはあるのか? ないのか?」


洩らすつもりなど一切なかった本心を、思わず吐露してしまい、リックは「しくじったな」という後悔を噛み締めて、ただ口を歪めた。


「はっきりしろ。何か問題でもあるのか? 所帯が持てないような給金ではないはずだぞ? まあ、もっと必要というなら、それは考えてやっても良い。アンも、お前のことは信頼しているし。そうだ、ハルの街はずれに、うちのコテージがあるだろう? 昔、狩猟の時の昼の正餐に使っていた、あれだ。結婚して、この館に住み込むのが厭なら、あそこを貸してやろう。アンテソープにもハルにも近いから、便利なはずだ」


「……ちょっと、旦那様! 勝手に、突然そんな話」

そもそも、エマが、そこまでのことを考えているのかも、まだ解らないというのに。


「突然ではない、早々に、その『ふしだらな』関係を何とかしなければ、僕はもうお前を信用しないぞ、リック・キンドル。そのメイドと結婚するならして、そうでないなら、その無責任な付き合いは止めるが良い」


主の皮肉たっぷりのこの口調。

こんな調子で物を言い始めたら、とてもではないが、その考えを曲げさせるのはたやすくないのだと。

オーガストに一年近く仕えたリックには、解りすぎるほどに解っていた。


これは、まいった……。

リックは、胸の奥で、深々と溜息をつく。


まったく、あのロンドンの熊髭め。

悪ふざけにもほどがある。


というか。

僕とエマとの関係を、わざわざ旦那様に言いつけるなどと、そんな子供じみた真似をするなんて。

一体……何を企んでいるのだ? あの変人め。



(9)


黙り込んで俯くリックを、冷やかに見つめていたオーガストが、ふと、その彫刻家の理想像のように端正なくちびるを動かした。


「そうだな……まあ、良いだろう」


「旦那様?」


「リルとテディの旅行に、お前を貸し出すぞ、リック」


リックは、やや大きすぎるほどに大きな、長い睫毛に縁取られた目をこぼれおちそうなほどに見開いて息を飲んだ。


「思えば、この一年近く、お前を働かせ通しだったな……冬も忙しかったし、気分転換が必要だろう? ああ、もちろん半年も、ここを空けさせるわけにはいかないぞ。アンの産み月が近くなれば、僕は、今以上に、アンの傍にいなければならないし」


そしてオーガストは、呆気に取られて佇むリックを一顧だにせず、「そうだな……」などと呟きながら、長い人差し指を美しい細い顎に当て、色々と思案を巡らせ始める。


「二ヶ月だ……それか、せめて二ヶ月半、三ヶ月は無理だ、リック。その間だけ、リルたちと旅行に行って来い」


「旦那様? さっきから……ご自分が何を仰っているのか、お分かりで?!」


常日頃、顔に張り付けている世慣れたこしゃくな表情など、すっかり消し飛んでしまった様子で、リックが戸惑いの声を上げた。


そんな取り乱したリックを見るのが、愉快でたまらないのか。

オーガストは、きゅうっと口の端を引き上げて笑むと、優雅に椅子から立ち上がる。


「リック・キンドル。良いな? 二ヶ月半やる。その間に、その……エバだかなんだかという娘の気持ちを確かめて、求婚して来い。いいな」


やや細身な体つきながらも、ひどく上背のあるオーガストに、はるか高みから言い渡され。

リックは、ひと言呻いたきり、言葉を失くす。


……そんな大事なことを、「伯爵夫人」に相談なさらなくて良いのですか? とか。

エマの名前を、皮肉げに訂正するとか。


リックの口からは、普段ならば、即座に言い返せるような気のきいた言葉ひとつも、出はしなかった。


「では、話は終わりだ、リック」


オーガストは、その場にリックを置いたまま、ドアへと歩みを進めた。

そしてドアを開けたところで、ふと何事かを思いつくと、ゆっくりと振り返る。


「ああ、そうだ。『コテージが必要な事態』になったら、早めに電信をよこしてくれ、リック……掃除をさせておこう」


そして、オーガストは出ていき、部屋の扉が閉まった。


(おわり、なのか。つづくのか……)





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