第26話 人差し指の騎士と喧嘩番長
青臭さを僅かに含んだ湿った土の匂いが、冷気とともに鼻腔を満たす。不思議と心が落ち着く。
苔むした大地に、紫色の悪魔シュトレインは立っていた。
自然にできたのか、それとも誰かの手によって作られたのか判然としない。見上げる先に巨大な岩柱のアーチが聳え立つ。
周囲に目をやると、苔の下からところどころ白く朽ちた骨片が覗く。折れた武器や破損した防具など、戦いの傷跡が大地に刻まれている。
片側の岩柱の根元には、岩を彫り抜いて造られたような古びた建造物が佇む。大きく口を開けた入り口へ向かって伸びる、苔に覆われた長い石段。誰かが何度も歩いたのだろう、階段には苔が擦り減った一本の道筋ができ、石肌が剥き出しになっている。
シュトレインの視線は、ただ一点に釘付けになった。
建造物の入り口から、それらは姿を現した。
シュトレインの姿を見ているのかどうか分からない——なぜなら顔がない。
悠然と石段を降りてくる。一段、また一段と、距離が縮まる。
「アレ如キノ、タカダカ十万ノ群レスラ倒セヌ弱者ガココニ来ルトハ、何ト腹立タシイ」
黄金の甲冑が全身を覆い、首回りには白い毛皮。肩から金糸の刺繍が施された黒茶色のマントを背中へ垂らしている。甲冑の上からでも、目の前の異形の筋肉質な体躯が窺える。
そして、一番目を引くのが——頭部そのものが人差し指だった。
目も鼻も口もない。指の第一と第二関節、顔面にあたる指の腹には指紋が見えるだけ。これを顔と言えるのかどうか疑わしい。だが、先ほどの言葉が、明らかに彼から聞こえたのも事実だ。
そんな外見よりも、シュトレインの本能が激しい警鐘を鳴らしている。彼の心の臓が早鐘を打ち、拳を必要以上に握りしめていた。
その外見を双眸に収めた彼の感想は——息苦しい。
人差し指の異形が一段降りるたび、彼の足も一歩後ろへ下がる。本人の意思とは関係なく。
「オレハ、人差シ指騎士団ノ副団長ヲ務メル、レチェ・フラン。我ラガ団長、ギナタン様カラ、オマエ宛ニ言伝ヲ預カッテイル。心して傾聴セヨ」
レチェ・フランの言葉に、シュトレインは言い返そうと口を開こうとするが、なぜか言葉にできない。
——怖い。
——恐い。
——こわい。
キャラメル騎士団斥候部隊隊長としての矜恃など、もはやシュトレインの中には残っていなかった。
彼の気持ちを無視し、人差し指騎士団の副団長は言葉を続ける。
「弱者ノ分際デ我ラガ領域ニ足ヲ踏ミ入レタコト誠ニ不愉快。ヨッテ即座ニコノ場デ処刑ヲ実行致ス。
以上ダ。何カ言イ分ハアルカ弱者ヨ」
……。
レチェ・フランの背後には、異なる色の甲冑を纏った人差し指の騎士が二体控えている。その一人に向かって、落ち着いた声で呼びかけた。
「ウベアイス」
ただ、その一言だけだった。その言葉だけで、シュトレインの心は折れた。彼は、脱兎の如く逃げ出した。
叫び声を上げながら——情けないほど。
転びそうになりながらも、一心不乱に。
次の瞬間、シュトレインのいた場所には、鈍い金属光沢を放つ藤色の甲冑を纏うウベアイスがいた。剣を振り下ろした姿勢のまま。シュトレインの姿はどこにもない。ウベアイスの足元には、苔むす大地に散乱する細切れの肉片だけ。
レチェ・フランは、侵入者の魔核が破壊されたのを確認すると、呆れたように喋る。
「シカシ、ココマデ弱イトハ驚キダ。ドウヤッテ、コノダンジョンニキタ?」
レチェ・フランは、シュトレインが現れた方角へ顔にあたる指の腹を向ける。
「今ハ上ニデキタ新シイダンジョンノセイデ、出入リガデキナイハズ……」
僅かな沈黙。
「上ト繋ガッタカ?」
彼は遥か頭上にあるダンジョンの天井へ指の腹を向けたまま、僅かに思案する。
「取リ敢エズ、弱者排除完了ノ旨ヲ団長ニ報告ダ」
レチェ・フランは振り返り、一段上の階段に片足をかけたところで止まった。
「強者ト、戦イタイ」
彼は顔のない人差し指の頭部で、天を仰いだ。
***
微かな風に運ばれて桃色の花弁が虚空をゆらゆらと泳ぐ。静かに降り積もった花屑が、見渡す限り大地を桃色に染め上げていた。
見上げると、満開に咲き誇る——巨大な桜の大樹。
先ほどまでの光苔に照らされた薄暗い空間ではなく、今は木漏れ日の温もりが降り注ぐ。花弁や枝の隙間から零れる光が、地面に柔らかな陰影を揺らしていた。
「ここがいづこなるや知らずとも、油断することなかれ。警戒、怠るべからず」
ワプも眼前の情景に見惚れながら、魔力感知で周囲を探っていた。対して、彼が教育する二魔は、眼前の光景にすっかり心を奪われている。
「超マジで綺麗なんですけど」
「そうね」
ガガムートの言葉にイビルガードが相槌を打つ。その掌に、一片の花びらがふわりと舞い降りた。
「なんだか、儚いわね」
イビルガードの掌にあった花びらが、柔らかな風にさらわれていく。
突然、突風がワプたちを襲った。
桜の花弁が舞い上がり、視界を覆う。
強烈な風切り音が、周囲の音を遮る。
やがて強風がおさまり舞い散る花弁の幕、その隙間から先ほどまで存在しなかった建造物が姿を現した。
真っ直ぐに切り出された灰白の石壁。装飾の類は一切なく、異様なまでに均整のとれた造り。同じ大きさのガラス窓が、一定の間隔を空けて横一列に並び、陽光を反射している。門の向こうには、建物に沿って広がる、固く踏みしめられた土の広場。
そして気づけば、ワプたちはその門前に立っていた。
「そなたら、ただちに退け。絶死の概念の術を用ゐる。こやつらを討ち果たし次第、後れて参らんゆゑ、我を待つには及ばず。振り返らず、疾く行け」
ワプは捲し立てるように二魔に告げた。
彼に何かを問うこともなく、イビルガードとガガムートは踵を返し一目散に逃げた。
広場の中央には、二体の魔物がいた。
ワプの膝が震え、黒い胴鎧がかたかたと音を立てている。
それでも彼は即座に鑑定する。
——レベル……百六十。
——二体とも……。
すると、二体のうちの一体が一歩前へ出た。
「ネオラル城東高校ぉぉッ! 番長ぉぉ! 鈴木ぃぃィ、チェルルルルィィィィーパァイィッ! 夜露死苦ぅぅ!」
巻き舌で名乗ったのは、黒いリーゼントのムウオである。
膝下まである黒の長ランに、黒のボンタン。学生服の前は開け放たれ、はちきれんばかりの大胸筋と腹直筋が剥き出しになっている。そして、ズボンの裾から伸びる鳥足。
もう一体の魔物も一歩前へ踏み出し、鈴木チェリーパイの横に並び立つ。
「ご挨拶させてください。皆さんにメロンを大量にお届け。いつでもメロメロメロン、ライトグリーン担当、ネオラル城東高校のスケ番、メロン・ザ・ハートです」
彼女は胸の前で、両手でハートマークを作る。
若草色の肌に、白いハイレグのボディスーツ、そして肩や腕には同色の装甲を纏う。腰から伸びたガーターベルトは白い網タイツへと繋がり、足元には踵の高い白いアンクルブーツ。
そして、何より異様なのはその頭部。
丸々と実ったメロンそのものを思わせる姿でありながら、そこには人と変わらぬ整った顔立ちがある。美しさの中に、どこか可愛らしさを残した顔だった。頭頂部からは短い蔓が伸び、その先に二枚の葉をつけている。
その肢体は女性らしい曲線を描き、異形でありながら奇妙な妖艶さを漂わせていた。
「せーの!」
「メロローん!」
メロン・ザ・ハートの合図に合わせ、鈴木チェリーパイが声を張り上げる。
ワプはその一連の光景を、黙って見ていた。
「……あんたねぇ、こっちが自己紹介したんだから何か言いなさいよね」
——あやつら、効果の及ぶ範囲より出でしやうなり。
——死無効の技能持つ者すら必ず屠る、術。
ワプはすかさずスキル名を声にする。
「絶死の概念」
……。
「これは……」
鈴木チェリーパイは、何かを咀嚼するように口元を動かす。
「何ゆゑ死なぬ。術は発動しておるはず……何ゆゑだ」
「この味、テメぇぇ”、死のスキルを使いやがったなぁぁ」
チェリーの声は怒りを押し殺すようだった。
「いきなり攻撃して、タダで済むと思っちゃいないだろ”ぉぉーねぇ”ぇ”!」
いつの間にか、鈴木チェリーパイのリーゼントがワプの顔に触れんばかりの距離にあった。
ワプは微動だにせず——硬直していた。
「……絶死の概念ってスキルかぁ。しゃべぇことしてくれるねぇ、あ”あ”ぁん! 大将!」
「あんたね、名乗りもせずにいきなり攻撃するなんて馬っ鹿ぁじゃないの!? まずは名乗りなさいよ!」
「オマエ何処のもんなんだぁ、あ”あ”ぁん! ど・こ・の・もん、何だぁ?」
額をワプに押し付けながら、睨み付ける。
「……これは失礼仕った。我が名はワプ、キャラメル騎士団所属。キャラメリゼ様の眷属なり」
ようやく絞り出した声は、所々震えていた。
「やっと名乗った。話の通じないクレーマーかと思った。で、この落とし前、どうつけるつもりなの、ワプさんさぁ?」
「このケジメ、どうつけるつもりぃ? あ”あ”ぁん!」
——何ゆゑ術の効かざりしか。
——死の概念を用ひしこと、露見せしや。
——いづれも覚束なき事のみなれど、現実改変にて決着をつけん。
ワプは間合いを切る。
「消滅するがいい。現実改変!」
「テメェ……」
オウムの嘴が、何かを咀嚼するようにもぐもぐと動く。
「何ゆゑ何ひとつ改まらぬ。なおも在り続くとは……」
そして、彼は一つの答えに辿り着く。
「こ奴、術を喰らひおるか!」
「また、不味いもん食わせやがってぇよぉ”ぉ”! お茶目やらかしてぇ”ぇ”、どうケジメ取るつもりだぁ”ぁ”。あ”あ”ぁっ!」
「チェリー、もうこいつヤッちゃいなよ。あの面に穴開けて、二度とスキル使えないようにしてやんな」
「そうだな、メロロんの言うとおりだな」
鈴木チェリーパイは、左右の拳を反対の手で握り、交互に関節を鳴らす。そして、右の拳に息を勢いよく吐きかける。
「これし効かずば我が命運も尽きなん。レベルの共鳴」
「上等やノォ、オレとタイマンはるってかぁぁ”! ボンタン狩りじゃぁぁ!」
レベル百六十となったワプが、鈴木チェリーパイへ突進し、巨大なはさみで挟もうとするが、簡単に躱される。背中に生える八本の蛸足が殴打するように攻撃する。しかし、腕で払い除けられる。
ワプは間髪入れず、巨大なはさみを横薙ぎに振るう。鈴木チェリーパイは上体を僅かに反らすだけで、その一撃を躱した。
続けざまに迫る蛸足の一本を前腕で受け流し、その勢いを利用するように身を翻す。残る蛸足が空を切った。
ワプが踏み込んだ瞬間には、鈴木チェリーパイはすでに死角へ回り込んでいた。
「何ゆゑ、当たらぬ」
「渋いね、大将。レッサーパンダの霊にでも取り憑かれてんじゃねぇのかぁ”! あ”あ”ぁん!」
ワプの怒涛の攻撃。それを冷静に鈴木チェリーパイは捌いていく。
——力入らずなり、こ奴の術か。
——魔力も不自然なるほど減ずる。発動の条件、いかにぞ?
——受けし攻撃の数か、戦闘の継続時間か、もしくは両なるか。
そして、徐々に劣勢になっていくワプ。
メロン・ザ・ハートは腰に手をあて、二体の戦闘を眺めながら一人呟く。
「チェリーのスキル効果が出てきたようだね」
よろめき始めるワプ。
彼女は誰に聞かせるでもなく、チェリーに挑む侵入者を眺めながら、スキルの効果を口にする。その声はワプには届かない。
「攻撃を受けるたび、チェリーに直接の接触による攻撃を防がれるたびに、力、魔力、生命力、徐々に落ちていく攻防一体のスキル。気づいた時にはもう手遅れよ。さぁ、どうする?」
ついにワプは地面に片膝をつく。
「これは叶わぬ、勝ち得ぬなり」
その姿勢のまま、踵を返し二魔が逃げた方向へ駆け出す——見えない柔らかい壁に阻まれた。
「ワレ、なに逃げようとしとんじゃコルルア”ァ”! 正々堂々タイマンはらんかぁい!」
「無駄無駄」
顔の前で虫を払うように手を振るメロン・ザ・ハート。
「タイマンスキルが発動しているから、一度チェリーとタイマンはったら逃げるのは無理だよ。でも、安心しな。第三者がタイマンに参加することもできないからさぁ、気張りなよ」
彼女は、弱いくせに喧嘩を吹っかけた哀れな者を見るような目をしていた。
「もはや力入らず、立つのみやっとなり。絶死の概念効かず、現実改変も通ぜず、レベルの共鳴も徒に終わりぬ。これ、覚悟を定むるほかあるまじ」
「しゃばい、しゃばい。はっはっはは、はっはっはは!」
鈴木チェリーパイの笑い声が響く。
「もう飽きたわ。メロロん、オメェがとどめを刺すか?」
「弱い者いじめは嫌いだけど、いきなり攻撃してくるわりにヘタレ野郎だったし……一撃で殺してあげる」
「ここにて汝ら最強なるか。されば致し方なし。強者に敗るるは、武士の誉れなり」
二体の魔物が顔を見合わせる。
そして一瞬の沈黙。
……。
盛大に声を張り上げて同時に笑い始めた。
彼女は涙を流しながら笑う。
「あっはははは! 何をおっしゃる兎さん」
何が面白いのか、彼女は目元を拭いながら話す。
「あっはははは! あんた面白いね。ここは魔神ネオラル・オファージが封印されしダンジョンだよ。私たちが最強なわけないじゃん」
「魔神、ネオラル・オファージ?」
「えっ、あんたガチで何も知らないでここに来たの? そういえばこのダンジョンの入り口が塞がれてたと思うのだけど、あなたどうやってここに来たの?」
「メロロんには言ってなかったか。ベルティオの仕業だ」
「えっ、あいつの? それは、珍しいね」
「魔神ネオラル・オファージが封印されているとはいえ、ここは初心者しか入れないよう制限されている。……にしても、コイツ弱すぎだろ。喧嘩の技術が全くねえ、どうなってやがる」
「私たちは最強じゃないけど、魔神を除けば上位四体に入るから、強者って事には間違ってないね」
学校のチャイムが鳴る。
「下校の時間か」
鈴木チェリーパイが呟くと、メロン・ザ・ハートは死の宣告をした。
「じゃ、死んで頂戴」
「無念」
彼女が胸の前で両手を合わせ、ハートマークを作ると、
「城東高校の可愛い担当。メロン・ザ・ハートの、メロメロビーム!」
前方の広範囲へ、高エネルギーが勢いよく放出された。ワプは一瞬にして光の奔流に呑み込まれ、焼失した。
「先に逃げた奴らを追いかける? どうする?」
彼女の言葉に、チェリーは興味なさげに答える。
「あの程度なら遅かれ早かれ、いずれ死ぬだろうよ」
「そうね」
二体の魔物の視線の先、門の外には巨大な桜の大樹が連なっている。微かな風に乗り、桃色の花びらが静かに舞っていた。




