第二十三理― <変化>それはヴィーヴル・エステリーゼ
「お前らは妹に手を出さないって……約束したはず……ッ、答えろ、人間……!」
突然目の前に落ちてきた竜の翼を持つ女性は、ふらふらと今にも倒れそうなぐらいに身体を揺らしながら、苦しげに息を切らして荒々しい言葉をぶつけてくる。
(ラウラを妹と呼ぶ異形の女性……間違いない。この女性が“ChainedDragon”――――ラウラのお姉さんのエステルさんだ……!)
よく見ると、エステルさんは身体中がズタズタにされたように傷だらけだった。
着ている服もかろうじてドレスだったことがわかる程度に相当量の布地が欠けていて、下着の一部さえ見えているのにエステルさんは恥ずかしがる余裕もない必死な様相でボクに詰め寄ってきた。
「答え、なさい……!」
あまりの剣幕に全身が強張って言うことを聞かなくなり、そのわずかな間に肉薄され――――ガッ。
襟を両手で掴まれ、思わず息が詰まりそうな勢いで引き寄せられた。
「さもっ……ないと……!」
至近距離にエステルさんの顔が迫り、殺意を帯びた赤い瞳が何処か虚ろな視線のままボクを見据えてくる。そして口角を吊り上げるように開かれた唇から覗く牙――さらにその奥がぼんやりと明るくなった。
(……っ!?)
次の瞬間、その咥内が煌き、同時に先日見たばかりの光景がフラッシュバックする。
(ドラゴン、ブレス……!)
薄黄色の光塊は輝きを増し続けながら膨らみ、考えを纏める間もなくエステルさんの口から溢れ出し始める。
(逃げないとッ……!)
エステルさんの手を振り解こうとその手首を掴んで力を込める――――が、ボクと体格もあまり変わらないエステルさんのその腕は、異常とも言えるぐらいびくともしなかった。
全貌さえ見ていないものの、彼女も確かにドラゴンなのだ。ただの人間のボクよりは圧倒的にステータスは高い。
そうして力で解決することは即座に諦めて言葉で切り抜けられないかと第一声の言葉選びに思考を巡らせ始めた時だった。
「姉さま!」
夕方から黄昏時を経て夜に移りつつある街に、ボクのものではない声が突然響いた――――。
その声を聞いた途端エステルさんはピクリと一拍全身を震わせ、その虚ろげな目を大きく見開くと、ふらっと危なっかしい挙動で背後を振り返る。同時にその口内で膨らんでいた光球はバチッという音と共にろうそくの火を吹き消すようなあっけなさで消失した。
「そこまでですの」
背中から短い白色の触手を三対六本覗かせながら、毅然とした態度でぴしゃりと言い放つルーリャ。その陰には、信じられないものを見たような怯えた表情のラウラ。
さっきのエステルさん着地の衝撃でこの騒ぎに気付いたのか、引き返してきてくれた二人がそこに立っていた。
「私は特別遺失物取扱課、行空支部特務D班所属、ルーリャ=V=ベイルクラーケですの。お前の事情は大まかに把握してるですの。大人しく投降すればそれで良し、放さねーなら実力行使で絡め捕ってやるから覚悟しろですの」
ゆらゆらと触手を少しずつ伸ばしながら、ズビシッと人差し指を突き付けたルーリャは、エステルさんが反応を返さないのを見て一歩、前に出た。
エステルさんの右手が服の襟からパッと離れた。かと思うと逃れる暇もなくその右手はボクの喉を――――捉えた。
ルーリャが足を止める。
同時にエステルさんの指が微かに動き、その爪先が肌に食い込むのを感じた。
今は少し息苦しい程度で済んでいるけど、ルーリャの動き次第でいつでもボクを傷付けられる――殺せるという意思表示。
つまり、人質だった。
「そこから動くな、海産物。それ以上近付けばコイツの首を圧し折る」
…………カイサンブツ?
ルーリャのこめかみがピクッと引き攣るのがはっきり見えた。
「……誰の許しがあって妾を海産物呼ばわりしている、コウモリトカゲ風情が」
あの時と――特失課の食堂で見た時と同じ、何処か風格のようなものを備えたルーリャは薄空色の眼をつり上げてエステルさんを見据えてそう言った。
その声は、さっきのエステルさんのそれと同じぐらい、息が詰まるほどの重さを持っていた。
目には見えないのにその影響は思いの外大きい、生物の生存本能が警鐘を鳴らすもの――――こう言い表すのが正しいのかどうかもわからないけど、自分より上位の存在が持っているオーラみたいなものが、この場所の空気を完全に支配していた。
弱者は唯一、ボク一人。
人間は唯一、ボク一人。
その疎外感がより一層強くボクの緊張を高め、それに比例して身体の自由も奪っていた。
「姉……さま……。みぃ、違う……」
ルーリャとエステルさんが無言で睨み合う中、ラウラが今にもかすれそうな声でそう呟いた。
勇気を出して声を上げた――――そんな表情だったけど、何処か不安の入り混じった、エステルさんを怖がっているような挙動がその仕草に垣間見える。
そしてそれを見たエステルさんは、目を見開いた。
その表情は、さっきとは別の感情から来るものだとすぐに、誰にでもわかる。
実の妹に、怖がられる――――それがどれだけ互いの心を傷つけるかは容易に想像がつく。喩えそれが人間でもドラゴンでも変わりはないだろう。
「姉さま……もうダメ……」
ラウラの泣きそうな声にトドメを刺されたような悲しげな表情を浮かべたエステルさんは、力尽きるようにフッとボクの首を掴んでいた腕を下げた。途端に目にも留まらない速さで伸びてきたルーリャの触手がボクに絡み付き、地面から足が離れる。
そして気が付くと、ボクはルーリャの背にかばわれるようにして立っていた。エステルさんの指が食い込んでいた首は少し熱を持っていて、少し動かすと微痛を覚える。
俯いたまま黙り込んでしまったエステルさんの背中の翼が、ゆっくりと閉じて小さくなって消える。
「大鳥さんは成り行きとは言え、貴女の妹のラウラを助けた立場の人間ですの。そんな人に対して許容できる仕打ちではねーと思いますの」
さらに追い討ちをかけるような言い方でボクについての釈明を挟むルーリャ。さっきの『海産物』発言をたぶんまだ怒ってるのだろう。斜め後ろから見てるからわかるけど、頬が膨らんでるし。
一応「ありがとう、もう大丈夫だから」ととりなしておこう。
「本人と会えたのは僥倖ですの。今、日本の専門機関“特別遺失物取扱課”が貴女の救出のために動いてますの。できればそちらの状況を詳しく聞いておきたいですの。まず竜珠が奪われたというのは本当ですの?」
ルーリャがそう訊ねると、一瞬口を開きかけたエステルさんの表情が強張る。
そして突然両手で喉を押さえたかと思うと――――ストンと脱力するように地面に膝を突いた。
「姉さま……!」
「……ッ!」
ラウラが駆け寄ろうとすると、エステルさんはラウラの腰の辺りを押して突き飛ばした。不意を突かれたラウラは不思議そうな顔でよたよたと危なげな足取りで後ずさり、トスッと尻餅をついてしまう。
「姉さま……?」
「近寄ら……ないで、今は――」
エステルさんは苦しそうに胸を押さえると、「はぁっ……はぁっ……!」と息を荒立たせる。
「何が起こってるの……!?」
尋常じゃない様子に思わずラウラにそう投げかけると、ラウラは表情を歪め「ダメ……ダメ、ここじゃ……姉さま……!」と小さく、本当に小さな声で呟くばかりだった。
その時、突然ルーリャの頭の上のアホ毛がぴくんと大きく揺れて、ぞわっとその青い髪の一部が逆立ち、すぐに重力に負けて元に戻った。
「二人とも、ここから離れるですのッ!」
ルーリャはそう言いつつもボクたちの反応を待ってられないと言わんばかりに二本の触手をボクとラウラのお腹の辺りに巻き付かせて、ほぼ間断無しで斜め後ろ上方に跳躍した。
地面が瞬く間に遠ざかり、気がつくとその高さは明らかに十メートルを超えていた。
「ちょっ、ルーリャちゃん!?」
「暴れると舌噛んで落ちるですのっ!」
咄嗟に口元を押さえて、足を曲げる。
ルーリャの背中から生え出ている数本の触手が空気を孕むように広がり、気持ち程度に落下速度が緩む。それで下を見た時に気付いた。
地上で起きている、異変に――――。
「姉さまっ……、ダメ……!」
エステルさんの形が、体積が――――姿が変わっていく。
翼がさっき畳まれたものとは違い腕に沿って一体化する形で再び出現し、尾骶骨の辺りから延長するように細長い尻尾が伸び、座り込む前傾姿勢はまるで這うような格好に――。
「これ、って……!?」
――頭から尻尾の先まで全長七メートルほどの緑色の鱗を持つドラゴンが地上に出現していた。
腕は翼肢と一体化したかのような形で、足はここからじゃ見えないのかそれともないのかは周囲の薄暗さも相俟ってよくわからないが、蛇にコウモリのような翼が生えたような姿で地上を這うように動いて、ボクたちを探すような挙動を見せる。
「ヴィーヴル……。姉さまの、元の姿……。どうして、こんな……」
混乱している様子のラウラは日本語でそれだけ言うと、頭を抱えて目を背けるように振りながら、フランス語らしい外国語で何かをぶつぶつと呟き始める。
ルーリャがラウラにも「暴れるなですの!」と言っているのに、それも聞こえていないようだ。
「でも、アレってまずいんじゃないの!?」
「勿論、相当まずいですの! 冗談じゃねーですの! 周辺民家の人払いを先にしておいたのは正解でしたの! あぁもうですの! あんな怪物が本気で暴れたら街は無茶苦茶になるですの! 応援! 応援はまだですの! フォローミーですの! コレだからドラゴンはですの――――ッ!」
ルーリャが自棄気味に叫び、その声に反応したエステルさん(らしいドラゴン)がこっちを暗闇で赤く光る目で睨み付けてきた。
そして――――ドンッ!
アスファルトを砕いて跳び上がり、翼肢を羽搏かせて空気を掴んだ。
「こ、こっち来たよ!?」
「わかってますの! 少しお口チャックしてろですの!」
ルーリャは慌てた様子で触手を地上に伸ばすと、民家の窓枠や街路樹を掴んで、一気に急降下する。
地上に降り立ったルーリャは、まだ様子のおかしいラウラは捕まえたままでボクに巻きつけた触手を解き、「こっちですの!」と先行して走り始める。
この方向は、ボクの家がある方向だ。
「で、でも別に竜の姿に戻ったって、中身はエステルさんなんでしょ!? なんで攻撃する気満々で追っかけてくるのさ!」
ボクがルーリャちゃんに追いつくなり半ば叫ぶようにそう訊ねると、
「ちゃんと説明を聞いてたはずですの! 竜珠を奪われたヴィーヴルは、その宝石――彼女の場合は紅榴石の今の所有者が彼女を操ってると見て間違いないですの!」
ドンッと激しい衝撃音がして振り返ると、勢い余って地面に尻尾を打ちつけたらしいヴィーヴル・エステルが低空飛行で追いかけてくる。
「このまま大鳥さんの家まで逃げれば、クレア=理=ディストルツィオーネが、同格か下手すると後ろのより高位の怪物がいるですの! そこまで逃げ切れば私たちの勝ちですの! 逃げるが勝ちの逃避行ですの――――ッ!!!」
そう言ったルーリャの悲鳴にも似た叫び声は、もしかしたらボクの家にまで届かせようとしているかというぐらいの大声だった。




