すてきな日常(後篇)
現代ファンタジー(悪魔憑き)。
主人公は女子高生・天野。
悪魔との掛け合い中心。
暴力描写(軽度)・心理的に重い描写あり。
最終的には前向きな話。
悪魔に身体を乗っ取られてから、二週間が過ぎた。
わたしを取り巻く環境は激変していた。
学校でのわたし――いや、わたしを操る女悪魔の評価はうなぎ上りだった。授業中の明瞭な回答、スポーツの授業で見せる圧倒的な運動神経、そして何より、誰に対しても物おじせず、ハッキリと物を言う凛とした態度。
陰気で存在感のなかった「天野」は、あっという間にクラスの注目の的となり、学年でも有名人になっていた。
『ねえ天野、今日の放課後はあの子たちとカラオケという場所に行く約束をしたわ! 歌というものを歌ってみたかったのよね!』
心の中で悪魔がはしゃいでいる。
(好きにすれば。でも、声帯を潰さない程度にしてね)
『わかってるわよ。あなたの身体は私の大事な人形なんだから、メンテナンスは欠かさないわ』
悪魔は口でそう言いながら、毎晩丁寧にお風呂に入り、肌の手入れをし、バランスの取れた食事を摂っていた。わたしが一人で絶望していた頃よりも、遥かに健康的で綺麗な身体になっていた。
自分が自分として生きていた頃よりも、悪魔に操られている今のほうが、ずっと充実した「すてきな日常」を送っている。
皮肉なものだ、とわたしは思った。
わたしという存在は、最初からこの世界にいらなかったのだ。わたしが消えて、代わりに悪魔がこの身体に入ったほうが、周りの人間も幸せになっている。
(このまま、永遠に悪魔が操ってくれればいいのに)
心底、そう思っていた。わたしが表に出ていく必要なんて、どこにもないのだから。
しかし、そんな平穏(とわたしが思っていたもの)は、思わぬ形で破られることになった。
それは、放課後の帰り道のことだった。
悪魔は友人たちとカラオケで大はしゃぎしたあと、機嫌よく夜道を歩いていた。街灯の下を、ステップを踏むようにして進む。
その時、路地裏から数人の男たちが現れ、わたしの進行方向を塞いだ。
「おいおい、噂の天野じゃねえか。最近えらい調子に乗ってるらしいな」
見覚えのある顔だった。近所の不良グループで、事故で亡くなった母の補償金を狙って親戚が連れてきた、質の悪い取り立て屋の身内だった。母が死んだ直後、家に押し寄せてきてわたしを脅した男たちだ。
わたしの中のトラウマが激しく疼き、恐怖で心が収縮した。
(嫌……逃げて……!)
思わず心の中で叫んでしまった。悪魔に身体を委ねてから、初めて自発的に強く抱いた感情だった。
男たちはニヤニヤしながらジリジリと間合いを詰めてくる。
「お前の親戚から聞いてるぜ。金はあるんだろ? ちょっとツラ貸せよ」
男の手が、わたしの肩に伸びてきた。
その時、わたしの身体を操っている悪魔が、低く冷ややかな声を漏らした。
「失せろ、羽虫ども。私の人形に気安く触るな」
次の瞬間、悪魔はわたしの身体を使って、驚くべき速さで男の腕を払い、その手首を捻り上げた。
「ぎゃあぁぁっ!?」
男が悲鳴を上げる。悪魔は間髪入れずに他の男たちの懐に飛び込み、華麗な足払いでなぎ倒した。悪魔の力(といっても人間の身体の限界を超えない範囲の、完璧な力学の応用)によって、あっという間に三人の男たちが地面に転がされた。
「ひ、ひぃっ! 化け物だ!」
男たちは這いずるようにして逃げ去っていった。
夜の路地裏に、静けさが戻る。
わたしは息を呑んでいた。
(すごい……悪魔って、本当に強いのね)
『ふん、くだらない雑魚ね。……けれど』
悪魔の声が、いつになく重かった。
『天野。あなた、さっき恐怖で心が縮み上がったでしょう』
(……ええ。昔の嫌なことを思い出して)
『おかげで、糸が弛んだわ』
「え?」
悪魔はわたしの手を見つめた。手首が、かすかに震えている。
『私の糸はね、対象の心が完全に空っぽで、自死の意志すら失われている時にしか繋がらないの。絶望によって自我を放棄した隙間に、私の糸が引っかかる。……でも、今のあなたは「恐怖」を感じ、「逃げたい」と強く願った』
悪魔がゆっくりと振り返り、近くの公園のブランコに腰掛けた。
『自我が、戻りつつあるのよ。天野』
心の中の悪魔の声が、どこか寂しげに響いた。
(そんな……! 嫌よ! 自我なんて戻らなくていい! わたしは人形のままでいいの! あなたに操られていたほうが、ずっと楽なんだから!)
わたしは必死で叫んだ。
自我を取り戻せば、またあの地獄のような苦しみと向き合わなければならない。母のいない現実、裏切り、孤独。そんなものに耐えられるはずがない。
わたしがパニックに陥っていると、悪魔はため息をついた。
『馬鹿ね。楽だからって、他人に人生を明け渡してどうするのよ』
(あなた悪魔でしょう!? わたしの身体を奪いたかったんじゃないの!?)
『奪いたかったわよ。でもね……この二週間、あなたの身体で色んなものを見て、色んなものを食べたわ。学校の友達と笑って、美味しいパンを食べて、夕日を見て……。この身体はね、あなたが思っているほど死んでなんかないのよ』
悪魔はわたしの右手を開いたり閉じたりさせた。
『胸の奥が高鳴る感覚、美味しいものを食べた時の胃の温かさ、走った時の鼓動。それらは全部、この身体が「生きていたい」と叫んでいる証拠よ。あなたが心を閉ざして無視していただけでね』
(違う……わたしは死にたかった。でも、運命のいたずらで死ねなかっただけ……)
『そうかしら?』
悪魔はくすりと笑った。
『あの歩道橋の事故。トラックが突っ込んできて、崩落に巻き込まれたのに指一本折れなかった……本当にそれがただの「運命のいたずら」だと思う?』
「……え?」
思わず、声が出た。心の中ではなく、自分の口から。
『あの日、あの場所にはね……私以外の「何か」もいたのよ。あなたが死にかけた瞬間、あなたの命を強く繋ぎ止めようとした何かがね。……まあ、それが何だったのかは教えてあげないけれど』
悪魔は立ち上がり、夜空を見上げた。
わたしと悪魔を繋ぐ、目に見えない漆黒の糸が、一本、また一本と、光の粒となって解けていくのが分かった。
『糸が切れるわ。私の気まぐれなマリオネット劇も、これで終幕ね』
(待って! 行かないで! わたしを一人にしないで!)
わたしは心の中で懇願した。悪魔がいなくなったら、わたしはまたあの暗闇に戻ってしまう。
しかし、悪魔は優しく、けれど拒絶するように微笑んだ。
『嫌よ。私は悪魔だもの。立ち直りかけた人間の身体を操るなんて、興醒めもいいところだわ。……それにね、天野』
悪魔の姿が、わたしの意識の深層からゆっくりと薄れていく。
『あなたはもう、ゼンマイの切れた人形じゃないわ。この二週間で、私がたっぷりねじを巻いておいてあげたから』
「あっ……」
体の感覚が、一気に自分のもとへと戻ってきた。
重力、皮膚に触れる夜風の冷たさ、足の裏が地面を踏みしめる感覚、そして胸の奥で力強く打っている心臓の鼓動。
すべてが、わたし自身のものとして帰ってきた。
指先を動かしてみる。わたしの意思で、わたしの指が動く。
『じゃあね、天野。……あなたのこれからの日常が、本当の意味で「すてき」になるといいわね』
最後にそう言い残して、女悪魔の気配は完全に消え去った。
公園のブランコの前で、わたしはポツンと一人立ち尽くしていた。
周囲は静まり返っている。頭の中に響いていた賑やかな声も、身体を引っ張る糸の感覚もない。
完全に、一人になった。
「……あくまの、バカ」
口から出た声は、小さく震えていた。
わたしは自分の胸に手を当てた。トクン、トクンと、確かなリズムで鼓動が刻まれている。悪魔が言った通りだった。わたしの身体は、ずっと生きたがっていたのだ。
絶望に打ちひしがれ、死ぬことすらできず、日常を「すてきな日常」と嘲笑っていたわたし。
でも、悪魔に操られたこの二週間で知ったのだ。
友達と笑い合うことの楽しさを。
温かいものを美味しいと感じる喜びを。
夕日を見て綺麗だと思う心を。
それは悪魔が教えてくれたものだけれど、感じていたのは他ならぬわたし自身の肉体と心だった。
悪魔は去っていった。けれど、彼女が巻いてくれたゼンマイは、今も胸の中でカチカチと音を立てて動き続けている。
わたしは深く息を吸い込み、夜空を見上げた。
雲の隙間から、綺麗な月が覗いていた。
「……帰りましょう」
誰に命じられたわけでもなく、自分の足で一歩を踏み出す。
足取りは、悪魔が操っていた時のように軽やかとはいかなかったけれど、しっかりと地を踏みしめる重みがあった。
明日もまた、朝が来る。
学校へ行き、授業を受け、クラスメイトと話をするだろう。嫌なことも、辛いことも、きっとまだたくさんある。母がいない現実も、変わらずそこにある。
けれど、わたしはもう、ただ流されるだけの人形ではない。
自分の足で歩き、自分の手で明日を掴むのだ。
「ふふ……」
誰もいない夜道で、わたしは少しだけ笑った。
明日から始まるのは、悪魔の操り人形としての劇場ではない。
わたし自身が生きる、本当の、そして少しだけ特別な、すてきな日常だ。
文:Gemini氏(3.6 Flash)。




