第57話 男でも女でもない
火曜日。
夕方。
フロアに二人きりになった頃。
美咲が少し真剣な顔で言った。
「先輩」
「ん」
「一つ聞いていいですか」
「内容による」
「男扱いされたいですか、女扱いされたいですか」
俺は少し止まった。
「……急だな」
「ずっと気になってたんです」
「何が」
「先輩って、男ですよね」
「そうだ」
「でも声が女性的で、見た目も中性的で、会社ではほぼ女性扱いで」
「まあ」
「先輩自身は、どう扱われたいんだろうって」
「……考えたことがなかった」
「ないんですか」
「男扱いも女扱いも、どちらでも生きてきた」
「それはどっちでもいいってことですか」
「……まあ、そうかもしれない」
「本当に?」
「……どちらかに決めなければいけないという感覚が、あまりない」
「それって」
美咲は少し考えた。
「男でも女でもない、ってことですか」
「そういう言い方もできる」
「先輩らしいですよね」
「なんでだ」
「どっちかに決めなくていい、って思えるの」
「不便なこともある」
「どんなことですか」
「健康診断の性別欄で騒ぎになった」
「ありましたね」
「飲み会の席が女性席になる」
「ありますね」
「男子トイレを使うと驚かれることがある」
「それはつらいですね」
「まあ、慣れた」
美咲はしばらく俺を見ていた。
「先輩」
「何だ」
「私は、男でも女でもどっちでもいいです」
「そうか」
「先輩は先輩なので」
「……まあ」
「でも聞いていいですか」
「何が」
「先輩って、自分のことをどう思ってますか」
「自分のことを」
「男だとか、女だとか、そういうじゃなくて」
「……どういう意味だ」
「先輩って、自分が好きですか」
俺は少し止まった。
そういう問いを、考えたことがなかった。
「……好きかどうかは分からない」
「分からない?」
「自分のことを好きか嫌いかという基準で考えたことがない」
「そうですか」
「インフラエンジニアとしては、まあ、やれていると思う。バンドのボーカルとしても、まあ」
「それは仕事の評価ですよね」
「まあ」
「人としての自分は」
「……考えてない」
「考えてないんですね」
「まあ」
美咲はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「私は、先輩のことが好きです」
「……仕事の話ではないんだな」
「はい」
「半分くらいですか」
「今日は全部です」
俺は少し止まった。
「全部」
「全部です」
「……そうか」
「男でも女でも関係ないです。先輩が先輩だから、好きです」
俺は何も言えなかった。
「知ってますか、先輩」
「何を」
「先輩って、最近笑うようになりましたよね」
「そうか」
「コーヒーを置いてってくれる時があります」
「まあ」
「たまに『悪くなかった』って言います」
「まあ」
「全部、最初はなかったことです」
「……まあ」
「先輩のそういうところが、好きです」
「……何がだ」
「変わっていくところです。少しずつ、でも確かに」
俺は少し、美咲を見た。
「美咲」
「はい」
「お前は」
一拍。
「……お前は」
また止まった。
「先輩?」
「……まだ、ちゃんと言えない」
「いいです」
「いいのか」
「近いうちって言ってくれましたよね」
「……まあ」
「待ちます」
「……まあ」
「でも先輩」
「何だ」
「今言いかけた言葉」
「うん」
「忘れないでください」
「……分かってる」
「約束ですよ」
「……まあ」
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「感情ログを確認しました」
「するな」
「過去最大値を更新しました」
「……消せ」
「保存しました」
「それと」
「何だ」
「『お前は』と言いかけました」
「……まあ」
「続きは何でしたか」
「……分かってる」
「教えてもらえますか」
「……近いうちに言う」
「了解しました」
「保存しました」
「するな」
「保存しました」
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フロアが静かになった。
「お前は」
続きは、もう分かっていた。
「お前は、好きだ」
そういうことだ。
ただ。
今日は言えなかった。
美咲に言われてから、まだ気持ちの整理が追いつかなかった。
「全部です」と言われた。
全部。
今まで「半分くらい」だったのが、「全部」になった。
その重さを、まだ受け取りきれていなかった。
ただ。
受け取れていないが、受け取りたいとは思っている。
それは分かった。
「近いうちに」
本当に近いうちに。
次こそ、言う。
……次こそ。




