第52話 声を変えた夜
金曜日。
定時後。
フロアに二人が残っていた。
美咲が資格試験の勉強をしていた。
俺は翌週の作業計画を確認していた。
静かな時間だった。
しばらくして、美咲が言った。
「先輩」
「ん」
「バンドはいつから始めたんですか」
「入社して二年目くらいだ」
「きっかけは何ですか」
「職場の先輩に連れて行かれた。メタルのライブ」
「合いましたか」
「最初はうるさいと思った。でも帰ってからも音が頭に残っていた」
「それで」
「何度か通ううちに、自分もやりたくなった」
「歌いたかったんですか」
「声が出したかった」
美咲は少し首を傾げた。
「声が出したかった、というのは」
「ライブのボーカルが羨ましかった。あんなに全力で声を出せることが」
「当時の声では無理だったんですか」
俺は少し間を置いた。
「……中途半端だった。高くも低くもない。どっちにも振り切れていなかった」
「それがコンプレックスだったんですね」
「まあ」
「バンドを始めた時は、その声でやったんですか」
「最初はそうだ。ただライブで声が届かない夜があった」
「届かない?」
「スタジオでは通るのに、本番の音の中では埋もれた。もっと声が必要だと思った」
「それで手術を考えたんですか」
俺は少し止まった。
「……そのことも、あった」
「そのことも、ですか」
「もう一つ、理由があった」
美咲は静かに待っていた。
俺は少し考えた。
美咲に話すかどうか。
いつもなら「別に」で終わっていた。
ただ今日は、少し違った。
「……大学の時の話だ」
「はい」
「好意を持った相手がいた」
美咲が少し静かになった。
「……はい」
「好意があると思っていた。向こうも俺に、少し。まあ、そう見えていた」
「そうですか」
「ある日、その相手が別の人間と話しているのを聞いた。俺がいることに気づいていなかったのかもしれない」
「何を言っていたんですか」
俺は少し止まった。
「『あいつって声が変じゃない。男なのか女なのか分からないし、正直ちょっと気持ち悪い』」
フロアが静かになった。
空調の音だけが聞こえた。
「……先輩」
「まあ、気づいていなかっただけだ。悪意はなかったかもしれない」
「でも」
「ただ、好意があると思っていた相手が、一緒に笑っていた」
美咲は何も言わなかった。
「その夜から、自分の声が嫌いになった」
「……そうですか」
「それが、声を変えたいと思った最初のきっかけだ。バンドで届く声が欲しかったのは本当だ。でも根っこには、この声のまま続けたくないという気持ちがあった」
「……先輩」
「まあ」
「なんで今まで言わなかったんですか」
「言う必要がなかった」
「でも今日は言ってくれましたよね」
「……まあ」
「なんで今日なんですか」
俺は少し考えた。
「……分からない。ただ言えた」
「誰かに言ったことありますか、この話」
「……悠斗には、手術のリスクの話はした。でもこの経緯は言っていない」
「奏さんには」
「言っていない」
美咲はしばらく俺を見ていた。
「先輩」
「何だ」
「こんな話、私に初めてしたんですね」
「……まあ、そうだな」
「……ありがとうございます」
「別に」
「ありがとうございます」
「……まあ」
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手術を決めた夜の話も、続けて話した。
「声を変えようと決めた翌朝、悠斗に電話した」
「なんて言いましたか」
「手術を受けたいと言った」
「悠斗さんは」
「最初は『やめとけ』と言った。声帯は繊細だから、リスクが高いと」
「それで止まりましたか」
「一週間くらい止まった。でもやっぱりやりたくて、もう一度話しに行った」
「なんて言いましたか」
「『誰にも中途半端と言わせたくない。声だけは、自分で決めたい』と言った」
「悠斗さんは」
「『……お前が決めたならそれでいい』と言った」
「それだけですか」
「それだけだ。それで十分だった」
美咲はしばらく黙っていた。
「先輩」
「ん」
「声を自分で決めたんですね」
「まあ」
「誰かに笑われた声を、自分で変えた」
「……まあ、そういうことだ」
「かっこいいですよ、それ」
「かっこよくない。必死だっただけだ」
「必死なのがかっこいいって、前も言いましたよね」
「そうだったか」
「言いました、51話で」
「……お前は色々覚えているな」
「先輩のことは全部覚えてます」
俺は何も言えなかった。
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「本日の会話を記録しました」
「するな」
「誰にも話さなかった経緯を、美咲に話しました」
「……まあ」
「こんな話、初めてした気がする、と言いましたね」
「……言ったか」
「言いました。覚えていませんか」
「……まあ、言ったかもしれない」
「保存しました」
「するな」
「それと」
「何だ」
「なぜ美咲に話せたか、分かりますか」
俺は少し間を置いた。
「……まあ」
「保存しました」
美咲はテキストに戻りながら、ぽつりと言った。
「先輩」
「ん」
「その人のことは、今でも怒ってますか」
「怒っていない」
「本当に?」
「……悪い人間じゃなかった。ただ、気づいていなかっただけだ」
「でも先輩が傷ついたのは事実ですよね」
「……まあ」
「私は怒ってます」
「お前が怒ることじゃない」
「でも怒ってます」
「……まあ」
「先輩の声、気持ち悪くないですよ」
俺は少し止まった。
「変わる前の声は知らないだろ」
「知りません」
「じゃあ分からないだろ」
「でも」
美咲は少し真剣な顔で言った。
「先輩の声だから、気持ち悪いわけないです」
俺は何も言えなかった。
フロアは静かだった。
監視画面は緑のままだった。
「こんな話、初めてした気がする」
その言葉の意味は、自分でも分かっていた。
美咲だから、話せた。
……それだけのことだ。
いや。
それが、全部のことだ。




