第二十四理― <本質>Creazione E Distruzione
「ラウラはいいかげん自分で走れですの、飛べですの、重いですのっ! コレだからドラゴンはですの――――ッ!」
轟ッ!
逃げ回りながらラウラに怒るルーリャの叫びが、瞬く間に背後のヴィーヴル・エステルの炎の吐息の燃焼音にかき消される。
振り返ることもできず、比較的近いところから背中に熱を感じて戦慄する。
「イカ焼きは御免ですのー!」
「クラーケンってイカじゃないんじゃなかったっけ……?」
「冷静にツッコまないで欲しいですの! そろそろ知性捨てそうなくらい焦ってるだけですの! びーっ!」
遂に泣き始めた……。
これが神話の時代から船乗りに恐れられてきた伝説の海魔の姿とは思えなかった。
「ルーリャちゃん、さっきエステルさんのことコウモリトカゲって言ってたでしょ。怪我させないように倒せないのッ?」
「昔から竜族とは相性悪いですの! 伸ばした触手を届かない空から焼いてくるトカゲにどうやって勝つと思ってるですの! 一人では無理ですのーッ!」
「じゃあさっきの絡め捕るとかコウモリトカゲ風情がとかって啖呵は何だったの!?」
「気が付いたら口走ってたですのッ。第三形態になれればこんな醜態を晒すまでもないはずですのにー!」
「あ、ボクの家、もうすぐそこだよ」
「さらっと流さないで欲しいですの!? 私もホントはもう少し強いはずですの!」
「走れないから絡み付かないで!?」
右腕から肩にかけて絡み付いてくるルーリャ(本体)と触手を何とか振り解き、最後の角を曲がる。
「ああもうっですの! 私が時間を稼いでる間にあの女を連れて来いですの!」
「えっ、ちょ、ルーリャちゃん!?」
身を翻してヴィーヴル・エステルに向き直ったルーリャを思わず目で追うと、柔らかな触手に背中を押された。
「いいから行けですの!」
直後にルーリャの方から聞こえてきたゴポッという音にぎょっとして再び後ろを見ると、低空飛行で突進してきたヴィーヴル・エステルの頭に向かってルーリャが多量の液体を吐きかけたようだった。
辺りが暗くてよく見えないけど、多分黒い液体だ。というか多分イカスミ……。
粘性が高いらしいその液体で前がまったく見えなくなったのかヴィーヴル・エステルはその場に落下したかと思うと、制動距離を利用してぐるんと反転し、ルーリャに向けて長い尻尾を横薙ぎに払う。
それを上に跳んで軽く躱したルーリャはヴィーヴル・エステルの首に巻き付けた触手を引き寄せて急接近すると、
「――トカゲは大人しく地を這っていればいいんです……のッ!」
その首を掴んで軽々持ち上げ、地面に叩きつけるように投げ飛ばした。
ズンッ、ととてつもなく重い衝撃が地響きとなって谺する。
(怪力……ッ!?)
似たような意味でも馬鹿力の方がしっくり来るのは何故だろうか。
「姉さまに何する!」
ぺちんっと軽い音がする。ラウラがルーリャの触手を叩き落としたのだ。
「状況理解しろですの、このお馬鹿ドラゴン!? ミズハも何してるですの、これも長くは保ちませんの!」
「あ、う、うんっ……!」
ルーリャたちに背を向けてすぐそこに見えていたアパートの古い金属階段を軽快な音を響かせて駆け上る。
そして鍵をポケットから出す時間も惜しく、ドアノブをガタガタ揺らして強制解錠する。本来は久遠に禁じられている裏技だけど、緊急事態だから仕方ない。
「クレアっ!」
名前を呼びながら部屋の中に半ば飛び込むように入ると、ボクのベッドに横たわっているクレアが視界に映った。
何故か枕を両手で抱くようにして胸元に引き寄せ、すやすやと心地好さそうな寝息を立てている。
いずれにしても起こさなきゃいけないのだろうけど、取り敢えず部屋の壁をコンコンと叩いて久遠を呼んでみる。
――いつもなら遅くても10秒ほどで返ってくる反応は、今日に限ってなかった。
久遠はやむを得ない事情で徹夜でもしていない限りは、こんな中途半端な時間に寝たりしない。多分何処かに出掛けているか、あるいは学校帰りの買い物か友達付き合いでまだ帰ってきていないかだ。
ボクはベッドに歩み寄ると、その傍らに膝をつく。そしてその気持ち良さそうな寝顔に一瞬だけ躊躇いつつも、その肩に手を伸ばす。
「クレア、起きて」
その華奢な身体を軽く揺する。
そしてもう一度起こそうと口を開いた時、クレアの目がすっと、うっすら開いた。
「あら、ミズハ……おかえりなさい」
「うん、ただいま。いきなりで悪いんだけど、起きれる? 大変なんだ」
ボクの表情から事態の緊急性を察したのか、クレアはまだ眠そうに目を瞬かせながらもぎこちない動作で上半身を起こした。
そして抱えていた枕をじっと見つめてそっと脇に戻すと、
「それで、何があったのかしら?」
あくびで目元に浮かんだ涙を人差し指で拭いながらそう訊ねてくる。
「――外に随分な気配がするのだけれど」
ボクが事情を早口で簡潔に説明しようとすると、先取りするようにクレアがそっぽを向いて付け足した。
その視線の方向は、ルーリャたちとヴィーヴル・エステルがいるだろう方向だ。言うまでもなくボクが言う前に察知したのだ。たぶん、エステルさんを。
「帰りにルーリャちゃんとラウラに会って、その後にドラゴンが襲ってきたんだ。その、ラウラのお姉さんのエステルさんが。今は誰かに操られてるみたいで、ルーリャちゃんとラウラが何とか足止めしてる。クレアなら二人も、エステルさんも助けられるよね。とにかく一緒に――」
「不可能よ」
クレアはそう即答した。
「……え?」
「ミズハは忘れているかもしれないけれど、私は呪術書、呪われた原典よ。呪われた呪いの書である私には誰かを救うことなんてできないわ。生け捕りにすること自体は可能でも、多少の手傷までは保証できない」
そう言ったクレアの声は、何処となく沈んでいるように聞こえた。
「ドラゴンは生命力も高いから勿論死ぬようなことはないでしょうけど。私が何かを与えることができるとしたら、それは必ず苦痛をも共に要求してしまうわ」
――人の姿を得た呪役者が心の傷を延々抉られてしまうように――
普通なら聞き逃してしまいそうなほどの小さな呟きだったのに、その声は不思議と響いてよく聞こえた。
「ミズハだって私がこの世界に巻き込んだのだし、基本的に私は何もしない方がいいのよ。それがよくわかったわ」
そう言ったクレアはベッドの端に手を掛け、下りようとしているのかまたもぎこちない動きで身体をズラし始めた。
その動きに――――違和感を、覚えた。
「クレア、どうかしたの……?」
そう訊いた瞬間、こっちに振り向こうとしたらしいクレアの身体が――――ぐらり、と大きく傾いた。
「危なっ……!」
咄嗟に手を差し出し、クレアが掴まれるように身構える。
しかし想定に反して、クレアの右手は落ちながらボクの手を叩いただけで掴まることができなかった。
どたーんと大きな落下音が古アパートの一室に響き、床を軋ませる。
「クレア!」
慌てて助け起こすと、クレアはぷるぷると震える右手を恨めしそうに見据えながら、一言「ごめんなさい」と呟いた。
「これ、どういうこと……?」
「黙っていてごめんなさい。術――いえ、呪法の反動で身体が上手く動かせないの」
さっき動きがぎこちなかったのは、そのせいだったのか。
「呪法の反動で、って?」
「最初にラウラと会った時、彼女と成り行きで少し戦うことになってしまって、その時に重い一撃を受けたの。その時に使った蘇生呪法の効果が切れて…………」
そう言ったクレアは急に痛みを堪えるような表情になり、左手で服の上から右の脇腹を押さえた。
「今日は一日中休息で自己修復を早めていたのだけれど、今の私は瀕死と同じ。勿論この程度で人外は死にはしないけれど、呪法行使も制御しきれるかどうかもわからないわ……。この状態で戦っても、双方無事に済むかは五分五分――」
「何とかしなきゃ……」
ルーリャは、クレアを頼りにしてた。
クレアの能力は、少し見ただけのボクでもわかるくらい汎用性が高い。何もないところから車を出現させたり、無数の鎖を出して拘束したり、重機関銃の弾を受け切ったり――――他にも何かはよくわからないことをいくつかやっている。
ルーリャにせよラウラにせよ、これほどの汎用性はないはずだ――――だからこそエステルさんまでもを守れるクレアを当てにしていたぐらいなのだ。
特失課からここまで二十分。応援が来るのもそれくらいの時間がかかるとして、あれから経った時間は大体十分。
残り十分をどうやって保たせればいい……!?
ボクが持っていた唯一の力、自動拳銃は、エステルさんに襲われた場所に落としてきてしまったし、第一銃でヴィーヴル・エステルを押さえ込むことはできない。
考えて、何でもいいから思い出せ。
何か――きっと何かある。この状況を切り抜けられる方法が。
――物が呪われると摂理内包同様に人格を得て、人化の能力も得るわ――
――人の姿を取るようになって久しいけれど、元々は人間ではないわ――
――ミズハは忘れているかもしれないけれど、私は呪術書、呪われた原典よ――
クレアの本質は――――呪術書。
本体は元々一冊の本、受呪者になる前にはオカルト的な力を持った本の一冊でしかなかったはずだ。勿論それだけで既に人知を超えてるけど。
本は、自分の意志を持たない。少なくともそれを表に出す方法はない。
誰かに読まれてこそ意味があるものだ。
誰かが使ってこそ――――意味がある。
「ミズハ、手を貸してちょうだい」
クレアは床の上にぺたんと座り込んだまま、両手をこっちに伸ばして甘えるような声でそう言った。
「急がなければ危ないこの時に、私の都合を押し付けてごめんなさい。私は大丈夫だから、代わりに私を――――助けて」
クレアは明らかに無理をしている笑顔を浮かべて、ボクに手を差し出してくる。
ボクが手助けして、クレアが自分の能力を最大限に発揮する。
クレアは身体が動かせないだけで、手傷さえ覚悟してもらえばエステルさんを生かしたままで捕まえられる。
それなら確かに、いけるかもしれない。
「今以上に悪くは、ならないよね……」
「ええ、行きましょう、ミズハ」
うん、とボクは呟くように頷く。
「でも、ボクがやるよ」
「ミズハが、って貴方はまだそんな能力はないでしょう!? 何を――」
「クレア。ボクはよくわからないけど、多分クレアは使われる分には負担はないんだよね?」
「そ、それはそうだけれど、でもそれは術者の魔力に負担をかけるものだからよ。確かに貴方にも魔力を操作する素質はあるようだけれど初見でできるものじゃ――」
クレアの言葉が止まる。
「何を言おうとしたの?」
思わず問い質す。
するとクレアは一瞬迷うように視線を泳がせると、スッと目を閉じた。
「――できるとしたら……」
「クレア……?」
「――覚悟はあるのかしら?」
急に目を開けたクレアは鋭い視線でボクを睨み付けてそう言った。
「私は術者の魔力を喰らって凶悪な効果を行使する、悪意と怨嗟の呪本。その私を使うというのは、他者に害為す呪術を行使するということよ。今はそれしかないから仕方がない、なんて理由で踏み込む気なら今死ななくても明日死ぬわ」
「わかってるよ。ボクは馬鹿だから、雰囲気ぐらいしかわかってないけど。何にも考えてない訳じゃないから」
守られるより守りたい、その決意をここで嘘にしてしまう方が怖い。
そう伝えると、クレアは呆気にとられたような顔をしてフッと笑んだ。
「――貴方に、全てを委ねましょう。悪しき力も正しく使えば、あるいは正しい力になるのかもしれないわ」
クレアの身体が、ぼんやりとした光を放ち始める。その光の中に消え行きながらふふっと微笑んだクレアは、ボクの首筋にスッと手を伸ばしてきて――――チクッ。
人差し指の爪で首の左側を刺した。
「え、何を……?」
「所有印♪」
クレアの悪戯っぽい笑みが、白い光に呑み込まれる。白い、純白の光なのに、あまり良くない光に見えた。
そのシルエットが、変化していく。
辞書よりも少し大きめの本の形に変化したその光の塊は、やがて光を失っていき、
『Creazione E Distruzione』
金色の表題が装丁された一冊の古い本が、目の前に浮かんでいた。




