第14話 継承
輪郭のぼやけた、色彩の乏しい水彩画のような光景。
古びたフィルムの映写機が不規則に回るように、断片的にシーンが切り替わっていく。
神社の社に妹の百合を押し込み、木製の扉を閉めた。
僕は妹に向かって「必ず迎えに来る」と言っている。
だが、その言葉に音はない。欠片さえも。
妹は声を押し殺し、頷きながら泣いている。
音にならない「お兄ちゃん」という言葉が、妹の口元だけを震わせた。
目に見えない侵略者たちを引き付けながら、僕は逃げる。
鳥居をくぐった瞬間に、眩い魔法陣が足元に現れ、目の前が白に染まった。
座禅を組み、瞑想に沈むように眠っていた勇者が、すっと瞼を開く。
僕は、夢を見ていた、のか。
……魔鋼ゴーレムでしかない僕が、か。
僕は、亡き勇者オルフェルが残した記憶の記録。
その記録が、夢を見る……か。
「瞑想は終わったのか?」
ふと声が聞こえ、視線を向けると、剣の素振りを行う濃紺の悪魔がいた。
濃紺の皮膚には、じわりと汗の粒が浮き上がり、隆起した筋肉の溝をなぞるように流れ落ちていく。
踏み込むたび、微かな熱気が陽炎のように揺らめいた。
「おはよう」
勇者の挨拶に、濃紺の悪魔は無言で返した。
「夢を見たよ。懐かしく、遠い記憶のね」
「おまえ、ゴーレムだろ。ゴーレムなのに夢を見るのか?」
「そうなんだよ。記録でしかないゴーレムの僕が夢を見るなんて、驚きだよ」
結跏趺坐を解き、淀みのない動作で立ち上がった。
「君と出会ってから、僕の毎日が変わったよ……ありがとう」
静寂に包まれた広大な空間に、勇者オルフェルの穏やかな声だけが溶けていく。
向けられた真っ直ぐな言葉に、濃紺の悪魔は一瞬だけ剣を振る手を止めた。
だが、すぐに鼻で笑う。
再び濃紺の腕をしならせ、鋭い風切り音を鳴らす。
その横顔には、少し困ったような、それでいてどこか満足げな色が浮かんでいた。
「弱かったオレが、ここまで強くなれた。オレこそ、おまえに感謝する」
「前世であれほど敵対していた悪魔から感謝される日が来るとはなね。ましてや、修行をつけるなんて」
勇者オルフェルが虚空に指をかけ、なぞるように人差し指を下へ引く。
薄紙を裂くように、空間に漆黒の線が走った。
「君に、これをあげるよ」
そこから引き抜かれたのは、剣身が虹色に輝く、神秘的な宝石のような一振り。
濃い紫色の柄。鍔と柄頭は金色に輝いていた。
「これは……」
勇者オルフェルが使用していた剣。
光の角度によって色彩が繊細に移ろう。
「君に、これをあげるよ。魔鋼と虹煌石で作った剣。名は——虹降り」
濃紺の悪魔が手に持つ、無骨な剣とは大違いだった。
無駄な装飾を削ぎ落としたその無骨な剣を、地面に置く。
渡される剣を、片手で無造作に掴むつもりだった。
だが、無意識に両の掌を天に向け、受け取っていた。
「魔力を通してみな。少しでいいよ」
オルフェルに言われるがままに、虹降りに魔力をわずかに込めた。
剣身から七色の光が漏れ出す。
幾重もの虹の膜が、刃の周囲に重なり始めた。
まるで、世界の解像度そのものが凝縮されたかのようだった。
「……綺麗だ」
それは、嘘偽りのない濃紺の悪魔の呟きだった。
「君のような才能が前世の僕にもあれば、大切な人たちを失わずに済んだんだけどな」
その言葉に含まれた、あまりにも重い悔恨に、濃紺の悪魔は息を呑んだ。
ただ静かに、授かった剣の重みを心に刻みつける。
「すべてを君に伝えた。思い残すことはないよ。では、継承を始めようか」
「オレは、立ったままでいいのか?」
「君はそのままでいいよ」
勇者は、濃紺の悪魔の額に人差し指を軽く押し当てた。
次の瞬間——。
濃紺の悪魔の意識が暗闇の中へと沈んだ。
濃紺の悪魔の脳内に強引に映像が流れてくる。
マンション群の合間にビルが混じる街並み。
飲食店や娯楽施設。
友人や家族。
恋人。
写真をめくるように、次々と脳内に映し出される。
(これは……)
街から火の手が上がり、街の人たちの叫び声が木霊する。
上空には、円形の巨大な飛行物体が静止している。
妹を社の中に隠し、彼は囮となって奴らを引きつけた。
鳥居をくぐった瞬間、足元に魔法陣が現れた。
魔法陣から眩い光が周囲を照らす。
(オルフェルの記憶?)
人間の国のとある城内。
目の前に女神と名乗る人物と、人間の王が姿を現し、彼を「勇者」と呼んでいる。
(この女神は、母さん。人間の王は宰相……)
世界が魔王の脅威に晒されているため、異界から呼び寄せたという。
女神は彼に魔王討伐の依頼をしている。「勇者よ、魔王を討伐しこの世界を救ってほしい」と。
人間の王は彼に、この世界での魔王の残虐な蛮行について語る。
彼は妹を助けるため元の世界に戻してくれと懇願している。
女神はこう答えた。「この世界はあなたに必要な力を与えてくれます。強くなりなさい。大切な家族のために」
彼は魔王討伐を女神と人間の王に約束をした。
旅立つ前、女神に「魔王を倒せば、本当に元の世界に帰れるのか?」と質問をしている。
女神は「帰れますよ」と笑顔で答える。
そして、女神は彼にオルフェルという名を授けた。
勇者は、魔王を討伐するために旅立った。
(これは、勇者オルフェルの始まりの物語なのか)
数年で何カ国も渡り歩き、多様な種族と出会い、多彩な街を訪れる。
ある時は村を襲う狼男の群れを討伐し、海に巣食う魔物を退治しながら、出会いと別れを繰り返していく。
信頼できる仲間と旅をし、己自身を磨き、この世界に来た当初より遥かに強くなっている。
魔王の幹部たちを打ち倒し、辿り着く魔王城。
死闘、激闘、戦いは壮絶を極め、魔王討伐に成功する。だが、失った仲間の命もあった。
(この哀しみは……勇者オルフェルの感情なのか?)
勇者の背中を追いかけ、勇者に憧れ、勇者の為にその身を犠牲にした聖杖の青年の命が潰えたのだ。
(聖杖の青年は、ヘブン・リーブルか)
魔王討伐を報告しに国へ帰る。
女神から冷たく「あの約束は嘘。元の世界への戻しかたは知らない。きっと、今頃あなたの家族は死んでいるわ」と告げられた。
膝から崩れ落ち号泣する勇者。
(オルフェルの悲嘆、悲愴、絶望を感じる。なんて、痛いんだ)
国王が「魔王を倒してくれたおかげで女神様の封印がとけた。感謝するぞ」と告げた。
その言葉を合図に、女神の姿が邪悪で禍々しいオーラを放つ邪神へと変貌していった。
女神は語る。「魔王は死んだ。約束通り、国王オマエを私の眷属にしてやろう」
(元の世界に戻ることを糧にここまでやってきたのに。なんて、胸糞悪い)
怒りの化身と化した勇者オルフェルと、仲間たちは邪神と眷属と化した国王に戦いを挑む。
魔王の時よりも熾烈な戦いが行われ、城が破壊され、王都の街並みが崩れていく。
人々の阿鼻叫喚が王都中に木霊する。
誰も助けてくれるものはいない。
仲間全員の命が勇者の盾となり、未来を託され犠牲となり、邪神と国王をなんとか打ち倒すことに成功した。
寝食を共にした仲間はもう誰もいない。
激戦の跡地には勇者が立っているだけ。
(空っぽだ。オルフェルの心には空虚で真っ暗で……何も無い)
邪神を討伐したにも関わらず、国を荒らし国王を殺した大罪人として勇者オルフェルは捕まった。
彼には抵抗する気力もなければ、生への執着すらなかった。
元いた世界に戻る方法もない。全てを失った。
生きる意味を……探し出せない。
首切り処刑台に向かって歩く勇者オルフェル。
公衆が沸き立つ。
「殺せ!」
「子供を返して!」
「殺せ!」
「妻を返せ!」
「殺せ!」
「お父さんとお母さんを返せ!」
石をぶつけられ、罵声を浴びせられる。
怒りと恨みの表情に満ちた民衆たちの前をゆっくりと歩かされる。
(こんな、こんなことが許されていいのか!? 肉体も精神も、極限まで擦り減らして魔王と邪神を倒したというのに!)
首枷が固定され、彼の上にはギロチン刃が太陽の光に反射し、猛り叫ぶ人々によって広場は益々熱くなっていく。
最後の瞬間が近づき、彼は何かを思い出し呟いた。
そして、その表情は悔しさと無念に変わっていく。
「僕は春夏秋冬信玄だ。オルフェルじゃない」
その言葉が、彼の胸の中で何かを解放するように響いた。
自分を奪われていた感覚。
元いた世界ではなく、すべてを奪ったこの世界で終わるのかという思いが、彼の心を締め付ける。
人々の怒号で熱くなっていた空気が凍りついたように感じた。
もう、人々の声は何も聞こえない。気持ち良いくらいに静かだ。
時間が緩慢に流れているように思える。
緩やかに。静かに。
次の瞬間、刃が落ちる音が空気を裂いた。
そして、春夏秋冬信玄の視界は回転し、地面と空を交互に映し、空を見上げて止まる。
「ああ、なんて青空が綺麗なんだ」
それが、勇者オルフェルを演じさせられていた彼、春夏秋冬信玄の最後の声だった。
(戦わされ、約束を破られ、最後がこれって……あんまりじゃないか)
オレの中に、悲しみと悔しさが混じり合った感情が押し寄せてくる。
勇者オルフェルの記憶を、映像として追体験した。
記憶の欠片を通して、女神キャラメリゼの本性を垣間見た。
すると、機械的な女性の声が脳内に響いた。
それと同時に、目の前に文字が次々と浮かび上がっていく。
《スキル「鑑定」を獲得》
《スキル「縮地」を獲得》
《スキル「疾風迅雷」を獲得》
《スキル「危険察知」を獲得》
《固有スキル「火事場の馬鹿力」を獲得》
《固有武技「瞬星撃」を獲得》
《固有武技「天壊牙突」を獲得》
《称号「勇者の卵」を獲得》
勇者の卵を二つ獲得したことを確認。
称号「勇者の卵」が進化します。
《称号「真・勇者の卵」を獲得》
《称号「勇者オルフェルの物語を読破」を獲得》
……幻覚。
臨場感があり、音や匂いまでも生々しかった。
何よりも彼の感情が、自分自身が体験したかのように、胸の奥深くへと突き刺さった。
あれが、母さん——キャラメリゼの本性か。
国王が、現宰相のガーネット・コンプリメンタ。
脳裏に焼き付いたのは、かつて「母」と呼んだ、反吐が出るほど醜悪な素顔。
勇者を、春夏秋冬信玄という一人の人間を、ただの使い捨ての駒として弄んだ。
そして、その魂を擦り切れるまで利用し尽くし、絶望の淵へと突き落とした。
「……ふざけるな」
腹の底から、どろりとした黒い感情がせり上がってくる。
救いがない。
あまりにも、救いがない。
元の世界に戻るため、すべてを捧げた男が最後に見たのが、自分を呪う民衆の顔。
あの顔は、もう思い出したくもない。
春夏秋冬信玄の最後の言葉。あまりにも無垢で、哀切に満ちた独白。
心臓を直接掴まれたように痛い。
オレの中で、母への敬愛は、冷徹な殺意へと塗り替えられた。
この悲劇を、過去の物語として終わらせるつもりはない。
オルフェルが、春夏秋冬信玄が、あの青空の下で残した無念。
そのすべてを今、この身が引き継いだのだ。
「……オレは、おまえを赦さない。母さん——いや、邪神キャラメリゼ」
凍てつくような声が、静寂の中に響く。
震える拳を強く握りしめ、濃紺の悪魔は静かに決意する。
「百合……」
すまない。戻れなくて……。
迎えに行くと言ったのに。
すまない……。
濃紺の悪魔の瞳に宿るのは、静かなる復讐の焔だった。
「どうやら僕の記録は、君の中に刻まれたようだね」
オルフェルの柔和な笑顔に、寂しげな陰が差していた。
勇者は、すっと右手を差し出し、握手を求めてきた。
「これで僕の役目も終えた。君と過ごした時間は楽しかったよ」
差し出されたその手には、ゴーレムとは思えないほど柔らかな肌触り。
そして、確かな体温も宿っていた。
だがその握りには、四ヶ月間も修行をつけた師匠としての面影など微塵もない。
指先から力が、熱が、砂時計のようにさらさらと零れ落ちていく——そんな感覚が、確かに伝わってきた。
「オレも楽しかったぜ。オルフェル」
勇者オルフェルは膝から崩れ落ち、地に掌をつく。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄る声が遠い。
どうやら、もう間もなくのようだね。
底に溜めていた水を一気に抜くかのように、存在の根元が空っぽになっていくのが分かる。
魔鋼の殻は急速に冷え、関節が錆びついたように固まっていく。
口を動かすことさえ、泥の海で抗うように重苦しい。
「亡き……ゆう、しゃ、と……ぼく、の……むねん……を……」
掠れた声は、風に溶けるほどに細い。
そしてそのまま、白く発光する大地の上で、オルフェルは静かに横たわった。
そこに残されたのは、もはや勇者でも、春夏秋冬信玄でもない。
熱を失い、沈黙を貫くただの鉄塊。
魔鋼のゴーレムだった。
鋼の唇が、二度と動くことはない。
先ほどまで感じていた、人間のような柔らかな温もりは、どこにもなかった。
「……呪いの言葉じゃねえかよ」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
託されたのは、晴らすことのできない泥濘のような怨念だ。
動かぬ鉄塊を見つめる濃紺の悪魔の瞳に、昏い炎が宿る。
勇者オルフェルが手放した無念という名の重荷を、自らの魂に深く刻み込んだ証だった。
「君は僕であって僕は君さ。だから、安らかに眠ってくれ」
濃紺の悪魔の独り言だけが、虚空へと溶けていった。




