かれは難攻不落の魔王城をみて微笑む(前篇)
異世界転生もの。
村娘と寡黙な技術者の淡い交流。
シリアス寄り。
魔王城が見える村で暮らしていると、珍しいことにも慣れてくる。
夜中に森の奥で青い火が踊ることも、山羊が人間の言葉をしゃべりだすことも、空を飛んでいた竜がくしゃみをして村の屋根を三軒まとめて吹き飛ばすことも、十年も住んでいれば大抵は笑い話になる。
ただし、空から人間が落ちてくるのは初めてだった。
「……人?」
森で薬草を採っていた私は、地面にできた巨大な穴を見下ろしていた。
穴の底には、男が倒れていた。
黒っぽい服はところどころ裂け、見たこともない形の靴を履いている。髪は乱れていたが、顔立ちは整っていた。年齢は三十代くらいだろうか。怪我をしているのか、息をしているのか、それすらもよく分からない。
ただ、男が落ちてきた瞬間、森全体が震えた。
鳥は逃げ、木々の葉は舞い上がり、近くの小川は一瞬だけ逆流した。
そして、空には何もなかった。
「大変!」
私は籠を放り出し、穴へ駆け下りた。
男の首筋に手を当てる。
脈がある。
生きている。
どうして生きているのかは分からないけれど、生きているなら助けなければ。
それが、私の村で教えられてきたことだった。
私は男の頭を支え、声をかけた。
「もしもし。聞こえますか?」
返事はない。
「しっかりしてください。村まで運びますからね」
男は返事をしなかった。
代わりに、彼の指が土をつかんだ。
その手は、何かを確かめるように、ゆっくりと地面をなぞっていた。
私は彼を村まで運ぶために、近くの木こりを呼びに走った。
後になって考えると、あのとき私は、彼がどれほど重い人間なのかを気にするべきだった。
大人二人で担架に乗せた男は、見た目以上に重かったのだ。
まるで、全身に鉄を詰め込んでいるみたいに。
それでも、彼の体は人間のものだった。
少なくとも、そのときの私はそう信じていた。
男が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
私の家は村の端にある。魔王城へ向かう街道からも、森からも近い。父が薬師だったので、怪我人を寝かせておくための小さな部屋があった。
男はその部屋の寝台で、天井をじっと見つめていた。
「気がつきましたか?」
私が声をかけると、男は目だけをこちらへ向けた。
しばらくして、彼は口を開いた。
「……ここは?」
「ラウゼン村です。魔王城の近くの」
「魔王城」
男はその言葉を、初めて聞いた外国語のように繰り返した。
「あなたは森に落ちていたんですよ。すごい音がしたので、みんな驚いていました」
「そうか」
男は自分の手を持ち上げ、指を一本ずつ動かした。
次に、胸を押さえた。
最後に、両目を閉じた。
「……なるほど」
何がなるほどなのか、私には分からなかった。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「エーリヒ」
彼は少し考えてから答えた。
「エーリヒ・ミュラー。いや、エーリヒでいい」
「エーリヒさんですね。私はリーナです」
「リーナ」
男は私の名前を繰り返した。
その声には、妙な重みがあった。
初めて名前を呼んだというより、名前というものがこの世界に存在することを確認しているようだった。
「食事はできますか?」
「食事」
「ええ。お粥を作ってあります。お腹が空いているでしょう?」
「……空腹、か」
彼は自分の腹に手を当てた。
「確かに、必要らしい」
私は思わず笑ってしまった。
「必要らしいって。変な人ですね」
「そうだな」
彼も笑った。
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
私は彼にお粥を食べさせた。最初は匙を持つ手もぎこちなかったが、二口目からは自分で食べられるようになった。
味について尋ねると、彼はしばらく黙った。
「温かい」
「それだけですか?」
「いや。……美味しい」
その言葉を口にした彼は、なぜか少し驚いたように見えた。
まるで、美味しいという感覚を、ずいぶん昔にどこかへ置き忘れてきた人みたいだった。
その日から、エーリヒは私の家で過ごすことになった。
彼には荷物がなかった。財布もなければ、身分を示すものもない。森で何をしていたのか尋ねても、空から落ちてきた理由を聞いても、彼は首を横に振るばかりだった。
嘘をついているようには見えなかった。
ただ、自分自身について話すことがひどく苦手な人なのだと思った。
それでも、彼は不思議な人だった。
村の鍛冶屋が壊れた水車の歯車を持ってくると、エーリヒは一度見ただけで、どこに負担がかかっているのかを指摘した。
「ここを厚くするだけでは駄目だ。荷重が別の場所へ移る。軸の位置を変え、力の流れを考え直す必要がある」
「……お前さん、鍛冶師か何かか?」
「違う」
「なら、建築家か?」
「違う」
「何者なんだ?」
「さあな」
エーリヒは困ったように笑った。
彼は文字を読むことができた。村の子供が持ってきた算数の問題を、驚くほど簡単に解いた。ところが、村で使われている硬貨の名前を覚えるのには三日もかかった。
魔法についても、何も知らないようだった。
魔術師が水を操るところを見せると、彼は感心するより先に、仕組みを知りたがった。
「その力は、どこから来る?」
「魔力からですよ」
「魔力とは、エネルギーの一種か?」
「えねるぎい?」
「いや、忘れてくれ」
そんな調子だった。
彼は何も知らないのに、何かを知っている。
それが私の印象だった。
ある日の夕方、私は彼を村の高台へ連れていった。
そこからは、遠くに魔王城が見える。
黒い岩山の上に築かれた、巨大な城だった。幾重もの城壁が山肌を覆い、塔の先端は雲を突き刺している。周囲には黒い霧が渦巻き、夜になると赤い光が窓のような場所に浮かび上がった。
魔王城は、三百年前から人間の侵入を拒み続けている。
かつて王国は何度も軍を送った。騎士団も、魔術師団も、竜騎兵も。しかし城門を突破した者はおらず、帰ってきた者もほとんどいなかった。
城の周囲には、魔王が作り出したという無数の防御結界がある。大地を揺らす攻撃も、空を覆う魔法も、城壁に届く前に消えてしまうらしい。
人々はあの城を、難攻不落の魔王城と呼んでいた。
「すごいでしょう?」
私が言うと、エーリヒは黙って城を見つめた。
「人間の軍隊では、どうにもならないんです。魔王が何を考えているのかも分かりません。もう誰も攻めようなんて思わなくなりました」
「そうか」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「あの城が」
エーリヒは首を傾げた。
「城は城だろう」
それから彼は、山の形、城壁の厚さ、塔の位置、城へ続く道を順番に眺めた。
まるで、見たものを頭の中で図面に書き起こしているようだった。
「……興味深い」
「何がです?」
「いや」
彼は小さく首を振った。
「いい城だ」
私は驚いた。
「いい城、ですか?」
「ああ。よく考えて造られている。守る側の都合がよくできている」
「でも、誰も入れないんですよ?」
「守るための城なのだから、それは正しい」
エーリヒは、城の最も高い塔を見つめた。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
私はその笑顔を見て、なぜだか胸が冷たくなった。
彼は城を恐れていない。
それどころか、城の造りを見て喜んでいる。
あの城に近づくだけで逃げ出す人間が大半なのに、彼はまるで、長い間探していた仕事をようやく見つけた職人のようだった。
その晩、私は夕食の席で尋ねた。
「エーリヒさんは、魔王城を攻めたいんですか?」
彼は匙を止めた。
「どうしてそう思う?」
「だって、あんなに楽しそうに見ていたから」
「楽しそう、か」
彼は自分の顔に触れた。
「そう見えたのなら、そうなのだろう」
「……魔王は怖いですよ」
「そうだろうな」
「村を襲うかもしれません」
「そうだな」
「それなのに?」
エーリヒは、少しだけ考えた。
「リーナ。君は、鍵のかかった箱を見たことがあるか?」
「ありますけど」
「中に何が入っているか分からない。頑丈な鍵がかかっていて、開けることができない。君ならどうする?」
「持ち主に聞きます」
「正しい」
彼は頷いた。
「だが、持ち主が答えないなら?」
「……諦めます」
「それも正しい」
エーリヒは匙を置いた。
「私は、どうすれば開くのかを考える」
私は何も言えなかった。
その言葉には、悪意も、怒りもなかった。
ただ、疑問があれば答えを探す。それだけのことを言っているようだった。
数日後、魔王城から使者が来た。
黒い鎧を着た魔族の騎士が、村の広場で王国の布告を読み上げたのだ。
魔王は人間の領土を侵略する意思がない。ただし、魔王城へ近づく者は敵と見なし、容赦なく排除する。
いつもの通告だった。
だが、今回の使者は、村に一つの警告を残していった。
「森で奇妙な魔力の揺らぎが観測された。異常な存在を見つけた場合は、速やかに城へ報告せよ」
私は家に戻り、エーリヒにその話をした。
彼は黙って聞いていた。
「あなたのことかもしれません」
「そうかもしれない」
「どうしましょう?」
「どうもしない」
彼は窓の外を見た。
その目は、村の向こうにある森を通り越し、さらに遠くを見ているようだった。
「リーナ。世話になった」
「え?」
「もう少し休んだら、ここを出る」
「どこへ行くんですか?」
「城へ」
私は椅子から立ち上がった。
「駄目です!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「あなたは何も知らないんです。魔王城がどれだけ危険なのかも、魔族がどれだけ強いのかも!」
「そうだな」
「それに、あなたは魔法も使えないじゃないですか!」
「そう見えるだろうな」
「そう見えるじゃなくて、本当に使えないんでしょう!」
エーリヒは困ったように笑った。
「リーナ。君は優しいな」
「今はそんなことを言っている場合じゃありません!」
「分かっている」
彼は静かに答えた。
「だから、君には礼を言っておきたかった」
私は彼の腕をつかんだ。
この人は、何か大きな間違いをしようとしている。
けれど、その間違いを止める方法が分からない。
私は彼を助けた。彼に食事を与え、寝床を用意し、村の人たちにも紹介した。
その彼が、今度は自分から危険へ向かおうとしている。
「……せめて、理由を教えてください」
エーリヒは私の手を見た。
それから、私の顔を見た。
「私は、かつて大きなものを造ったことがある」
「大きなもの?」
「ああ。大きく、重く、複雑で、誰もが無理だと言ったものだ」
彼の声は、ひどく遠いところから聞こえるようだった。
「それを造るために、多くの人間が働いた。設計を考え、材料を集め、部品を加工し、組み立てた。何年もかけてな」
「……それは、何だったんですか?」
「砲だ」
聞き慣れない言葉だった。
「大砲のことですか?」
「そうだ」
エーリヒは頷いた。
「それは、あまりにも大きかった。人間が造ったものの中で、最も大きな砲の一つだった」
私は、彼が何を話しているのか分からなかった。
「それを造ったのに、どうなったんですか?」
エーリヒはしばらく黙っていた。
「……撃つことはできた」
それだけ言って、彼は話を終えた。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
エーリヒがどこから来たのか。
なぜ、あんなにも重かったのか。
どうして、魔王城を見て微笑んだのか。
考えれば考えるほど、分からないことばかりだった。
翌朝、私は寝台を覗いた。
エーリヒはいなかった。
机の上には、私が彼に貸した古い地図と、丁寧に折り畳まれた毛布が残されていた。
そして、地図の端には、見たこともない文字で短い言葉が書かれていた。
私は読めなかった。
ただ、最後に書かれた二つの単語だけは、妙にはっきりと頭に残った。
Schwerer Gustav。
それが何を意味するのか、私にはまだ分からなかった。




