第七篇 三つ目の鐘
――『亡国の侍 異世界転移譚』第七話「音のない谷」連動
リサは、誰の許しも得ずに三つ目の鐘を鳴らした。
ベズラス採掘場の坑口には、三つの鐘が吊られている。
一つ目は、仕事の始まりと終わりを告げる小さな鐘。
二つ目は、石を積んだ車を引き上げるための鐘。
三つ目は、道具も荷も捨て、谷から出ろという鐘だった。
最後に鳴ったのは七年前だと聞いている。その時、坑道の天井が落ち、逃げ遅れた二人が死んだ。
だから三つ目の綱だけは赤く染められ、鐘番の判断では引いてはならないことになっていた。
リサは、その赤い綱を両手で握っていた。
鐘の音が、青灰色の岩壁を幾度も跳ね返る。
坑道の奥から、人が走ってくる音がした。
「誰が鳴らした!」
最初に飛び出してきたのは採掘頭だった。続いて、鑿や槌を抱えた者たちが、土煙とともに坑口へ出てくる。
リサは一人ずつ数えた。
最後に、弟のネフが押し出されるように現れた。
額に白い石粉をつけ、片手には細口の鑿を握ったままだった。
「姉さん、何をしたんだ」
全員いる。
それを確かめてから、リサは赤い綱を放した。
「石喰いの音が消えた」
採掘頭が谷を見回した。
風は吹いている。足元では、引き上げかけの石車が軋んでいる。
だが、岩の隙間に棲む石喰いたちの音はしなかった。
硬い外殻を擦る音。
岩を齧る、かり、こりという音。
いつもなら鑿を止めても、谷のどこかで鳴り続けている。それが一つもない。
「餌場を移っただけだ」
採掘頭が言った。
「全部が、同時に?」
「お前の思い込みで仕事を止めたのか」
今日は、この採掘場で働く最後の日だった。
ベズラス石の層は細くなり、採れる場所も深くなった。最後の石車を出したら坑口を塞ぎ、採掘場で働く家々は順に南へ移る。
あの車が満ちれば、ネフは見習いではなく採掘工として紹介状へ名を載せてもらえるはずだった。
石車は、まだ半分しか埋まっていない。
「戻るぞ」
採掘頭が坑道へ向き直った。
リサは入口の前へ立った。
「戻らないで」
「鐘番は岩を見ない」
「だから聞いてる」
「何も聞こえないだろう」
「何も聞こえないから言ってるの」
採掘頭の顔が険しくなる。
「あの車を出せなければ、今日の上乗せはない。お前の弟の名も書けん」
ネフが俯いた。
南の採掘場では、見習いの賃金でやり直すことになる。新しい靴も、母の荷を運ぶ角鹿も遠のく。
リサは綱の染料が掌へ移るほど強く握った。
それでも、入口を退かなかった。
低い音がした。
誰かの腹が鳴ったような、小さな音だった。
次に、足元が僅かに沈んだ。
採掘頭が坑道を振り返る。
奥から風が吹き出した。
灯火が一斉に消える。
直後、岩の砕ける音が谷を満たした。
地面が揺れ、坑口から灰色の粉塵が噴き出す。引き上げかけていた石車が綱ごと引かれ、暗闇の中へ消えた。
誰も動かなかった。
やがて粉塵が薄れると、坑道の入口は半ばまで岩で塞がれていた。
採掘頭は長く息を吐いた。
「最後の車は、なしだ」
ネフの紹介状も、なしということだった。
リサは弟を見た。
謝ろうとしたが、ネフは先にリサの手を取った。
「南で、また取る」
何を、とは言わなかった。
ネフの指に残った白い石粉が、赤く染まった掌へついた。
◇
翌朝、採掘場の道具が運び出された。
一つ目と二つ目の鐘は荷車へ積まれたが、三つ目は坑口に残された。重すぎて、これから使う当てもなかった。
「舌を抜け」
採掘頭がリサへ言った。
「置いていくのに?」
「風で鳴れば、誰かが残っていると思う」
リサは鐘の内側へ手を入れ、留め金を外した。
黒く磨かれた鐘の舌は、見た目より重かった。
布へ包み、自分の荷の底へ入れる。
村へ戻る道で、ネフは新しい紹介状の話をしなかった。
リサも、最後の石車の話をしなかった。
谷口へ着いた時、背後から音がした。
かり。
こり。
石喰いが一匹、岩を齧り始めていた。
やがて別の場所からも、同じ音が返った。
リサは振り返らなかった。
荷の底では、三つ目の鐘の舌だけが、布に包まれて黙っていた。
*
この世界を、侍・伊庭八郎の側から描く本編は、
『亡国の侍 異世界転移譚』第一話「剣と銃」から。
第一話:https://ncode.syosetu.com/n5318ml/1/




