第17話 遊戯
夢現か幻か。
学校で聞き慣れたチャイムの音色。
授業開始前の喧騒。
高校生活を謳歌する学生たちの会話が盛り上がり、笑い声が飛び交う。
なのに、音は聞こえない。
クラスメイトの男子たちが窓に駆け寄り、外に向かって指を指し始めた。
街から火の手が上がり、女子たちは叫び声を上げている。
今はまだ朝の時間帯なのに何故か空が暗い。
何かの影になっているようだ。
上空には、街を覆うほどの巨大な飛行物体。
オレは、一学年下の妹——百合の手を握り走って逃げている。
お互い学生服のまま、街を駆け抜ける。
透明の何かが街の人々を襲い、黒い球体が次々と呑み込んでいく。
街の人たちの阿鼻叫喚が木霊する。
妹と近くの山にある神社へ逃げ込んだ。
奴らがやってきた。
百合を拝殿の縁の下に隠し、オレは声を上げ囮になって走り出す。
鳥居をくぐった瞬間、足元に魔法陣が現れた。
目の前には国王と、今と姿が異なるキャラメリゼ。
そして、映像が暗転した。
宇宙の概念が漂うような夢幻へと意識が溶けていく。
空間そのものが自我を持ったような。
数億年という時が駆け抜けていく。
なんの前触れもなく、概念が「戻りたいか?」と問いかけてきた。
だから、オレは答える……。
次の瞬間、意識が爆ぜるように飛翔した。
光、光、光。
爆発的な閃光が視界を白く染め上げた。
網膜が焼ける痛みに、思わず顔をしかめる。
泥のような重さが、四肢に、瞼に、圧しかかる。
「おいてめえ、いつまで寝腐ってやがる。とっとと起きろ」
その声で、悪魔オルフェルは弾けるように飛び起きた。
目の前に仁王立ちの紫色の悪魔。横柄に腕を組んでいる。
一瞥と同時に間合いを切る。紫の悪魔を睨み据え、臨戦態勢をとった。
魔力感知で敵を捉えながら、視線だけを横へ逸らす。
視界を覆い尽くす静謐な白亜の大広間に、思わず目を奪われた。
澄み切った空気が凛と満ち、透き通った光の粒が煌めきながら泳ぐ。その幻想的な光景には、穏やかな温もりが宿っていた。
広間を支える四本の太い白亜の円柱には、精緻な天使の高浮彫が施され、今にも羽ばたきそうな生命感を宿していた。
黄金の蔦が柱を伝い、天井からは見たこともない色彩の花々が、甘い香りを振りまきながら枝垂れている。
最奥へと続く純白の絨毯。
純白の階を数段隔てた先に一本の巨大な聖樹。そこから伸びた根が幾重にも絡みあい、玉座を形作っていた。
それに、背を預ける者がいた。
巨大な羅針盤を背後に滞空させるキャラメル王国の女王。
「おはよう。私の愛おしい子供」
キャラメリゼの慈愛に満ちる眼差しが濃紺の悪魔へと向けられていた。
女王の側には、壮年の濃い褐色肌の宰相ガーネット・コンプリメンタ。そして、蒼い甲冑を纏うキャラメル騎士団団長のヴォイスが控えていた。
階の一番下に控えるのは、炎の尾を持つ狼のような下半身と、炎の髪をなびかせる女性の悪魔。
「あなたは合格よ」
合格? 何に対してだ。
周囲には見たこともない悪魔たち——しかも、常識の埒外の化物ばかり。
兄弟たちもいるが……。
悪魔オルフェルは、ふっと鼻で笑った。
「レベル一のままなのに数ヶ月も生き延び、ライトプスまで倒すなんて素敵だわ」
「喜ぶがいい。キャラメリゼ様が貴様の存在を認めると仰せだ」
キャラメリゼの言葉を補足するように、ガーネット・コンプリメンタが厳かに告げた。
「ヴォイス団長、あなたにこの子を預けるわ。将来有望な特殊個体だから、直々に鍛えてあげなさい」
「畏まりました。キャラメリゼ様のご期待に添えるよう、立派な悪魔騎士に育ててみせます」
ヴォイスがゆっくりと階を降りながら、こちらへ歩み寄ってきた。
蒼い甲冑が擦れる硬質な音が、静まり返った玉座の間に冷たく響く。
足が地を踏むたび、絶対的な強者だけが纏う威圧感が微かに漂う。
「その前に、キャラメリゼ様。この個体の名付けをしませんと」
頬から顎にかけて赤い獅子の鬣のような長髯をさすり、宰相ガーネットは思慮深げに目を細めた。
「命名の儀は終えましたが、名もなき弱いままですと、騎士団の規律を叩き込むにも不都合がございましょう」
「そうね。そうしたいのだけど、名前は既に持っているみたいね」
「なんと! 命名の儀を経ずに名を持ったというのですか。……どうやって?」
女王の鑑定結果を聞いた宰相は、目を見開き驚きを隠せなかった。
階を降りきったヴォイスが濃紺の悪魔の前で立ち止まると、見上げるほどの体躯から落とされる影がその全身を飲み込んだ。
「キャラメリゼ様、こやつの名を何というのですか?」
低音と中音が重なった、腹に響く重厚な声。
ひとりの声でありながら、二体が同時に語っているかのような異質な響き。
兜の隙間から覗く双眸は、底冷えするような蒼い燐光を湛えていた。
「オルフェル」
「な、なんと!?」
女王の言葉に再び宰相は驚きの声を漏らした。
「ほんと、なんて不愉快な名前なのかしら、ね」
「誠におっしゃる通りで御座います。思い出すだけで腸が煮えくり返しますわい」
感情が昂ったガーネット・コンプリメンタの魔力が暴力的に迸る。
静かな玉座の間を、一瞬にして暴力的なまでの重圧が塗りつぶした。臓腑を直接掴み上げられるような錯覚。
悪魔オルフェルを捕らえた斥候部隊隊長のシュトレインの表情が歪み、宰相から漏れ出た魔力に後ずさる。
濃紺の悪魔も他の悪魔たち同様、魔力の圧に当てられ恐怖が身体を突き抜ける。怖気に支配された精神が拒否反応を示すかのように、肺から空気が押し出され、呻き声が白亜の大広間に広がった。
しかし、その魔力の渦中で団長のヴォイスと副団長のデモンルフは泰然自若としていた。
ヴォイスは凄まじい魔力の圧を真正面から受け流し、恐怖に縛られた濃紺の悪魔の様子を観察するように首を傾げる。
「宰相閣下、そう昂られますな。魔力を漏らすとは、貴公らしくもない」
ヴォイスの冷徹な声が、暴力的な魔力の圧を切り裂いた。
ガーネットは「ワシとしたことが」と呟くと、ようやく荒ぶる魔力を霧散させた。
「そうね、ガーネット。あなたらしくもなかったわね」
「キャラメリゼ様、大変申し訳ございませんでした」
「いいのよ。あなたの気持ちは痛いほどわかるわ」
過去を思い出したかのように、女王の双眸の奥で、一瞬だけ憎悪の炎が激しく揺らめき、そして消えた。
まるでお気に入りのドレスについた埃を払うかのように、彼女の関心はすでに過去から離れ、宰相の圧に震える濃紺の悪魔に向けられていた。
「特例だけど、あなたに今から新しい名前を授けるわ」
「お待ちください。上書きはキャラメリゼ様の身体にご負担が——」
宰相の言葉を遮るように片手をあげ、聖母にも似た清冽な笑みを浮かべながら、静かにそれを制した。
「あなたの言うとおり、魂に根付いた名前の上書きは魔力を相当使うからあまりやりたくないのだけど、愛しい我が子のためよ。そのためなら——」
「それは必要ない」
玉座の間は水を打ったかのように静まり返った。
一気に緊張が高まる。誰一人として、一言も発せられない。
「オレの名前はオルフェル。既に名はある」
……。
キャラメリゼの周囲が歪んだ。
どろりと澱んだドス黒い魔力が、決壊したダムのように白亜の大広間を一瞬で埋め尽くす。
猛る魔力を直近で浴び、側にて控えていた宰相のガーネット・コンプリメンタが膝から崩れ落ち、掌が地に着く。
階段下の白亜の床にいた団長のヴォイスと副団長のデモンルフの膝が激しく笑う。だが、二魔は崩れない。
濃紺の悪魔や他の悪魔たちは地に平伏し、喉の奥から喘ぐような呻き声が溢れ落ちていた。
「現実改変」
その言葉を合図に、暴力的に荒ぶる魔力が一瞬にして消えた。
「キャラメリゼ様、どうか御心をお鎮めくだされ」
艶やかな唇の隙間から、溜息が静かに漏れ落ちる。
「ありがとう、ワプ。……落ち着いたわ」
「それは重畳にございます。されど、母上の魔力を無断にて消失せしめましたこと、深くお詫び申し上げます」
「気にしなくてはいいわ」
先ほどの邪悪な淀みが嘘のようになくなり、澄み切った大気が凛と満ちていた。
だが、多くの悪魔たちはいまだに地を這っていた。濃紺の悪魔も例外なく。
ゆっくりと立ち上がった宰相の表情は怒りで歪み、この事態を招いた悪魔に鋭い視線で射抜く。そして、氷の切っ先のように鋭利な言葉を放った。
「キャラメリゼ様、この無礼者の処分なら是非ワシにお任せを」
「そうね……」
女王は静かに目を細めた。
「本人が受け入れないと上書きができないのよね」
女王キャラメリゼの端正な顔が、徐々に怒りに満ちた表情へと変化していく。
「あー! 不便だわ。不快だわ。不愉快だわ。不条理だわ。愛を注いだのに、どうして。あー、腹立たしい!」
歪みきった貌のまま、宰相の名を静かに呼ぶ。
「畏まりました」
玉座に深く腰掛ける女王に一礼をしたのち、濃紺の悪魔を睨む。
「——馬鹿な。ワシの精神支配が……弾かれた?」
ドス黒い魔力から立ち直った悪魔たちの間に、どよめきが起きる。
「そう、厄介ね」
怒りで歪んだ貌が突然、慈愛と悲哀に満ちた顔へと変わる。
「どうやらあの人間の影響を受けたようね。私の愛しい子はもういないのね。悲しいけど、母として決断しないといけないわね」
……。
「要らないわ。ヴォイス」
団長の名が呼ばれた瞬間、悪魔オルフェルの背後から蒼い剣が振り下ろされた。
「ほう、面白い」
剣が体を擦り抜けていた。
次の瞬間、濃紺の悪魔の体が勢いよく地面に飲み込まれ姿が消えた。
白亜の大広間の床を下へ下へと擦り抜け、階下の空間へと飛び出した。
悪魔オルフェルが生まれた場所——闘技場。満天の星空を背景に、濃紺の悪魔は上空千メートルから落下していた。
分厚い風の壁が下から体を激しく打ち続け、鋭い風切り音が鼓膜を揺さぶる。
眼下には模型のように小さい円形の闘技場。
星の光で地上が照らされ、闘技場の周辺には森が広がっていた。
「ここは城の中ではないのか?」
そういえば、ここは城塞騎士ペンタードの顔の中だったか。
しかし、魂魄眼の突然の反応に驚いたが、まさか宰相が精神支配をしようとしていたとはな。
ヴォイスもさすが騎士団長を名乗るだけある。あの攻撃は反応すらできなかった。
キャラメリゼが「要らない」と言った瞬間に、反射的に透過を使ったのが正解だったな。
しかしだ! あいつらの能力の高さは化物すぎるだろ。
敏捷マッハ百八十ってなんだよ。
絶死?
現実改変?
——どうやって勝てっていうんだ。
出鱈目すぎるだろ。
とくに、キャラメリゼのあの能力は発動されたら絶対に勝てない。
どうすればいい……。
……。
闘技場の石畳に悪魔オルフェルの影が落ち始めた。
ようやく地面か。
「かなりの時間のロスだ」
闘技場の地面に両足で着地した瞬間、巨大な白い扉へ縮地で突進する。
そして、透過で擦り抜ける。
透過を解除すると同時に、再び縮地で間合いを切る。
兄弟たちと歩いた、金と銀の絢爛たる装飾が施された巨大な大理石の通路。
あまりの速さに、瞬き一つの間で景色が消し飛んでいく。
出口と思しき狭間も擦り抜け、夜が支配する外の世界へ飛び出た。
再び、地面へと落下し始める。
眼下に広がる森の先には、広範囲に覆う白亜の円蓋。
そして、城塞騎士ペンタードの巨大な脚。
「まずは勇者が言っていた三人に会わないと」
大地に足が着いた瞬間、迷うことなく森を全速力で駆け抜けていく。
白亜の玉座の間。
大広間の空中に、森を駆け抜ける悪魔オルフェルの姿が立体映像のように映し出されていた。
「あらあら、あの子は鬼ごっこがしたいようね。母としてその気持ちを汲み取ってあげないといけないわね。あー、なんて私は慈悲深いのかしら」
「きっと不良息子も感涙し、感恩戴徳することでしょう。キャラメリゼ様の慈愛を独占する彼の者に、このガーネット・コンプリメンタ、嫉妬を覚えましたぞ」
「ふふ、本当に困った人ね」
キャラメリゼは愉しげに喉を鳴らし、空中に浮かぶ愛しの我が子の映像へ向かって指を伸ばした。
その爪が悪魔オルフェルの小さな体をなぞるように動く。
慈愛を口にしながらも、その瞳には逃げ惑う獲物を愛でる捕食者の悦楽が、じっとりと滲んでいた。
「最後に子供の我儘に答えてあげるのも、親としての務めだわね。……ペンタード」
「ペン、タード」
突然、低く重厚な音響が地面を微かに揺さぶった。
その響きは重厚で、機械的な冷たさを帯びながらも、生物の咆哮のようにも聞こえた。
まるで宇宙の深淵から届く異次元の音。
「冒険者スタンピードをお願いするわ」
「おお! ペンタードの冒険者スタンピードを見るのは数百年ぶりですな。これは楽しくなってきましたぞ」
愉悦に声を震わせる宰相の双眸には、無邪気なまでの加虐心が宿っていた。
女王の言葉に応えるように、再び地面が微かに揺れ重厚な音が白亜の大広間に響いた。
その響きとともに、巨大な開口部が大きく開き、S級冒険者の大群が勢いよく飛び出す。
世界最高峰の英雄、最強の魔法使い、大賢者、伝説の戦士。元の世界では化け物と呼ばれた様々な職業のS級冒険者たち。
一人ひとりが一国を滅ぼし得る武勲の持ち主でありながら、その瞳に宿るのは英雄の矜恃ではない。命令を完遂することだけを目標とした、機械的な殺意のみ。
音速の壁を食い破る英雄たちの群れ。
巨大な死の奔流が、森を揺るがす衝撃波となって大気を震わせる。
あまりにも過剰で、あまりにも無慈悲な英雄の津波であった。
「十分後にデモンルフ、あなたも向かいなさい。徹底的に恐怖を与えてから殺しなさい」
「畏まりました。キャラメリゼ様に楽しい鬼ごっこをお届けいたします」
「ええ、お願いね」
キャラメリゼは、鈴の音を転がすような穏やかな声で応えた。
両の掌を合わせ、屈託のない笑みを浮かべた。
そして、立体映像の傍らで刻まれる十分のカウントダウンへ視線を向けた。
「キャラメリゼ様。鬼ごっこをさらに愉しめる案を思いついてしまいました」
ガーネット・コンプリメンタの表情に加虐的な笑みが浮かんだ。
「どんな案かしら?」
「魂に根付く恐怖を与えるため、斥候部隊隊長シュトレインを含め、新魔たちと教育係も遊戯へ参加させては如何でしょう?」
「それ、面白そうね!」
掌を打ち合わせ、首を傾げながら爛漫な笑みを浮かべる。
主人であり、母親でもある女王からの無邪気な許可は、抗いようのない絶対の神託となった。
逆らうことなど微塵も許されない。彼女の期待に応えることが、この場に集った人形たちの唯一の存在理由。
「シュトレイン、カウントダウンが零になったらあなたも向かいなさい」
「畏まりました。数字が零になった瞬間、ただちに」
「ヤフル、ワプ、ミュート、あなたたちは担当している新魔を連れて、あの子の遊びに付き合ってあげなさい。あの子も兄弟が参加したらきっと喜ぶわ」
「畏まりました。このワプ、御楽しみいただくべく、粉骨砕身の覚悟にて臨む所存なり」
「ジャッジャッジャッジャッ。このヤフルも、ザームクーヘン、ナイーヴとともに見応えのある遊戯をお届け致しますじゃ」
「畏まりました。このミュートと愉快な仲間たちが、楽しいショーをお届けしますわ」
狂気を孕んだ愛という名の蹂躙が、今まさに幕を開けようとしていた。




