第53話 声が変わる前の話
土曜日。
昼。
美咲が「近くにいる」と連絡してきたので、いつもの定食屋で会った。
料理を待ちながら、美咲が言った。
「先輩」
「ん」
「昨日の話の続きを聞いていいですか」
「何の続きだ」
「好きな人の話」
俺は少し止まった。
「昨日話したか」
「話しました。声が変わる前に好意を持った相手がいたって」
「……まあ、少し話した」
「もう少し聞いていいですか」
「内容による」
「どんな人だったんですか」
俺は少し考えた。
美咲の顔を見た。
真剣だった。
からかっているわけじゃない。
ただ、知りたがっていた。
「……大学の同じゼミだった」
「どんな人でしたか」
「普通だ。明るくて、話しやすい人だった」
「先輩から好きになったんですか」
「まあ、一方的に、そう思っていた」
「相手は気づいてなかったんですか」
「……気づいていたかもしれない。少し距離が縮まった時期があった」
「それで」
「ある日、その人が他の人間と話していた。俺がそこにいることに気づかなかったのか、聞こえてしまった」
美咲は静かに聞いていた。
「昨日も少し話したが」
「はい」
「声が変で気持ち悪い、と言っていた」
「……はい」
「それだけじゃなかった」
料理が来た。
俺は少し間を置いた。
「続きがあるんですか」
「まあ」
「聞いていいですか」
「……まあ」
俺は箸を持ちながら言った。
「もう一人が言った。『でもあいつ、お前のこと気にしてるんじゃないの』と」
「……はい」
「その人が笑いながら答えた。『やめてよ、あの声で近づかれても困るし』」
フロアが静かだった。
美咲は箸を持ったまま、止まっていた。
「……先輩」
「悪い人間じゃなかった。本音を言っただけだ」
「でも」
「俺が好意を持っていたのも、向こうはたぶん気づいていた。だから正直に言ったんだと思う」
「……それは」
「まあ、仕方ない」
「仕方なくないですよ」
「美咲」
「仕方なくないです。先輩が傷ついたのに、仕方ないはないです」
俺は少し止まった。
「……まあ、お前が怒ることじゃないが」
「怒ります」
「まあ」
「怒っていいですよね」
「……まあ、お前の自由だ」
美咲はしばらく俯いていた。
それから、顔を上げた。
「先輩」
「ん」
「その後、その人と話しましたか」
「話さなかった。避けた」
「そうですか」
「まあ、そういうことで終わった」
「先輩はその後、どうしましたか」
「部屋に帰って、ずっと黙っていた」
「何を考えてましたか」
俺は少し考えた。
「……この声のまま、誰かに近づいてはいけないと思った」
「……そうですか」
「好意を持たれても、声が原因で終わると思った。だから近づかれても受け取れなくなった」
美咲はしばらく何も言わなかった。
俺も食べながら、黙っていた。
しばらくして、美咲が言った。
「先輩」
「ん」
「私のことも、最初は怖かったですか」
俺は少し止まった。
「……まあ、少し」
「なんで怖くなくなったんですか」
「……声が変わってからも、男だと告げた後も、お前は同じ距離だった」
「はい」
「声が変わっても、変わらなくても、関係ないって顔をしていた」
「……先輩の声だから、当然です」
「まあ、そう言ってくれる人間がいなかったからな」
美咲はしばらく、凛を見ていた。
「先輩」
「何だ」
「変わる前の声も、きっと気持ち悪くなかったと思います」
「……聞いたことないだろ」
「ありません」
「じゃあ分からないだろ」
「分かりません」
一拍。
「でも」
「何だ」
「先輩の声だから、気持ち悪いわけないと思います」
「……根拠がない」
「あります」
「何だ」
「今の先輩の声を聞いていて、それが先輩だから好きだと思うから」
「……それは今の声の話だ」
「でも先輩は先輩です。昔も今も」
俺は何も言えなかった。
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「本日の会話を記録しました」
「するな」
「術前のトラウマを、初めて詳しく話しました」
「……まあ」
「悠斗にも奏にも話していない内容です」
「……まあ」
「なぜ美咲に話せたか、分かりますか」
「……分かってる」
「保存しました」
「するな」
「それと」
「何だ」
「『先輩の声だから気持ち悪いわけない』と言われました」
「……まあ」
「二日連続で同じことを言われました」
「……まあ」
「その意味は」
「……分かってる」
「保存しました」
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帰り道。
並んで歩いた。
「先輩」
「ん」
「話してくれてよかったです」
「まあ」
「なかなか聞けない話だったと思うので」
「まあ」
「でも先輩が話してくれたから」
「うん」
「少し、先輩のことが分かりました」
「そうか」
「人に近づかれると少し怖いんですよね、先輩は」
「……まあ、そうかもしれない」
「でも私には少し慣れましたよね」
「……まあ」
「よかったです」
「何が」
「怖くなくなってくれて」
俺は少し止まった。
「……まあ、お前のせいだからな」
「またそれ言いましたよね」
「……まあ」
「8話でも言ってました」
「……覚えてるのか」
「全部覚えてます」
「……まあ」
美咲はにこっとした。
俺の声が「気持ち悪い」と言われた夜を思い出した。
暗い部屋で、ずっと黙っていた夜だった。
それから何年も経った今。
隣に美咲がいた。
「先輩の声だから、気持ち悪いわけない」と言う人間が、隣にいた。
……まあ。
それだけで、十分だった。




