第三十理― <翌朝>騒動から一晩明けて
翌日――。
特別大きな怪我もなく普通に登校していたボクは、昼休みに入ってすぐに屋上に向かって職員室棟の階段を一人で上っていた。
というのも、早朝に送られてきていた巫女からのメールに『昼休み、職員室棟屋上』とだけ書かれていたのだった。用件はよくわからないけれど、可能性としてはこの前相談した特失課のことか昨日のこと、そのどちらかだろう。
昨日の騒動――――行方不明になっていたドラゴンの少女“エステリーゼ=ヴィランドリー”による襲撃と、黒幕と思われる正体不明の男“伯爵”の出現。
異変、ということに限ればこの二つだけになるのだろうけど、ボクの個人的な感情まで含めると一概にそう言い切ることもできなかった。呪術書としてのクレアのことももちろん気にはなるけど、それ以上にあの時に見たラウラの表情が一晩たった今でも脳裏に焼き付いていた。
悲しみに塗り潰された表情、その零れ落ちた涙に、見ていることしかできなかったボクでもその感情の深さは痛いほどわかった。逆に言えば、あの時のラウラはボクにすらそれが伝わるほど痛々しい姿だったのだ。思わず、目を背けてしまうくらい――。
エステルさんと伯爵が姿を眩ましてから五分と経たない内にやってきた黒服の人たちの素早い修復工事とルーリャの張った(?)らしい人払いのおかげか、昨日の騒動のことはテレビのニュースはおろか、近所の人たちの話題にも出ていなかった。
あの場に来ていたボクとクレアを除いた特失課の面々――つまりルーリャ、ミルア、リリスの三人は、落ち着く暇もなくラウラを連れて戻っていった。
ボクとクレア、そしてその後に帰ってきた久遠は黒服の男性から口止めのような説明を受けて、幸い大した損傷のなかったアパートでいつも通りの日常生活に戻った。
ただ、クレアが何処か元気がなかったのが気になっていた。今日もクレア一人残していくことに後ろ髪を引かれながらも学校に来ているのだった。
「ちょっと待て、大鳥」
「え?」
最後の階段の前に差し掛かったその時、背後から聞こえた低めの声に呼び止められて振り返ると、数学担当の御城儀先生が立っていた。
黒縁のオーバルフレーム眼鏡が特徴の比較的若い先生だけど、杓子定規に生真面目なところが多くて苦手な生徒は多い。
「何ですか?」
急いでいたところを呼び止められて動揺したのを気取られないように、笑顔を取り繕いながらそう聞き返すと、
「……」
「先生?」
急に言葉が続かなくなった先生に首を傾げつつ、目の前で手を振ってみると、
「あ、いや……その、なんだ……。もうすぐテストだろう。お前は毎回平均ギリギリなんだから、頑張れよ」
よかった、用事を頼まれるとかそういうのじゃないみたいだ。
「あ、はい。ありがとうございます、御城儀先生」
「どうして礼を言ったんだ?」
「え? あの、先生が心配してくれたのが嬉しかったからです」
「……なるほど」
何かを納得したように頷く先生。
「もう言っていいですか?」
「ん、あぁ、呼び止めて悪かった」
「いえ、御用があったらいつでも声をかけてくださいね。それじゃ失礼します」
パッと頭を下げて先生と別れると、ボクは最後の階段を上って屋上に通じている扉を開けた――
「遅い」
――途端に、扉のすぐ隣にもたれ掛かっていた紙縒さんの不機嫌そうな言葉に出迎えられた。
「ご、ごめん、紙縒さん」
「いいわよ、別に。昨日は大変だったみたいだし。誰もついてきてないわね?」
紙縒さんはチラッと階段の方を覗いて誰もいないのを確認すると、急にボクの腕を掴んで強く引いてきた。
予期してなかった行動に、ボクはそのまま扉の外に引っ張り出される。
「あ、うん。クラスメイトのことなら、今日も途中で撒いてきたから大丈夫だよ。……拳で」
「その容姿だと無理もないと思うけど、アンタも大変ね……」
紙縒さんは若干呆れの混じったような半開きの目をボクに向けつつも、同じく目立ってしまう容姿を自覚している仲間だからなのか、物憂げなため息を吐いた。
「紙縒さんは大丈夫なの? ボクが屋上に来たのもバレてるだろうから、紙縒さんも来てると変な噂が立っちゃわないかな?」
「いーのよ、私は。康平――あの馬鹿以外にどう思われても関係ないし」
紙縒さんはさらりとそう言ってのけると、制服のポケットからゴムで纏められた縦長の紙片の束を取り出す。
「じゃあ、あの噂は本当だったんだね」
「噂ァ?」
怪訝な顔で振り向いた紙縒さんの若干つり上がった目に一拍怯みつつ、しどろもどろになりながら「狗坂くんと紙縒さんが付き合ってるっていう噂を聞いたことが……」と何とか声を絞り出すと、
「それ、デマよ?」
「え?」
紙縒さんはさっきと同じような調子でさらりとそう言った。
「私と康平はそんな関係じゃないわ。たまたま家が隣同士で近しく育っただけの幼なじみ。今はね」
束から一枚の紙片をピッと引き抜いた紙縒さんは、何処かから取り出したハサミでその紙片の角を切り落とし始める。
「はい、これに署名して」
差し出されたのは切り込みの入れられた紙片だった。
上の両角を切り落とされ、中央より少し上寄りの両縁に小さなV字の切り込みが、そして下の短い辺に大きな細長いV字の切り込みが入れられている。何処となく人型に見えるその頭の部分には、ボールペンの手書きで『代』という字が書き込まれていた。
前に見た紙片に書かれていた文字は『絶』という字だったし、紙も切ってなかったような……?
そんな疑問が顔に出ていたのか、
「これは傀儡を作る代替術式よ。私の式紙を使った言霊術式は書いてある言葉によってその効果と役割を変えるの。実際はそこに書いてある文字だけじゃなくて、その紙を媒体にして私の頭の中にある思考言語の日本語を使った術式解放を行ってるから多少ややこしいんだけどね。簡単に言えば、ひとつひとつの魔法に名前を付けて、その名前を呼ぶことでその魔法の発動条件を満たすための魔法を発動させるイメージね。今のところ私しか出来ない特別形質よ」
クレアが、本の表題を読むだけで呪法の効果を発動できるのと同じ感覚だろうか。
「傀儡?」
「要するにミズハそっくりの人形を作ってここに置いとくのよ。ある程度は自律して動くけど、あくまでも簡易式だからちょっとした保険ね。入り口がひとつしかない屋上から、そこにいるはずの私たちがいきなりいなくなったら、不審に思われるでしょ? それこそ変な噂が立ちかねないわ」
「いなくなる……って?」
思わず聞き返すと、紙縒さんはきょとんとした顔でこっちを振り返った。でもすぐに「あぁ……」と納得したような表情になると、
「何も聞いてないのね。大体ミズハ、アンタねぇ……。自分が誰に呼ばれたかわかってるんだからその本人がいないことにもそろそろ気付きなさいよ。何? ミズハも鈍いの?」
「特別鈍いっていう自覚はないけど……」
今さらながら屋上を見回すと、ここにいるのはボクと紙縒さんだけだった。
「私の飛天式……えぇっと、空間転移魔法でちょっと出かけるから、ここに傀儡を置いとくのよ。はい、これで書いて。急いでね」
と自分の分を書き終えたらしい紙縒さんに手渡されたボールペンで、手の甲に載せた人型の紙片の『代』の下の部分に『大鳥瑞端』と書き込んだ――――その時、何処か驚いたような表情でじーっとこっちを見ている紙縒さんの視線に気付いた。
「…………な、何?」
「アンタ、どうして手の上で書けるの?」
「え゛……。どうしてって言われても、できるからできるとしか言いようがない気も……」
できる自覚はなかったけど、何気なく――ただ何となくやってみたらできていた、という感覚だった。
「ふぅん……。まぁいいわ、それ貸して」
“貸して”の“貸”の時点でボクの手から紙片を奪い取っていた紙縒さんは、自分の持っていた分の紙片を右手の人差し指と中指で挟むように重ね持ち、その手を胸の前でピッと素早く振った。
「『代式』式動!」
凛とした声が響く。
その次の瞬間、持っていた紙片の内の一枚がその手を離れて地面に落ち、その地点から無数の紙片を巻き込む旋風が渦巻いた。かと思うと途端に風が止み、その中からもう一人の紙縒さんが現れた。
「……あれ?」
確かに紙縒さんと瓜二つの傀儡(?)は現れたけど、もうひとつ出るはずだったのだろうボクの傀儡が一向に現れる気配がない。
それどころか、紙縒さんの指先から微動だに離れようとはしていなかった。
「『代式』式動!」
もう一度紙片を振った紙縒さんが叫ぶ。
「……」
「……」
微動だにしなかった。
「なんで? 魔力は通ってるし、式紙も正常に作動するはずなのに……?」
信じられないといった表情で手の中の紙片に忌々しげな視線を送っていた紙縒さんは、ふとポケットから取り出したPAIDを見て、
「もう時間ないじゃない……。仕方ない、もうミズハの分はなしでいくわ。後で誰かにツッコまれたら、拳で誤魔化しときなさい。拳で」
「はい……。大事なことだから二度言ったんだね……」
「蹴りでもいいわよ?」
「変則的に三回言った!?」
案外無茶なことを言う紙縒へのツッコミにボクが気を取られている内に、紙縒さんはボクの名前が書かれた紙片をポケットに押し込み、新しく取り出したもうひとつの紙片をこっちに差し出してきた。
「持って。反対側でいいから」
言われた通りに片方の端を摘むと、『飛天』という文字がそこに見えた。
「ねぇ、この『飛天』って――」
「行くわよ。舌噛まないように、黙ってなさい」
嫌な予感がする。けど、言われた通りに口を噤んでいると、
「『飛天式』式動、“拠点”」
次の瞬間、足元から蒼い光が溢れ出し、視界がその光に塗り潰され――――足が地面から離れた。
「あ、紙放したら死ぬわよ?」
消えた視界の向こうから聞こえてくる声に『遅いよ!?』とツッコむ暇もなく、ぐるんと身体全体がひっくり返るような感覚と共にどさっとお尻と腰に衝撃が走った。尻餅をついたような鈍い痛みがその衝撃と共にじわりと広がり、そうしている内に視界がぼんやりと色彩を取り戻し始める。
すると、
「『予定より多少遅かった。何かあったのか』
と私は確認を取る」
「トラブルが二、三件重なっただけよ」
何処かの中庭のような空間に、巫女・テクス・リリス・ミルア・ラウラ・ルーリャ・不夜城先生、そしてクレア・久遠が――――。
「なんでみんな集合してるの……?」




