こいつは悪口を言うとき英語で言いやがる(後篇)
学園すれ違い系ラブコメ。
多言語ネタ(名古屋弁、英語、スワヒリ語)。
それからの一週間、俺はスワヒリ語に人生を捧げた。
風呂でも、自転車の上でも、トイレでも、俺は呟き続けた。
「ウェウェ・ニ・ムスンブフ、ラキニ・ニ・ムレンボ。ウェウェ・ニ・ムスンブフ、ラキニ・ニ・ムレンボ」
「お兄ちゃん、何それ」
夕飯の席で、中二の妹が箸を止めた。
「……呪文」
「誰を呪うの」
「ある女」
「ふーん。お母さーん、お兄ちゃんが家で変な呪文唱えてるー」
「やめろ!」
学校でも、休み時間に窓の外へ向かってぶつぶつ唱えていたら、ひなたに見つかった。
「悠斗、何それ。お経?」
「違う。ちょっとした……戦いの準備だ」
「ふうん。……頑張ってね?」
ひなたは首をかしげたが、なぜか少し嬉しそうだった。たぶん面白がっているのだろう。
その間も、紗良のからかいは止まらない。
水曜の体育。バスケの授業で、俺が珍しく三ポイントを決めた。ハイタッチする相手もいないので一人で拳を握っていると、コートの外から紗良の声が飛んできた。
「That was really cool. You looked so cool out there.」
クール。知っている。冷たい、あるいは涼しい、だ。
つまり「汗だくの暑苦しい奴が、涼しい顔して調子に乗るな」という皮肉に違いない。しかも二回言った。しつこい。
「おい、神谷。二回言うな」
「あれ、分かったん? 田島のくせに」
「分からねえよ! でも悪口なのは分かる!」
「そう思うなら、そうなんじゃない?」
にやにや。
紗良は去り際に、俺の頭へタオルをぽんと投げて寄越した。汗を拭けということらしい。いい匂いがした。腹が立つ。
木曜の昼には、また二人が教室の隅で英語の内緒話をしていた。今日は、紗良の声がいつもより小さい。
「Just tell him already.」
「No way. Not yet. I'm not ready.」
「Sara. You literally gave him your shrimp.」
「That's different!」
シュリンプ、は分かった。エビだ。俺はいつの間にかエビ呼ばわりされているのか。エビ以下の存在なのか。
それにしても、紗良の耳が赤い。ひなたは両手で口を覆って笑っている。
赤くなるほど悪口を言い合っているのか、こいつら。どれだけ俺をディスれば気が済むんだ。
だが、今に見ていろ。
金曜、放課後。決戦の日だ。
教室から人がいなくなるのを待って、俺は紗良の席へ向かった。彼女はいつも最後まで残って、窓際で本を読んでいる。今日もいた。
「神谷」
「なに、田島。まだ帰らんの」
紗良は鞄に教科書を詰めながら、顔も上げない。
ここだ。この一週間の努力の結晶を見せるときだ。
俺は深呼吸した。腹式呼吸。舌の位置。母音は大きく。
そして、できる限り堂々と、言った。
「Wewe ni msumbufu, lakini ni mrembo.」
間。
紗良の手が止まった。
顔がゆっくりと上がる。切れ長の目が大きく見開かれ、左右に泳ぎ、また俺に戻ってくる。
「……は?」
「…………」
「え、今の、何語? スペイン語……いや違う、ポルトガル語? アフリカ? え、なに、ちょっと待って、全然分からん」
紗良の目が白黒している。あのクールで通っている神谷紗良の、見たこともない顔だった。
勝った。
俺は心の中で、天に向かって拳を突き上げた。
「悪口だよ」
できるだけ低い声で、俺は言った。
「悪口だと思うなら、そうなんじゃないか?」
いつも彼女に言われている台詞を、そのまま返してやる。
紗良は口を半開きにしたまま固まった。それから、じわじわと、耳から首まで赤くなっていく。
「ちょ、ちょっと待って。それ、ほんとに悪口?」
「さあな」
「意味、教えて」
「お前が教えてくれたら、教える」
「……ずるいがね」
ずるい? それはお前が毎日俺にやっていることだろう。
しかし、おかしい。紗良は怒っているわけでも、悔しがっているわけでもなさそうだ。ただ困ったように唇を噛んで、俯いている。
教室の入り口で、小さな音がした。ひなたが廊下の壁にもたれて、こっちを見ていた。親指を、ぐっと立てている。何の合図だ。
ここで、この物語の読者にだけ種明かしをしておく。
ウェウェは「お前」。ニは「〜だ」。ムスンブフは「面倒な奴、手のかかる奴」。ラキニは「でも」。ムレンボは「かわいい人、美しい人」。
つまり、さっき俺が言ったのは、こういう意味だ。
『お前面倒くさいけど、かわいい奴だな』
……である。
念のために言っておくが、これは意趣返しである。あくまで、紗良がいつも俺をからかうのと同じ温度で、同じことをやり返してやっただけである。「かわいい」の部分だって、アプリが出してきた単語を丸写ししただけで、俺の本心とかそういうものでは断じてない。
ない、はずだ。
ついでに言えば、日本語では口が裂けても言えないことを、外国語なら平気な顔で言えてしまった。……この感じ、どこかで見覚えがある気がしたが、深く考えるのはやめた。
「……分かった」
ようやく顔を上げた紗良は、まだ頬が赤かった。それでも、いつものクールな表情を必死にかき集めるようにして言った。
「意味は聞かん。そのかわり、あたしにも考えがあるでね」
「考え?」
「いつか、あんたの口から、日本語で言わせたるわ。今の」
「は!?」
どういう意味だ。俺が意味を知って喋っていると見抜かれた? いや、そんなはずはない。それとも「悪口を日本語で言ってみろ」という挑戦状か?
紗良は鞄を肩にかけ、それ以上何も言わずに教室の出口へ向かった。
扉のところで、くるりと振り向く。
夕日が、彼女の顔を真っ赤に染めていた。いや、夕日のせいだけじゃない。たぶん。
「Yuto.」
「……なんだよ」
名前を呼ばれたのは、初めてかもしれない。
「You're the worst. The absolute worst. ...In the best way.」
「は? 今、なんて言った?」
「さあ。悪口だと思うなら、そうなんじゃない?」
いつもの、にやにや。
廊下ではひなたが、肩を震わせて笑っていた。
一人取り残された教室で、俺は頭を抱えた。
やっぱりそうだ。
こいつは悪口を言うとき英語で言いやがる。
窓の外で、カラスが「アホー」と鳴いた。
それだけは、日本語でも英語でもスワヒリ語でも、たぶん同じ意味で通じる気がした。
文:Claude氏(Sonnet5.5/Free)。




