第六篇 零の欄
――『亡国の侍 異世界転移譚』第六話「魔力なき者」連動
イルゼは、空欄を残さなかった。
書き忘れたのか。
読めなかったのか。
それとも、誰も責任を持たなかったのか。
後から帳面を開く者には、その違いが分からない。
だから北辺観測局へ届く報告書は、すべての欄を埋めてから棚へ送る。それが記録主任であるイルゼの仕事だった。
その日の最後に残った一枚にも、空欄があった。
姓名、イヴァ・ハチロー。
出身、ニホン。
年齢、二十六。
生体反応、正常。
身体魔力――その先だけが空いている。
「測定不能でよいのでは」
向かいの机にいた若い書記が言った。
「器具が反応しなかったのでしょう」
「測定不能なら、そう書いてくる」
イルゼは報告書の下へ綴じられた三枚の記録を開いた。
同じ名。
異なる時刻。
測定者はすべて、砦町医療院のミレア・セレディア。
一回目。
測定前の基準石は、規定値を示している。
対象の全身では、針が零から動かない。
測定後の基準石も、同じ値だった。
二回目も変わらない。
三回目も。
「器具は壊れていない」
イルゼは言った。
「では、魔力が弱すぎたのでは」
「左肩だけは測れている」
記録の端に、薄い緑色の線が残っていた。
土属性。
外部術式。
術者、アルヴァン・セレディア。
測定器は、異邦人の左肩へ残った僅かな魔力を拾っている。
拾えるものを拾い、ない場所では何も示さなかった。
「最低値未満としておきますか」
「最低値未満と、ないものは同じではない」
「でも、生きているのでしょう」
「そう書いてある」
「生き物に魔力の流路がないなんて、あり得ません」
イルゼは顔を上げた。
「あり得るかどうかを決めるのは、私たちの仕事ではない」
「では、何を」
「測ったものを残す」
若い書記は納得していない顔だった。
イルゼ自身も、納得しているわけではない。
この報告を〈測定不能〉として処理すれば、今日の仕事は終わる。
器具の不調。
術式による妨害。
敵国の偽装。
既存のどれかへ入れてしまえば、誰もイルゼへ説明を求めない。
反対に、新しい分類を作れば、記録主任の名で監査へ回さなければならない。
誤りなら、三台の測定器を止め、砦町医療院の記録まで調べ直すことになる。
「主任」
若い書記が、空欄を指した。
「どうしますか」
イルゼはペン先を墨へ浸した。
身体魔力の欄には、〈微弱〉、〈枯渇〉、〈閉塞〉、〈測定不能〉の四つしかない。
その下へ定規を当て、新しい線を一本引いた。
五つ目の欄を作る。
そこへ、〈流路なし〉と書いた。
「なし、ですか」
「三度測って、三度とも零だ」
「零は、何も書かないのと同じでは?」
「違う」
イルゼは新しい欄の脇へ、自分の管理印を押した。
「空欄は、測らなかったものだ。零は、測った結果だ」
◇
報告書は通常の棚へ送られなかった。
異常例を扱う赤い革箱へ収められ、局長代理の机へ運ばれた。
しばらくして、イルゼは上階へ呼ばれた。
「この分類を作ったのは君か」
局長代理が報告書を掲げている。
「はい」
「生きている人間に、流路がないと?」
「私は、その人間を見ていません」
「ならば、なぜ断定した」
「人間については断定していません。三度の測定結果を記録しました」
「測定者が間違えた可能性は」
「あります」
「器具が三度とも誤った可能性は」
「あります」
「敵国の偽装は」
「それもあります」
「では、流路が存在しない可能性は」
イルゼは答えた。
「同じように、あります」
局長代理は報告書を机へ置いた。
空欄を残さないために足された、五つ目の欄を見る。
「このまま通せば、特別調査になる」
「そのための異常例です」
「間違っていれば、君の名が残るぞ」
「正しくても残してください」
部屋が静かになった。
やがて局長代理は封蝋を温め、報告書を閉じた。
王立魔術院特別調査官へ回す印が押された。
◇
夕刻、封書を持った伝令が観測局を出た。
馬の蹄が、補修中の防壁の向こうへ遠ざかっていく。
イルゼは記録室へ戻り、机の上の控えを開いた。
姓名。
出身。
年齢。
生体反応。
すべての欄が埋まっている。
最後に足された五つ目の欄では、〈流路なし〉の文字だけがまだ乾いていなかった。
窓から差す夕日の中で、零を記した墨が、ほかの文字より僅かに重く光っていた。
*
この世界を、侍・伊庭八郎の側から描く本編は、
『亡国の侍 異世界転移譚』第一話「剣と銃」から。
第一話:https://ncode.syosetu.com/n5318ml/1/




