俺以外に神々の懺悔を聞いてやれる奴がいない(後篇)
神々×人間×日常もの。
神様相談室。
規律の女神が訪れたのは、手紙を受け取ってから三日後のことだった。
その日は朝から雨が降っていた。
雨の神が記録帳を作り始めて以来、約束どおりに降る雨が増えたらしい。もっとも、記録帳の記入漏れが原因で、予定外の雨が降ることもあるそうだ。
神々も一歩ずつ進歩している。
俺はそう考えながら、湯を沸かしていた。
扉が三回叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、黒い衣装を身にまとった女性だった。
背筋はまっすぐで、歩幅は一定。髪の乱れ一つなく、靴には泥もついていない。
雨の日に来たはずなのに、外套すら濡れていなかった。
女性は部屋の中央で立ち止まり、俺を見た。
「あなたが、この相談所の責任者ですか」
「そうです」
「私は、規律を司る女神です」
「ようこそお越しくださいました」
「……驚かないのですね」
「神々のための相談所ですので」
女性は少しだけ眉を動かした。
俺は椅子を勧めた。
彼女は椅子の位置を確認し、机との距離が左右で均等であることを確かめてから座った。
なるほど。
規律を司る女神というのは、本当らしい。
「本日は、どのようなご相談でしょうか」
「その前に、確認します。相談内容は秘密にされますか」
「はい」
「私がここを訪れた事実も?」
「もちろんです」
「ほかの神々にも?」
「誰にも申し上げません」
「たとえ、神々の長が尋ねたとしても?」
「はい」
「私があなたを脅迫したとしても?」
「それは困りますね」
「困るだけですか」
「脅迫されたことも、誰にも申し上げないようにいたします」
女神は黙った。
どうやら、こちらの返答が気に入ったらしい。
もっとも、表情からは何も読み取れなかった。
「では、相談を始めます」
「どうぞ」
「私は、困っています」
「はい」
「しかし、何に困っているのかが分かりません」
「……はい?」
俺は思わず聞き返した。
女神は真剣な顔をしていた。
「私は規律を司っています。世界の法則、神々の約束、人間たちの法律。それらが正しく守られるように見守るのが私の務めです」
「立派なお仕事ですね」
「ええ。私は、自分の仕事を正しく行っています」
「それは結構なことです」
「規則を破ったこともありません。約束を忘れたこともありません。判断を誤ったこともありません。少なくとも、確認できる範囲では」
「はい」
「しかし、私はいつも困っています」
「……何にでしょう」
「それが分からないのです」
女神は両手を膝の上に置き、真剣そのものの顔で続けた。
「ほかの神々は、何かしら悩みを抱えています。嫉妬、後悔、失敗、失望。誰かに相談したいことがあるから、あなたのところへ来るのでしょう」
「そうですね」
「ですが、私には悩みがありません」
「はい」
「それが悩みなのです」
俺は湯飲みを置いた。
これは、これまでの相談者とは少し違う。
「失礼ですが、悩みがないことは、悪いことなのでしょうか」
「悪いことではありません」
「では、問題はないのでは?」
「問題がないことに問題があるのです」
「……なるほど」
分からない。
いや、言葉としては分かるのだが、内容が分からない。
女神は、俺が黙っているのを見て、少しだけ身を乗り出した。
「私は、ほかの神々があなたの相談所を訪れる理由を調べました」
「そうですか」
「彼らは、自分の失敗を悔いている。誰にも言えない秘密を抱えている。自分の行いが正しかったのか分からず、答えを求めている」
「はい」
「ですが、私にはそれがありません」
「……」
「私は、間違いを犯さないのです」
なるほど。
これは、悩みがないというより、自分に悩む余地がないと考えているのだろう。
「女神様は、ご自身の判断が常に正しいとお考えなのですか」
「いいえ」
即答だった。
「私は全能ではありません。未来をすべて知っているわけでも、世界のあらゆる事情を把握しているわけでもありません。私の知らないことはありますし、判断に必要な情報が不足することもあります」
「では、間違う可能性はあるのですね」
「もちろんです」
「それでも、間違いを犯したことがない?」
「はい。私は、判断を誤らないように必要な情報を集め、規則に照らして考え、慎重に決定します。疑わしい場合は、判断を保留します。私の判断に誤りがあったと確認されたことは、一度もありません」
女神は、そこで一度言葉を切った。
「……それなのに、ほかの神々は私を恐れます」
「恐れる?」
「私に相談をしても、規則に従って判断するだけだと思われているのです。失敗を告白すれば、私はそれを記録し、罰を与えるだろうと」
「実際には、どうなさるのですか」
「違反があれば、規則に従って対処します」
「なるほど」
「ですが、違反がない場合は何もしません」
「それは当然ですね」
「そうでしょう? 私は当然のことをしているだけです。それなのに、誰も私には相談しないのです」
女神は初めて、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
「私は、ほかの神々の悩みを聞くことはできます。規則に関する問題なら、解決することもできます。しかし、悩みそのものを聞くことは苦手です」
「どうしてでしょう」
「悩みとは、何かを正しくすれば解決するものだと思っていたからです」
俺はうなずいた。
「それで、ご自身の悩みを探し始めたのですか」
「はい。ですが、見つかりません。私は何も間違えていない。何も失っていない。誰かを裏切ったこともない。約束を破ったこともない。誰かを傷つけたことも、確認できる範囲ではありません」
「確認できる範囲では、ですか」
「ええ。私の知らないところで、誰かが傷ついている可能性はあります。しかし、それは私が知り得なかったことです。知り得なかったことについて、私は責任を負うべきなのでしょうか」
女神は、そこで初めて俺に答えを求めるような目を向けた。
「あなたは、どう思いますか」
俺はすぐには答えなかった。
責任という言葉は、扱いが難しい。
何でもかんでも責任を負わせれば、人は身動きが取れなくなる。
かといって、知らなかったというだけで何もかも免責されるなら、誰も知ろうとしなくなる。
「知らなかったこと自体を、罪だと決める必要はないと思います」
俺はゆっくりと答えた。
「ただ、知らなかったことを知ったあと、どうするかは考えられるでしょう」
「知ったあと、どうするか」
「はい。間違いを犯したかどうかを確認することと、これからどうしたいかを考えることは、同じではありません」
女神は、しばらく考え込んだ。
「私は、規則に従って正しく判断してきました」
「それは分かります」
「誰かに不公平な扱いをしたこともありません」
「はい」
「それでも、私は誰かに相談したいと思っているのでしょうか」
「そのように見えます」
「なぜでしょう」
「それは、私には分かりません」
女神は顔を上げた。
「分からないのですか」
「はい。女神様が何を求めているのか、私が勝手に決めるわけにはいきませんから」
「あなたは、相談相手なのに?」
「相談相手だからこそ、です」
俺は茶を差し出した。
「私にできるのは、話を聞くことです。女神様が何を感じているのか、何を求めているのか。それを一緒に考えることはできます。しかし、女神様の代わりに答えを決めることはできません」
女神は湯飲みを受け取った。
その指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「……私は、困っているのでしょうか」
「そうかもしれませんね」
「私は、悩んでいるのでしょうか」
「そうかもしれません」
「私は、何かを間違えたのでしょうか」
「それは、まだ分かりません」
女神は茶を一口飲んだ。
それから、ぽつりと言った。
「私は、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれません」
その言葉は、思いのほか小さかった。
規律を司る女神。
世界の秩序を守り、違反を見逃さず、神々の約束を管理する存在。
そんな彼女が、誰かに話を聞いてほしいと思っていた。
俺は、少しだけ笑った。
「それなら、今日のご相談は成功ですね」
「成功?」
「はい。話したいことがあって、ここへ来た。そして、話すことができた。少なくとも、その点では」
女神は、湯飲みを両手で包んだまま、俺を見つめた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……あなたは、変わった人間ですね」
「よく言われます」
「神々を恐れないのですか」
「恐れていますよ」
「そうは見えません」
「恐れていることと、話を聞くことは両立しますから」
女神は、今度こそ笑った。
それは、神々の前で見せるような荘厳な笑みではなかった。
ただ、少し困ったような、どこにでもいる女性の笑みだった。
相談は、それで終わるはずだった。
しかし、女神は帰ろうとしなかった。
「もう一つ、聞いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、私が何かを間違えていたと分かったら、どうしますか」
「そのことをお伝えします」
「私が怒ったら?」
「困りますね」
「私があなたを処罰すると言ったら?」
「それは、もっと困ります」
「それでも?」
「それでも、必要なことならお伝えします」
女神は、じっと俺を見た。
「あなたは、神々に対しても同じなのですね」
「人間に対しても同じです」
「なるほど」
彼女は立ち上がった。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました」
女神は扉の前で足を止めた。
「……また来てもよろしいですか」
「もちろんです」
「次に来るときには、悩みを見つけておきます」
「無理に見つけなくても構いませんよ」
「いいえ。私は、悩みがないことに悩んでいるのですから」
「そうでしたね」
「では、失礼します」
女神は、規則正しい歩幅で帰っていった。
俺は空になった湯飲みを片づけながら、少し考えた。
あの女神は、悩みがないことに悩んでいると言った。
だが、本当は違うのかもしれない。
悩みがないのではなく、悩みを悩みとして認めることができなかったのではないか。
規律を司る彼女は、何事にも正しい答えを求めてきた。
正しいか、間違っているか。
許されるか、許されないか。
責任があるか、ないか。
そのどれにも答えが出ないとき、彼女はどうすればよいのか分からなくなったのだろう。
それは、決して珍しいことではない。
人間にも、同じような人がいる。
正しくあろうとするあまり、自分の気持ちを後回しにしてしまう人。
間違いを恐れるあまり、何をしたいのか分からなくなってしまう人。
神々も人間も、案外似たようなものなのだ。
翌日、規律の女神は再びやってきた。
「相談があります」
「どうぞ」
「昨日、私は神々の会議に出席しました」
「はい」
「そこで、ある神が発言をしようとしていました。しかし、その神は議題から外れた話を始めました」
「それで?」
「私は、議題に沿った発言をするよう注意しました」
「はい」
「すると、その神は発言をやめました」
「なるほど」
「その後、会議は予定どおりに終了しました。議事録にも問題はありません」
「それはよかったですね」
「……ですが、私は気になっています」
「何がでしょう」
「彼は、何を言いたかったのでしょうか」
俺は少し驚いた。
「聞かなかったのですか」
「議題から外れていたので」
「会議が終わったあとに聞くことはできたのでは?」
「……」
女神は黙り込んだ。
「私は、会議の秩序を守りました。それは間違っていません」
「はい」
「しかし、彼が何を言いたかったのか、私は知りません」
「そうですね」
「もし、重要なことだったら?」
「聞いてみればよいのではありませんか」
「今からでも?」
「もちろんです」
女神は、しばらく考え込んだ。
「……分かりました。次の会議で、彼に発言の機会を設けます」
「それがよいと思います」
「ありがとうございます」
彼女は帰っていった。
その翌週、また来た。
「相談があります」
「どうぞ」
「私は、神々の間で交わされる贈り物について、規則を定めるべきか悩んでいます」
「贈り物ですか」
「ええ。ある神が、別の神に贈った品が高価すぎると問題になりました。受け取った神は恐縮し、贈った神は気に入られたと思い、周囲の神々は不公平だと騒いでいます」
「……それは大変ですね」
「贈り物の価値に上限を設ければ、公平になるでしょうか」
「どうでしょう。上限を設ければ、今度は上限ぎりぎりの品を贈る神が現れるかもしれません」
「それでは意味がありませんね」
「贈る理由を確認する規則を作れば、贈り物のたびに理由を提出させることになります」
「それは面倒です」
「贈り物を禁止すれば、今度は贈り物をしたかった神々が困るでしょう」
「……」
女神は、真剣な顔で考え込んだ。
「私は、何もかも規則で解決できると思っていたのかもしれません」
「規則で解決できることもありますよ」
「ええ。しかし、規則を作ること自体が、新しい問題を生むこともあるのですね」
「そういうこともあります」
女神はうなずいた。
「では、今回は規則を作らず、当事者同士で話し合ってもらいます」
「よいと思います」
「ただし、話し合いがまとまらなかった場合には、改めて相談に来てもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
それからも、女神はたびたび相談に来た。
悩みの内容は、少しずつ変わっていった。
以前なら規則に照らして即座に判断していたようなことを、彼女は一度立ち止まって考えるようになった。
誰かが規則を破ったとき、なぜ破ったのかを尋ねるようになった。
誰かが失敗したとき、処罰を決める前に、何が起きたのかを聞くようになった。
もちろん、規律を司る女神であることに変わりはない。
必要なときには厳しく判断したし、悪意ある違反を見逃すこともなかった。
ただ、彼女は少しずつ、人の話を聞くようになった。
それは、神々の間でも評判になったらしい。
規律の女神が、以前より話しやすくなった。
違反をした神が、罰を受ける前に事情を説明できるようになった。
規則を守ることと、相手の気持ちを考えることは、両立するらしい。
神々の間では、そんな噂が流れ始めた。
そして、噂の中心には、いつも俺がいた。
ある日、規律の女神は、いつものように相談所を訪れた。
「今日は、相談ではありません」
「そうですか」
「お礼を言いに来ました」
彼女は、机の向こうに座ると、まっすぐ俺を見た。
「私は、長い間、悩みがないことを悩んでいました。正しくあろうとするあまり、何を考えているのか、自分でも分からなくなっていたのです」
「はい」
「あなたは、私に答えを与えませんでした」
「答えを知りませんでしたから」
「それがよかったのです」
女神は、穏やかに笑った。
「私は、答えを与えられることに慣れていました。神々の中でも、規則に関する問題なら、私に聞けば解決すると思われていましたから。しかし、私自身の悩みについては、誰も答えをくれませんでした」
「そうでしたか」
「あなたは、私が何を考えているのか、私自身に考えさせてくれました。それが、私には必要だったのです」
俺は黙ってうなずいた。
「あなたは、不思議な人間ですね」
「そうでしょうか」
「神々の秘密を知りながら、それを利用しようとしない。神々に恩を売ろうともしない。私たちが何を話したのか、誰がここへ来たのか、決して明かさない」
「それが仕事ですから」
「それだけではないでしょう」
女神は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、私たちを神としてではなく、悩みを抱えた者として扱ってくれます」
「神であることと、悩みを抱えることは両立しますから」
「ええ。今なら、よく分かります」
彼女は立ち上がり、扉へ向かった。
そして、振り返って言った。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
女神が帰ったあと、俺はしばらく椅子に座っていた。
窓の外では、雨が上がり、雲の切れ間から日が差していた。
神々の悩みは、これからもなくならないだろう。
失敗もする。
嫉妬もする。
見栄を張ることもあれば、後悔することもある。
全能ではないのだから、当然だ。
それでも、神々は神々として生きていく。
人間たちに祈られ、期待され、ときには勝手な解釈を押しつけられながら。
そして、誰にも言えない秘密を抱えたときには、ここへ来る。
俺は、神々の懺悔を聞く。
それだけだ。
どの神が来たのか、誰にも言わない。
何を話したのか、誰にも言わない。
たとえ神々の長が尋ねても、答えるつもりはない。
人間の懺悔を聞いていた頃から、俺のやり方は変わっていない。
ただ、一つだけ変わったことがある。
相談所の扉に貼られた案内札に、小さな一文が増えたのだ。
『悩みがないというお悩みも、お気軽にご相談ください』
誰が書いたのかは、秘密である。
もちろん、俺が書いたのだが。
それを見た神々がどんな顔をしたのかも、秘密である。
ただ、その札が貼られてからというもの、相談所を訪れる神々は、以前よりも少し増えた。
そして、神々の間では、今日もこんな噂が流れている。
面白い人間がいる。
神々の懺悔を聞いてくれる人間がいる。
どれほど恥ずかしい話でも、どれほど情けない話でも、決して笑いものにしない人間がいる。
だから、神々は今日も扉を叩く。
雨の神は、記録帳の記入漏れについて。
愛の女神は、恋愛相談の受付方法について。
戦神は、次の戦いを始めるべきかどうかについて。
そして、規律の女神は、悩みがないことについて。
俺は誰にも言わず、ただ話を聞く。
神々の懺悔を聞いてやれる人間は、俺以外にいないのだから。
文:ChatGPT氏。
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