すてきな日常(前篇)
現代ファンタジー(悪魔憑き)。
主人公は女子高生・天野。
悪魔との掛け合い中心。
暴力描写(軽度)・心理的に重い描写あり。
最終的には前向きな話。
目覚まし時計が鳴る前に、わたしは目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、いつも変わらず無情なほど明るい。昨日と同じ朝、昨日と同じ部屋。そして、昨日と同じように、わたしの中身はからっぽだ。
数か月前、わたしの世界は一瞬で崩れ去った。唯一の家族だった母を事故で亡くし、続いて事故の補償問題を巡って親戚たちの醜い争いに巻き込まれた。信じていた幼馴染には裏切られ、身も心も擦り減った末に、わたしはすべてに絶望した。生きる意味なんて、どこにもなかった。
だから、あの雨の夜、わたしは古びた歩道橋の欄干に足をかけたのだ。
しかし、死ぬことすら許されなかった。
飛び降りようとした瞬間、視界を覆う激しいフラッシュとともに、トラックが歩道橋の脚に激突した。激しい衝撃で歩道橋の一部が崩落し、わたしは欄干から足を滑らせたものの、崩れた資材の間に奇跡的にハマり込み、指一本骨折することなく助かってしまった。運命のいたずらとしか言いようがない。死の恐怖すら通り越したところで、わたしは怪我一つなく生き残ってしまったのだ。
自ら命を絶つ度胸すら、その事故の恐怖で完全にへし折られてしまった。
死ぬこともできず、かといって生きる気力もない。わたしはただ、朝起きて、学校へ行き、帰ってきて寝るという動作を繰り返すだけの肉体になった。
ゼンマイの切れた人形。それがわたしだ。ねじを巻いてくれる人はもう誰もいない。
「……はあ。今日も、すてきな日常が始まる」
鏡に映る自分の表情のない顔に向かって、わたしは自嘲気味につぶやいた。絶望に満ちた、何の価値もない、完璧に平穏で死んでいるような日常。それをわたしは心の中でそう呼んでいた。
制服に袖を通し、鞄を持って玄関を出る。足が勝手に学校への道を歩み進める。思考は停止したままだ。
その途中の角を曲がったときだった。
足元に違和感を覚えた。まるで、目に見えない細い糸が、両手両足、そして頭のてっぺんに絡みついたかのような感覚。
『ふうん。案外、上質な依り代じゃない』
頭の中に直接、鈴を転がすような、けれどどこか冷ややかな少女の声が響いた。
驚いて周囲を見回したが、通学路には誰もいない。ただ、朝の風が吹き抜けているだけだ。
『無駄よ、探しても見えはしないわ。私はいま、あなたの心の中にいるのだから』
「……誰?」
声に出さず、心の中で問いかける。自分がついに頭までおかしくなったのかと思った。
『私は悪魔。あなたの哀れで空虚な魂に惹き寄せられてやってきたの。ねえ、あなた、生きているのが面倒でしょう? 生きる気力もないのに、死ぬ度気もない。ただ流されているだけの、ゼンマイの切れた人形』
その言葉は、わたしの心を正確に射抜いていた。反論する気すら起きない。
「……そうよ。だから何? 悪魔なら、わたしの魂でも食べて殺してくれるの?」
『いいえ、殺してあげたりしないわ。そんな勿体ないことするわけないじゃない。あなたのその身体、私がもらうことにしたの』
次の瞬間、わたしの意思とは無関係に、右腕が上がった。
手首が、肘が、指先が、まるで操り人形のようにククッと不自然な動きを見せる。わたしが驚く間もなく、今度は左足が勝手に一歩前に踏み出した。
『視えるかしら? 私とあなたの身体を繋ぐ、この漆黒の糸が。今日からあなたは私のマリオネット。あなたの身体は、私が好きに使わせてもらうわ』
頭の中で悪魔が妖しく笑う。
本来なら悲鳴を上げるべき状況だったのかもしれない。恐怖で錯乱するべきだったのかもしれない。
けれど、わたしの心に湧き上がってきたのは、奇妙な安堵感だった。
(……ああ、そう。わたしが自分で自分を動かさなくていいんだ)
ゼンマイの切れた人形に、新しい使い手が現れただけの話だ。意志を捨て、思考を放棄し、すべてをこの女悪魔に委ねてしまえばいい。それはわたしにとって、これ以上ないほど楽なことだった。
「好きにすればいいわ。どうせ、空っぽなんだから」
心の中でそう呟くと、女悪魔は一瞬意外そうに沈黙し、それからくすくすと嬉しそうに笑った。
『物分かりが良くて助かるわ。それじゃあ、参りましょうか。あなたのその、すてきな日常へ』
わたしは意思を手放した。
視界はわたしのものだが、身体の主導権は完全に悪魔へと移った。
学校への足取りは、今までとまるで違っていた。今まで重く引きずっていた足が、まるで踊るように軽やかにアスファルトを蹴る。背筋はピンと伸び、風を切って歩く感覚が伝わってくる。
校門をくぐると、すれ違う生徒たちが驚いたようにこちらを見た。
それもそのはずだ。これまで幽霊のように俯いて歩いていたわたしが、堂々と胸を張り、余裕笑みを浮かべて歩いているのだから。
『へえ、これが人間たちの学校という場所ね。悪くないわ。匂いも、雰囲気も』
女悪魔はわたしの身体を使って、物珍しそうにあたりを見回した。
教室に入ると、さらに周囲の視線が集まった。
「あ、おはよう、天野さん……」
いつも気まずそうに声をかけてくるクラス委員長の男子が、おずおずと話しかけてきた。普段のわたしなら、ボソボソと頭を下げるだけで通り過ぎていただだだろう。
しかし、女悪魔は違った。
わたしのかわいそうな身体は、滑らかな動作で立ち止まり、首を少しだけかしげて笑顔を作った。
「おはよう。今日もいい天気ね」
鈴を鳴らすような澄んだ声。普段のわたしからは想像もつかない、華やかで堂々とした挨拶だった。
委員長の男子は顔を真っ赤にして固まり、「あ、うん!」と上ずった声を上げた。
(……何やってるのよ、あなた)
心の中で呆れながら問いかけると、女悪魔は興奮気味に返してきた。
『何って、挨拶よ。せっかく人間の女子高生になったんだもの、楽しまなきゃ損でしょう? この学校という箱庭、案外面白そうじゃない』
ここから、わたしの「すてきな日常」は、悪魔の手によってまったく別のベクトルへと狂い始めた。
授業中、悪魔は退屈することなく、ノートに悪魔特有の妖しい紋様を落書きしたり、窓の外を眺めては風の匂いを楽しんでいた。
指名されて黒板の問題を解かされたときも、悪魔は興奮した。
『ふん、こんな初歩的な数学、私にかかれば朝飯前よ』
スラスラと難解な証明問題を解き明かし、数学の教師を驚嘆させた。普段のわたしの成績は中の中、いや、最近は下がり続けて下の上といったところだったのに。
昼休みになると、悪魔は購買部に真っ先に走り、新作のいちごジャムパンと焼きそばパンを買い占めた。
『美味しい! 人間の食べ物って、どうしてこんなに油と砂糖と炭水化物の味がするのかしら! 最高ね!』
ベンチに座り、口いっぱいにパンを頬張るわたし(の身体)。
(行儀が悪いわよ、悪魔のくせに買い食いなんて)
『うるさいわね、食べたいものを食べて何が悪いの一体。あなた、最近まともにご飯食べてなかったでしょう。身体が喜んでるわよ』
確かに、胃袋が温かい食べ物で満たされていく感覚は、久しく忘れていたものだった。悪魔に身体を操られているというのに、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、客観的に自分の身体が人生を楽しんでいるのを眺めるのは、映画でも観ているような奇妙な娯楽だった。
放課後、悪魔は屋上に上り、フェンスに背をもたれかけて夕日を眺めた。
『ねえ、天野』
ふと、女悪魔が心の中で呼びかけてきた。
「何?」
『あなた、本当にこれでいいの? 自分の身体を奪われて、悔しくないわけ?』
悪魔の声には、ほんの少しの疑問が混ざっていた。
「悔しくないわよ。だって、わたしは生きているのが嫌だったんだから。あなたが勝手に動かしてくれるなら、わたしは何もしなくていい。息をしているだけで済むなら、それが一番楽だもの」
わたしが淡々と答えると、悪魔はふんと鼻を鳴らした。
『へんの。変な子。普通は泣いて命乞いするか、身体を取り戻そうと暴れるものよ。……まあいいわ。あなたが諦めているなら、私は遠慮なくこの身体を使い倒すだけだから』
そう言って、悪魔はわたしの手を使って、夕日に向かって大きく伸びをした。
糸で吊るされたマリオネット。
糸を引くのは、見知らぬ女悪魔。
絶望に塗れたわたしの日常は、悪魔の気まぐれによって、滑稽で、少しだけ鮮やかな劇場へと姿を変えていたのだった。




