生ごみを狙う真っ黒なあいつと目が合ってしまった(一話完結)
日常コメディ。
主人公とカラスのにらみ合い。
祝日の朝、俺は生ごみの入った袋を下げて家の前に立った。そして、思いきり後悔した。
収集場所の横、電柱のてっぺんに、あいつがいた。真っ黒な、カラス。
いや、書き方が悪かった。電柱のてっぺんにいた、ではない。電柱のてっぺんから、俺を見下ろしていた、だ。こっちは袋を下げている。あちらは高いところに陣取っている。初対面なのに、なぜか完全に形勢を一本取られていた。
俺の名前は田辺悠介。二十四歳。会社員。本日、祝日。朝寝坊の予定が、生ごみの出し忘れという悪夢によって打ち砕かれた。燃えるごみの回収は祝日も関係なくやってくる。清掃局のトラックは、日本人の祝日という概念を完全に無視して街を巡回する。敬意すら覚える。
で、俺は袋を下げて、ごみ収集場所の前に立ち、そしてあいつと目が合ってしまった。
目が合った、という表現は正確だろうか。カラスはまばたきをしない。黒い瞳が、昨晩の唐揚げの残り油とダイコンの切れ端とが詰まった袋を、じっと見ている。いや、待てよ。よく見ると、袋を見ているようで、実は俺を見ているのではないか。袋と俺の間で、視線が高速で往復している。まるで計算しているのだ。
こいつ、頭がいい。親戚の猟師のじいちゃんが言っていたのを思い出す。カラスのIQは犬並みかそれ以上だと。そして大事なことをもう一つ。カラスを勝手に傷つけたり捕まえたりするのは、法律で禁止されているのだと、じいちゃんは缶ビールを片手に語っていた。「鳥獣保護法ってやつだな。カラスを石でぶつけて怪我させただけで、罪になる。罰金だぞ、悠介」と。
当時、小学生の俺は「石を投げるだけで罰金?!」と衝撃を受けたものだ。じいちゃんによれば、近年は空港やゴルフ場などで、カラスやトンビを追い払うために本物の鷹匠が呼ばれることも増えているらしい。「鷹が飛ぶと、カラスは逃げる。格ってやつが上やからな」なるほど、格というものには逆らえないわけだ。武装した民間人が石で対抗できる問題ではない。
だから俺は、今、石を投げてはいけない。法律という名の格が俺の上にある。
……いや、正直に言おう。今、俺の手は無意識に、足元の小石を探っていた。ごめん、法律。ごめん、じいちゃん。人間とは弱い生き物で、目の前の黒い相手に睨まれると、どうしても野蛮な解決策に心が傾くのだ。
手が小石に触れた瞬間、俺ははっと我に返った。だめだ。駄目だ。カラスを勝手に傷つけてはいけない。五万円という金額の問題ではない。というか金額の問題でもある。祝日に五万円の罰金は家計に致命的だ。
俺は素知らぬ顔で手を背中に回した。どう見ても挙動不審だ。まさか「後ろ手に小石を隠す男」を演じきれるほど、俺は役者ではなかった。
カラスは動かない。
電柱の上の、真っ黒なあいつは、微動だにせず、俺を見ている。夕べからずっとここで待っていたのではないか。お前、俺が生ごみを出し忘れて、祝日の朝に慌てて飛び出してくることまで読んでいたんじゃないか。恐ろしい。
じつは俺、カラスをこんなにまじまじと見るのは初めてだった。普段、カラスは「黒い何か」として視界の端を飛び交う存在で、観察対象ではない。だがこの距離感、この睨み合いの中で、俺は初めてカラスという生物のディテールを知った。
くちばしは、思っているより長い。灰色がかった、立派な刃物のような嘴。目の周りには、無精髭みたいな黒い羽が生えている。足は意外とほっそりしていて、指は四本。で、何より一番の発見は、羽だ。よく見ると、ただの黒ではない。墨色、青黒、そして毛先にかけて、まるで油を差したような艶がある。同じ黒でも、俺が今着ている洗い古した黒Tシャツとは、格が違う。格という点では、完全に負けている。
カラスが、首をかしげた。
やばい。かわいい。
いや、かわいくない。敵だ。こいつは俺の生ごみを狙う、法律に守られた、鷹にしか支配できない、天敵のいない最強の捕食者だ。首をかしげたのがかわいく見えるのは、こっちの油断を誘う戦術に決まっている。じいちゃんが言っていた。「カラスはな、悠介、瞬きせんと人間を睨む。睨み合いに勝ったとる人間はおらん」
瞬き。そうだ、瞬きだ。俺は今、一体何秒瞬きしていない? 三十秒? 一分? 目が乾いて痛い。一方あいつは、瞬き一つしない。涙腺の性能差もありえない。人間とカラス、旱魃対決とでも言うべきこの睨み合いは、物理的にして、すでに勝敗が決まっているのだった。
だったらもういいだろう、出していいだろう、ごみ、出していいだろう。
俺は、ゆっくりと、袋を収集場所のごみ袋の山に置いた。
カラスが、わずかに重心を動かした。
置いた瞬間だ。俺とカラスの間に、一本の見えない境界線が引かれる。ごみ袋を置いた時点で、それはもう俺のものではない。お前のものでもない。行政のものだ。だがカラスの目は「今から俺のものになる」と語っている。いや待て、「行政のもの」という理屈が通じる相手ではないのがカラスなのだ。
俺は袋から手を離さなかった。
離したら、負けな気がした。理由は特にない。ただ、離したら負けなのだ。ここから先は、人間の文明が敷いたルールと、カラスという生物の本能が、ごみ収集という名の戦場でぶつかり合う、一線なのだ。
一度目が合ってしまった以上、もう引き下がれない。俺は袋を置いたまま、半歩下がった。手は離れた。誰が見ても不自然な、猫背で構える男。近所の窓が開いていく音がする。見ないでくれ。
カラスは、飛ばない。
電柱の上で、あいつは首をまたかしげた。逆方向に、である。
……探り合いだ。これは完全に、探り合いだ。
俺が下がれば、あいつは距離を詰める。俺が動けば、あいつは待つ。まるで俺の性格を全部見抜いた上で、最適解だけを選んでいる。こっちは今、人生で最も多くのことをカラスに読まれている。読めるものなら読んでみろ、俺の心の中身は昼メシを何にするかでいっぱいで……
と、その時だった。
朝の風が、通りを吹き抜けた。俺の額の汗が、ひんやりと冷える。あいつの艶やかな羽も、同じ風でわずかに揺れた。同じ風に吹かれているのに、涼しそうな顔だ。腹が立つ。体感気温でさえ、俺とカラスの間には格差がある。
一度でいいから、お前をこの地面に降ろして、目の高さで話がしたい。交渉だ。生ごみの所有権について、話し合いのテーブルにつきたい。もちろんどんなテーブルにも着かないだろうが。人間とカラスの間に外交が成立した歴史はない。せいぜい警戒メモを共有し合う程度の、探り合いだけが、俺たちに許された唯一の対話なのだった。
俺は意を決して、袋を収集場所に置いたまま、二歩下がった。ごみの勝負どころから、降りる。人間の大人の余裕というやつを、見せてやるのだ。あいつはどうする。飛び降りるか。それとも俺を値踏みして、見送るか。
あいつは、じっとしたまま、俺を見た。
残念、交渉決裂である。
曲がり角から、ごみ収集車の姿が、堂々と現れた。
俺の背中を、暖かい文明の光が撫でる。来た。来てくれた。清掃局! 我らが守り手! 鷹匠を呼ぶまでもなかった。世の中には、鷹よりも強い味方がいたのだ。それは、祝日も働く清掃の仕事だった。
収集車が停車し、作業員さんが袋を拾い上げていく。俺の生ごみも、混ざって、拾われる。唐揚げの油も、ダイコンの切れ端も、轟音とともに車内へ。
「あばよ、真っ黒なあいつ」
俺は振り返り、電柱のてっぺんに勝利の声を上げた。
あいつは、いなかった。
いつの間にやら、姿を消している。そうか、ごみ収集車の音を聞いただけで撤退したのか。賢い。あまりに賢い。敵ながら天晴れ、また来るんだろうな、次の収集日まで、俺が祝日に生ごみを出し忘れる確率ごと、全部お前の頭の中に入っているんだろうな。
ごみ収集車が去り、静寂が戻った朝の通りで、俺は一人、白々しい顔で家に戻った。何も勝っていないのに、なぜか勝った気がしていた。
文:Vibe氏(Mistral AI)。
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