第54話 女性扱いが始まった日
土曜日。
昼。
珍しく、美咲から連絡が来た。
美咲:『先輩、今日暇ですか? 近くにいるので会えますか』
俺は少し止まった。
返信した。
『まあ』
美咲:『やった! いつもの定食屋でいいですか?』
『まあ』
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定食屋。
二人で向かい合って座った。
週末に会うのは珍しかった。
「先輩」
「ん」
「急に誘ってすみません」
「別に」
「なんか、先輩に会いたくなって」
「そうか」
「おかしいですか」
「おかしくない」
美咲は少し嬉しそうな顔をした。
注文して、料理を待ちながら。
「先輩」
「ん」
「昨日の話の続きを聞いていいですか」
「何の続きだ」
「手術の後の話」
「まあ」
「手術して、声が変わって、会社に行ったら女性扱いされた、と言ってましたよね」
「そうだ」
「最初はどう思いましたか」
俺は少し考えた。
「……違和感があった」
「どんな違和感ですか」
「受付で『いらっしゃいませ』と言われた。それは普通だ。でも次に『女性の方は左のロッカーをお使いください』と言われた」
「それが最初ですか」
「そうだ。エレベーターで道を譲られた。トイレが女性用と間違えられた」
「一日で色々あったんですね」
「まあ」
「どう対処しましたか」
「最初は全部『男です』と言っていた」
「でも誰も信じなかった」
「そうだ。みんな『またまた』と笑った。真剣に言っても笑われた」
「……つらくなかったですか」
俺は少し考えた。
「つらいとは思わなかった。ただ疲れた」
「何度言っても信じてもらえないのが?」
「そうだ。ある時から、言わなくなった」
「諦めたんですか」
「諦めというより……仕方ないと思った」
「仕方ない」
「声は変えた。見た目も中性的だ。社員情報に入力ミスもあった。誰かのせいじゃない。そういう状況になった」
「……先輩って、一人で抱えてきたんですね」
美咲が静かに言った。
「まあ」
「誰かに相談しましたか」
「悠斗に話した」
「何て言われましたか」
「『お前が気にしないなら問題ない』と言われた」
「悠斗さんらしいですね」
「まあ。あいつは変に心配しない」
「奏さんには」
「奏は最初から女だと思っているから、特に言わなかった」
「そうですか」
料理が来た。
しばらく食べていた。
美咲が箸を持ちながら言った。
「先輩」
「ん」
「満員電車って、今も席を譲られますか」
「今朝もされた」
「そうですか」
「毎日どこかで女性扱いされる」
「先輩にとってそれは」
「まあ。慣れた」
「慣れた、ですか」
「仕方ない。俺の声と見た目がそうだから」
「嫌じゃないんですか」
俺は少し考えた。
「……昔は少し嫌だった。今はそうでもない」
「なんで変わったんですか」
「……まあ、色々あった」
「会社の人が、ちゃんと受け入れてくれたからですか」
「まあ、それもある」
「他には」
俺は少し間を置いた。
「……お前が、男だと知って同じように接してくれたからかもしれない」
「私が?」
「配属初日に男だと言ったら、少し驚いて、次の日からは何も変わらなかった」
「そうでしたっけ」
「そうだ」
「……覚えてなかったです、そんなこと」
「そうか」
「でも」
美咲は少し考えた。
「先輩は先輩だから、変わらないのは当然じゃないですか」
「まあ、お前にとってはそうかもしれない」
「先輩にとっては違ったんですか」
「……慣れてなかった。変わらない人に」
「そうですか」
「声が変わってから、扱いが変わる人が多かった。良くも悪くも」
「先輩のことを先輩として見てくれる人が、少なかったんですね」
「まあ」
美咲はしばらく俺を見ていた。
「先輩」
「ん」
「私はずっとそうしますよ」
「何が」
「先輩のことを、先輩として見ます」
「……まあ」
「男でも女でも関係ないです」
「そうか」
「先輩は先輩なので」
「……まあ」
「ずっとそうします」
俺は何も言えなかった。
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「本日の会話を記録しました」
「するな」
「手術後の話をしました」
「まあ」
「女性扱いが始まった日の話を」
「まあ」
「美咲に話したのは初めてですか」
「……まあ」
「三日連続で、初めての話をしました」
「……まあ」
「なぜだと思いますか」
「……分かってる」
「保存しました」
「するな」
「それと」
「何だ」
「『お前が変わらずに接してくれたから、慣れた』という発言を記録しました」
「……消せ」
「保存しました」
「第1話からの伏線が回収されました」
「……分析するな」
「保存しました」
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帰り道。
並んで歩いた。
「先輩」
「ん」
「三日間、色々話してくれましたよね」
「まあ」
「新人の頃も、手術の話も、女性扱いが始まった日も」
「まあ」
「なんで話してくれたんですか」
俺は少し止まった。
「……聞かれたからだ」
「でも聞かれても答えない時もありますよね」
「……まあ」
「なんで今は答えてくれたんですか」
俺は少し間を置いた。
「……お前だからだ」
美咲が少し止まった。
「……それって」
「それだけだ」
「それだけ、じゃないと思いますけど」
「……まあ」
「先輩」
「何だ」
「近いうちって、本当に近いですか」
俺は少し笑った。
「……まあ」
「ほんとですよ」
「……分かってる」
美咲は少し、俺の横顔を見ていた。
それから、前を向いて歩き出した。
いつもより少しだけ、近い距離で。
それだけで十分だった。
……本当に、近いうちに。




