第58話 美咲の入社前夜
この話だけ、美咲の視点から始まる。
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四月の前夜。
夜の十一時。
結城美咲は、ベッドの上で天井を見ていた。
眠れなかった。
明日から、社会人だ。
大学を卒業して、就職して、明日が初出社だ。
IT企業。
インフラ運用課配属予定。
インフラって何をするんだろう、という漠然とした不安がある。
教育担当の名前は、事前に知らされていた。
「神代 凛」
名前だけ見た。
男か女か分からない名前だなと思った。
でも、きっと優しい先輩だといいな、と思っていた。
……眠れなかった。
スマホを見た。
友人からのメッセージ。
『明日から頑張れ!』
『緊張してる?』
『大丈夫だよ』
返信した。
『緊張してる。でも頑張る』
スマホを置いた。
天井を見た。
どんな職場だろう。
どんな先輩がいるんだろう。
優しければいい。
厳しくても、ちゃんと教えてくれる人ならいい。
ただ怖い人だったら嫌だな、と思った。
……結局、あまり眠れなかった。
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翌朝。
会社に着いた。
受付で名前を告げた。
案内されて、インフラ運用課のフロアに入った。
広いフロアだった。
モニターがたくさんある。
数字とグラフが並んでいた。
何が何なのか、全然分からなかった。
その時。
「おはよう」
声がした。
振り返った。
デスクに座っている人がいた。
ショートヘアで、中性的な雰囲気の人だった。
綺麗な人だ、と思った。
「あなたが新人の結城さん?」
「は、はい! 結城美咲です!」
「神代凛。教育担当だ。よろしく」
声が、綺麗だった。
透明感のある、少し高い声。
いい声だ、と思った。
最初にそう思った。
「よろしくお願いします!」
「うん」
凛は少し、こちらを見た。
「緊張してるか」
「は、はい、少し」
「まあ最初はそうだ」
それだけ言って、画面に向き直った。
怖い人じゃなさそうだ、と思った。
怖くはない。
ただ、少し淡々としていた。
感情が読みにくい人だな、とも思った。
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午前中。
説明を受けた。
凛が監視画面を指しながら説明する。
「これがサーバの状態を表している。緑が正常、黄色は警告、赤は異常だ」
「はい」
「基本的に緑を維持するのが仕事だ」
「はい」
「何もないのが一番いい」
「え、でも何もないと仕事してないみたいじゃないですか」
凛が少し、こちらを見た。
「インフラは止まらないことが仕事だ」
「……そういうものなんですね」
「そういうものだ」
淡々としていた。
でも説明は分かりやすかった。
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昼前。
「先輩」
美咲は呼んだ。
「ん」
「先輩って、男ですか女ですか」
しまった、と思った。
思ったことが口から出てしまった。
失礼なことを聞いてしまった。
ただ凛は。
「男だ」
淡々と答えた。
「えっ」
「男だ」
「……そうなんですか」
「そうだ」
「すみません、変なこと聞いて」
「別に変じゃない。よく聞かれる」
「そうですか」
「まあ」
凛はそれ以上は何も言わなかった。
怒ってはいなかった。
ただ、少し疲れているような気もした。
毎回聞かれて、少し疲れているのかもしれない、と思った。
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夕方。
業務が終わった。
美咲は荷物をまとめながら、凛を見た。
凛はまだ画面を見ていた。
残業だろうか。
怖い人じゃなかった。
教え方が丁寧だった。
男だと分かっても、特に何も変わらなかった。
先輩は先輩だと思った。
ただ。
午前中に「男だ」と言われた時、少し疲れた顔をしていた気がした。
毎回聞かれているんだろうな、と思った。
それでも淡々と答えていた。
なんか、大変そうだな、と思った。
でも。
「お先に失礼します」
「うん」
「あの」
「何」
「先輩って、怖くないですね」
凛が少し止まった。
「……そうか」
「よかったです」
「何がだ」
「怖い先輩だったら嫌だなって、昨日の夜思ってたので」
「……昨日の夜」
「眠れなくて」
「そうか」
「先輩がいい人で、よかったです」
凛はしばらく何も言わなかった。
それから。
「……まあ」
そう言った。
美咲は少し笑った。
「じゃあ、また明日お願いします」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
フロアを出た。
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帰り道。
電車の中で、美咲は思った。
教育担当の先輩は、思っていたより淡々としていた。
ただ、怖くはなかった。
説明が分かりやすかった。
男だと聞いて驚いたが、それで何かが変わるわけじゃないと思った。
先輩は先輩だ。
「なんか、怖い先輩じゃなさそうで」
昨日の夜に思っていた通りだった。
明日も頑張ろうと思った。
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あの日から。
少しずつ、距離が縮まった。
椅子を寄せた。
隣に座るようになった。
名前を呼ばれるようになった。
仕事を教えてもらった。
飲みすぎた夜に助けてもらった。
ライブを見に行った。
色々な過去の話を聞いた。
そして今。
「先輩のことが、好きです」
と言えるようになった。
あの初日に「怖くないですね」と言った時。
凛が「……まあ」と答えた時。
その時から、もう始まっていたのかもしれない。
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現在。
インフラ運用課。
凛がコーヒーを飲みながらモニターを見ている。
美咲が椅子を寄せる。
いつもの距離だ。
「先輩」
「ん」
「今日も緑ですね」
「そうだな」
「平和です」
「まあ」
「先輩」
「何だ」
美咲はにこっとした。
「今日もよろしくお願いします」
「……うん」
凛は少し、美咲を見た。
それから、また画面に向き直った。
「よろしく」
あの日と同じ言葉だった。
でも、少し温度が違った。
監視画面は、今日も緑のままだった。
日常は続いていた。




