俺以外に神々の懺悔を聞いてやれる奴がいない(前篇)
神々×人間×日常もの。
神様相談室。
神官を辞めた。
理由を聞かれたら、俺はいつだって正直に答えることにしている。
神々が気の毒になったからだ。
もっとも、この答えを聞いた人間の九割は、俺の正気を疑った。
「神々が気の毒? お前、何を言っているんだ」
元同僚の神官は、俺の辞表を見て目を丸くした。
「人間が神々を憐れむだと? 逆じゃないのか。神々が人間を憐れむなら、まだ話は分かるが」
「そういう考え方もあるだろうな」
「そういう考え方もある、じゃない。お前は十年以上も神殿で働いてきたんだぞ。神々の偉大さも、人間のちっぽけさも、誰より理解しているはずだ」
「だから辞めるんだ」
「話がつながっていない!」
つながっているのだが、説明するのは難しい。
俺は神官として十年以上、人々の懺悔を聞いてきた。
盗みを働いた者。嘘をついた者。家族を裏切った者。嫉妬に駆られて友人を傷つけた者。
中には、本人が考えているほど罪深くない者もいたし、本人が考えているよりよほど反省すべき者もいた。
俺はその話を聞き、必要なら助言し、必要でなければ黙ってうなずいた。
秘密を守ることは、神官として当然の務めだった。
どれほど重大な秘密でも、俺は一度たりとも漏らしたことがない。
そのことは、神殿の誰もが知っていた。
そして俺は、あるとき気づいたのである。
人間には懺悔をする相手がいる。
だが、神々にはいない。
いや、いないというより、いられないのだ。
神々は人間に祈られる存在である。
人間の罪を裁き、正しい道を示し、迷える者を導く。
しかし、神々だって間違える。
神々だって嫉妬する。
神々だって、誰にも言えない後悔を抱える。
人間と違って寿命が長いからといって、精神まで完成されているわけではない。
むしろ長く生きる分、失敗の記憶を何百年、何千年と抱え続けることだってある。
ところが、神々がその苦しみを誰かに打ち明けようとすると、たちまち問題が発生する。
同僚の神に相談すれば、神々の間で噂になるかもしれない。
人間に打ち明ければ、信仰を失うかもしれない。
下手をすれば、神殿の教義そのものが書き換えられかねない。
神々の世界にも、面子というものがあるのだ。
いや、人間以上に面倒くさい。
人間は失敗すると、謝って許してもらうことができる。
神々は失敗すると、信者たちが勝手に意味を見いだしてくれる。
雨を降らせるのを忘れれば、試練だと解釈される。
豊作をもたらし過ぎれば、豊穣の奇跡だと称えられる。
祭りの日にうっかり雷を落とせば、神託だったことにされる。
本人が何を考えていたかなど、誰も気にしない。
これでは反省のしようもない。
そして、誰にも本当のことを言えないまま、後悔だけが積み重なっていく。
俺は、それがどうにも気の毒だった。
「お前、本気なのか」
元同僚が、改めて尋ねてきた。
「本気だ」
「神官を辞めて、何をするつもりだ」
「神々の懺悔を聞く」
「……は?」
「人間の懺悔を聞くのと、基本的には同じだ。話を聞き、必要なら助言する。秘密は守る」
「待て。神々が懺悔をするのか?」
「するだろう」
「誰が?」
「神々が」
「いや、そうじゃなくて!」
元同僚は頭を抱えた。
「お前は神々に会ったことがあるだろう。神託を受けたこともある。あの方々が、我々のような人間に懺悔すると思うのか?」
「懺悔したいと思っている神がいるなら、するだろう」
「そんな神はいない!」
「なら、俺の仕事は暇になるな」
「そういう問題じゃない!」
結局、元同僚は俺を止められなかった。
俺も彼を説得する気はなかった。
神官を辞めた俺は、神殿の近くにある古い建物を借りた。
小さな部屋が二つと、狭い待合室が一つ。
壁には防音の魔法を施し、扉には守秘の誓約を刻んだ。
受付の札には、簡潔にこう書いた。
神々の懺悔相談所。
営業時間は日の出から日没まで。
相談者の身元、相談内容、来訪の事実はすべて秘密。
ただし、相談者が神であることを確認できる場合に限る。
最後の一文は、神々を騙って厄介事を持ち込む人間を避けるためだ。
なにしろ、神々の懺悔を聞くなどという商売を始めたら、神々を侮辱していると怒る人間も出てくるだろう。
俺は別に神々を侮辱したいわけではない。
ただ、誰にも言えない話を抱えた者が、誰かに話せる場所を用意したかっただけだ。
最初の一週間、相談者は一人も来なかった。
当然である。
人間は俺を変人だと思っているし、神々が俺の存在を知っているとも思えない。
俺は椅子に座り、茶を飲み、窓の外を眺めた。
これは長期戦になるかもしれない。
そう考え始めた十日目の夕方、扉が三回叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、旅装の男だった。
年齢は三十代ほど。日に焼けた肌に、くたびれた外套。どこにでもいそうな旅人である。
ただし、靴の裏が地面から三寸ほど浮いていた。
なるほど。
「お待ちしていました」
「……私が来ることを知っていたのか?」
「いいえ。初めてのお客様ですから」
「では、なぜ待っていたなどと言う」
「営業時間中ですので」
男はしばらく俺を見つめた。
やがて、椅子に腰を下ろした。
「私は、雨を司る神だ」
「承知しました」
「驚かないのか」
「神々のための相談所ですから」
「……そうだったな」
男は深いため息をついた。
「私は先月、ある村に雨を降らせる約束をした」
「はい」
「だが、忘れた」
「なるほど」
「忘れたのだ!」
「はい」
「村人たちは三日三晩祈り続けた。私は別の地方の川の氾濫を止めるのに夢中になっていて、気づいたときには十日も過ぎていた」
「それは大変でしたね」
「大変だったのだ! 村は干上がり、村長は神殿に詰め寄り、神官たちは私の意図を読み解こうと徹夜した。結局、神託があったことにされてな。『天の試練を乗り越えよ』などという、私が一度も考えたことのない言葉が広まってしまった!」
男は両手で顔を覆った。
「私はただ、忘れただけなのだ……」
「そうでしたか」
「私は、神として失格なのではないか?」
俺は少し考えた。
「忘れたことは、よくないことです」
「うっ」
「ただ、忘れたことを隠さず、今後どうするかを考えることはできます」
「……隠さず、か」
「人間には、あなたが忘れたことをそのまま伝えるわけにはいかない事情もあるのでしょう」
「そうだ。私が忘れたと言えば、信仰が揺らぐかもしれない」
「では、まず被害を受けた村を助けることです。そのうえで、同じことが起きないようにする。例えば、約束を記録しておくとか」
「神が、約束を記録する?」
「人間でもそうします」
雨の神は、ひどく複雑な顔をした。
「……私は何千年も生きているのだぞ」
「何千年も生きているからこそ、記録が必要なのではありませんか」
男は黙った。
やがて、ふっと笑った。
「なるほど。私は、長く生きていることを言い訳にしていたのかもしれない」
その後、彼は礼を言って帰っていった。
帰り際、俺は一つだけ頼んだ。
「ここで話したことは、誰にも明かさないと約束します。あなたも、ここで話した内容を他の神々に広めないでいただけると助かります」
「もちろんだ。……しかし、君は本当に誰にも言わないのか?」
「言いません」
「相手が神でも?」
「相手が神でも」
男は、今度こそ安心したように笑った。
翌日、二人目が来た。
その翌週には三人目が来た。
相談内容はさまざまだった。
人間の祈りを聞き間違え、豊穣を願われた畑に大量のカエルを降らせてしまった豊穣神。
戦勝を祈られた国に勝利を与えたものの、勝ち過ぎて周辺国まで敵に回してしまった戦神。
恋愛成就の祈願を聞き届けるつもりが、祈願者の恋敵にまで同じ夢のお告げを送ってしまった愛の女神。
愛の女神は、相談の最後にこう言った。
「だって、どちらも一生懸命だったのよ!」
「はい」
「片方だけを応援したら不公平じゃない!」
「そのお気持ちは分かります」
「でも、二人とも同じ相手を好きだったのよ!」
「それは……難しいですね」
「そうなの! ああ、どうして恋愛には規則がないのかしら!」
俺は、恋愛に規則がないことを嘆く女神に、規則を作ったら作ったで大変なことになるだろうと伝えた。
女神は少し考えたあと、泣きそうな顔でうなずいた。
「そうよね。恋愛に規則を作ったら、私の仕事が増えるだけだわ」
神々は、思っていたよりも人間くさかった。
偉大な力を持っていることと、賢明であることは別らしい。
そして、神々の悩みの多くは、神々の力では解決しなかった。
雨の神は記録帳を作った。
豊穣神はカエルを降らせた畑に出向き、農民たちが困らないように魔法を使った。
戦神は勝利を与える前に、戦争が終わった後のことまで考えるようになった。
愛の女神は恋愛相談の受付方法を改め、祈願者に相手の名前を三度確認することにした。
もちろん、失敗はなくならなかった。
だが、少なくとも神々は、失敗を誰かに話すことができるようになった。
そして、話すことができるようになった神々は、少しずつ元気になっていった。
俺の相談所は、相変わらず小さかった。
看板も地味で、受付の椅子はきしむし、茶葉も安物だった。
それでも、神々の間では妙な噂が広がり始めた。
人間のくせに、神々の秘密を守る男がいる。
説教をしないわけではないが、神を必要以上に責めることもない。
神々を恐れないわけではないが、神々に媚びることもない。
話したことを誰にも漏らさず、どの神が訪れたのかさえ明かさない。
しかも、相談した神が誰なのかを、ほかの神々が探ろうとしても、男は一切答えない。
神々は、最初こそ半信半疑だった。
人間に秘密を守れるはずがない。
人間は弱い。
誘惑に負ける。
脅せば口を割る。
褒美を与えれば喜んで話す。
そんなふうに考える神もいた。
だが、試しに訪れた神々が誰一人として相談内容を漏らさず、相談所を訪れたことさえ口にしなかったため、噂はますます広まった。
面白い人間がいる。
あの男は、神々を相手に商売をしているらしい。
いや、商売というより、神々の愚痴を聞いているらしい。
神々の愚痴だと?
そうだ。神々の愚痴だ。
……神々にも、愚痴があるのか?
あるらしい。
しかも、かなり多いらしい。
噂が広がるにつれて、相談所を訪れる神々は増えていった。
ある神は、同僚の神に贈った誕生日の品が安物だと笑われたと嘆いた。
ある神は、自分の信者が別の神の信者に改宗したことを、気にしていないふりをしながら気にしていた。
ある神は、神々の会議で自分だけ発言を求められなかったことを、何百年も根に持っていた。
俺はそのすべてを聞いた。
そして、そのすべてを秘密にした。
誰が来たのか。
何を話したのか。
どんな顔をして帰っていったのか。
俺は誰にも明かさなかった。
人間にも。
神々にも。
神官時代から変わらない、俺のやり方だった。
だからこそ、俺の相談所は神々にとって、ようやく安心して弱音を吐ける場所になったのだろう。
そんなある日、俺は一通の手紙を受け取った。
差出人の名はなかった。
ただ、封蝋には見覚えのない紋章が刻まれていた。
手紙には、たった一行だけ書かれていた。
『あなたに相談したいことがあります。できれば、規則に従ってお会いしたいのです』
俺は首をかしげた。
規則に従って、とはどういう意味だろう。
相談所には、すでに規則がある。
予約は不要。
相談内容は秘密。
神であることが確認できれば、身分は問わない。
特別な手続きはないはずだ。
俺が手紙を裏返すと、そこにはさらに小さな文字があった。
『なお、規則に反することがあれば、私自身が処罰します』
……ずいぶん物騒な相談者だ。
俺は手紙を引き出しにしまい、いつもどおり翌日の準備を始めた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
その手紙の主が、神々の中でも特に厄介な女神であることを。
規律を司り、あらゆる約束と法と秩序を見守る女神。
そして、神々の中でおそらく最も、懺悔する理由を見つけるのが下手な女神であることを。
おいでいただきありがとうございます。
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