第55話 声の話
月曜日。
朝。
インフラ運用課。
先週の過去話を三日間続けていた。
新人の頃。
声を変えた夜。
女性扱いが始まった日。
美咲は全部、静かに聞いていた。
そして、翌週の今日。
美咲は何も変わらなかった。
いつも通りの距離で来て、いつも通り「おはようございます」と言った。
それが。
少し、嬉しかった。
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昼休み。
フロアで二人。
美咲がお弁当を食べながら言った。
「先輩」
「ん」
「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「先輩の声って、今はどう思ってますか」
「何を」
「好きですか、自分の声が」
俺は少し止まった。
自分の声が好きかどうか。
考えたことがなかった。
「……ライブでは使える声だと思ってる」
「ライブでは、ですか」
「普段の会話では、まあ、仕方ないと思ってる」
「仕方ない」
「女性扱いされる原因だからな」
「それが嫌ですか」
「……今は、まあ」
「まあ、って嫌じゃないですか」
「そうかもしれない」
「先輩の声」
美咲が少し間を置いた。
「私は好きです」
俺は少し止まった。
「そうか」
「最初に聞いた時から」
「最初?」
「配属初日の朝です」
「そんな前から」
「はい。先輩に『おはよう』って言われた時。あ、いい声だなと思いました」
「……そうか」
「手術で変えた声なのに、自然に聞こえるんですよね」
「まあ、練習したから」
「カラオケで聴いた声も好きです。ライブで聴いた声も好きです。でも」
美咲は少し、俺を見た。
「一番好きなのは、普段の先輩の声です」
「……なんでだ」
「なんでかな」
美咲は少し考えた。
「先輩の声って、感情が出にくいじゃないですか。淡々としてる」
「まあ」
「でもたまに、ちょっとだけ違う時があります」
「どういう時だ」
「昨日の帰り道みたいな時。『お前だからだ』って言った時、少し違いました」
「……そうか」
「先輩が声のトーンを変える時って、本気の時なんですよね」
「そうかもしれない」
「だから好きです、先輩の声」
俺は何も言えなかった。
NIAが言った。
「マスター」
「黙れ」
「心拍数が」
「黙れ」
「本日最高値です」
「……黙れ」
「保存しました」
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美咲は弁当箱を閉めながら言った。
「先輩」
「ん」
「こんな話、誰かにしましたか」
「何の話を」
「声のこと。好きかどうか」
俺は少し考えた。
「……してない」
「誰にも?」
「悠斗には『リスクがある』という話をした。奏には『今の声の方が好き』と言われた。でもこういう話はしてない」
「こういう話って」
「……好きかどうか、という話だ」
「先輩は」
「うん」
「今の声、好きになれそうですか」
俺はしばらく考えた。
「……まあ、なれるかもしれない」
「なれるといいですね」
「そうだな」
「私が好きだと言っても、先輩自身が好きじゃないと意味がないと思うので」
「……まあ」
「でも」
美咲は少し笑った。
「私が好きだと言い続けます」
「なんでだ」
「そのうち先輩も好きになると思うので」
「……そういうものか」
「そういうものです」
俺は少し間を置いた。
「……ありがとう」
「え?」
「そういうことを言ってくれることに、ありがとう」
美咲が少し止まった。
それから、ゆっくり笑った。
「先輩」
「何だ」
「こんな話を、私にしてくれたことが嬉しいです」
「……まあ」
「誰にもしてなかったんですよね」
「そうだ」
「なんで私にしてくれたんですか」
俺は少し間を置いた。
「……お前だから」
「また言いましたね、それ」
「……まあ」
「お前だからって、どういう意味ですか」
「……まあ、そういう意味だ」
「曖昧ですよ」
「……まあ」
「先輩」
「何だ」
「近いうちに、ちゃんと教えてください」
「……分かってる」
「約束ですよ」
「……まあ」
「まあって、約束ですよ」
「……分かった」
美咲はにこっとした。
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「本日の会話を記録しました」
「するな」
「声の話をしました」
「まあ」
「誰にもしていない話を、美咲にしました」
「……まあ」
「こんな話を美咲にだけした」
「……そうだな」
「意味は分かっていますか」
「……分かってる」
「保存しました」
「するな」
「それと」
「何だ」
「約束しました」
「まあ」
「近いうちに、ちゃんと伝えると」
「……まあ」
「逃げ道が、もうないですよ」
「……知ってる」
「保存しました」
午後の仕事に戻った。
監視画面は緑のままだった。
「こんな話を、美咲にだけした」
それが何を意味するか。
分かっていた。
ずっと分かっていた。
あとは言葉にするだけだ。
……本当に、あとは言葉にするだけだ。




