第三篇 壁の中の店
――『亡国の侍 異世界転移譚』第三話「継ぎ接ぎの砦町」連動
町の新しい壁は、ボランの酒場を真っ二つに通ることになった。
「ここから、ここまでだ」
石工が床へ白い粉で線を引いた。
入口からカウンターを横切り、奥の竈へ伸びている。
壁が完成すれば、客席は町の内側に残る。
竈と寝床は外側になる。
「壁を少し曲げな」
ボランは言った。
「酒場を避けて」
「曲げれば、北門との間に死角ができる」
「なら門を曲げな」
「門は曲がらない」
「つまらない門だね」
石工は困った顔をした。
町の外では、槌の音が絶えない。
三日前、北の牧柵が破られた。獣の群れは追い払ったが、次も同じ数とは限らない。
壁は日暮れまでに閉じる必要があった。
ボランの酒場は、町が砦になる前からそこにあった。
旅人が北へ向かう時に飲み、戻った時にまた飲む店だった。
戻らなかった者の代金も、帳面には残っている。
「建物は買い取る」
役人が言った。
「新しい場所も用意する」
「新しい場所に、この床の染みまで運べるかい」
役人は床を見た。
葡萄酒、油、泥、血。
どれが何の染みか、ボランにも半分は分からない。
「無理だろうね」
ボランは自分で答えた。
壁際には、古い看板が掛かっている。
三つの月を描いた板の下に、店の名が彫られていた。
文字の溝は酒煙で黒くなり、端は何度も獣に齧られている。
死んだ夫が最初に作ったものだった。
「材木が足りない」
大工が入口から顔を出した。
「内側の支えに、太い板が二枚要る」
視線が看板へ向いた。
ボランは睨み返した。
「それ以外で探しな」
「探している間に日が落ちる」
「落としときな」
「壁も落ちる」
外で警鐘が鳴った。
一度だけ。
見張りが北の森に動きを見つけた合図だ。
店にいた客が立ち上がる。
誰も酒代を払わなかった。
「あとで取り立てるよ!」
ボランが怒鳴ると、背を向けたまま手だけ振った。
残ったのは、石工と大工と役人。
それから、ボランの娘だった。
十二になったばかりで、母親より先に看板を外そうとしている。
「触るんじゃない」
「壁が閉じなかったら、お父さんの店も残らないよ」
娘は言った。
ボランは返す言葉を失った。
夫なら、どうしただろう。
あの男は店より客を先に逃がしただろうし、看板を薪にして湯を沸かしたかもしれない。
だから早く死んだのだ、とボランは時々腹を立てていた。
「裏返して使いな」
やがて言った。
大工が聞き返す。
「看板を?」
「文字を内側へ向けるんだ。獣に店の名を読まれちゃ困る」
大工は笑わなかった。
丁寧に看板を外した。
◇
壁は日が落ちる前に閉じた。
酒場の竈は壊され、寝床は石の外へ消えた。
残った客席にも、半分まで石壁が入り込んでいる。
看板は壁の中に立てられ、二本の梁を支えた。
文字は町の内側を向いていたが、その前にも石が積まれたため、もう誰にも見えない。
「店がなくなったね」
娘が言った。
「半分ある」
ボランは答えた。
「なら半分の店だ」
カウンターを短く切り、残った竈の石で小さな火床を作った。
最初の客は、壁を積み終えた石工たちだった。
椅子が足りず、半分は立って飲んだ。
酒は薄かった。
誰も文句を言わなかった。
その夜、壁の向こうで獣の声がした。
厚い石と、内側に埋め込まれた一枚の看板が、低く震えた。
ボランは杯を一つ、壁の前へ置いた。
「一杯分、場所代だよ」
翌朝には、酒は空になっていた。
誰かが飲んだのか、石へ染み込んだのかは分からない。
それから年月が経った。
町の者は、その壁の一角を〈三月亭〉と呼ぶようになった。
店の名を知る者が減っても、夜番の兵は交代の前に壁を二度叩いた。
湿った晩には、石の隙間から古い葡萄酒の匂いがした。
壁の外には森があり、森の向こうには、まだ閉じられない北があった。
*
この世界を、侍・伊庭八郎の側から描く本編は、
『亡国の侍 異世界転移譚』第一話「剣と銃」から。
第一話:https://ncode.syosetu.com/n5318ml/1/




