こいつは悪口を言うとき英語で言いやがる(前篇)
学園すれ違い系ラブコメ。
多言語ネタ(名古屋弁、英語、スワヒリ語)。
神谷紗良は、性格が悪い。
これは十七年生きてきた俺、田島悠斗が到達した、数少ない確信のひとつである。
見た目だけなら、認めてやらないこともない。背が高く、姿勢がよく、黙っていれば雑誌から出てきたようなクールな顔をしている。三歳でアメリカに渡り、中学三年の春に帰ってきた帰国子女。初めて教室に入ってきた日、クラスの半分がため息をついたのを俺は覚えている。
問題は、口を開いた瞬間に発生する。
「おはよう、田島。あんた、また寝とったでしょ。口、開いとったがね」
月曜の朝、机に突っ伏していた俺の頭の上から、涼しい顔の名古屋弁が降ってきた。
彼女の両親は愛知の人で、アメリカにいた間も、家の中ではずっと名古屋弁だったらしい。その結果、英語と名古屋弁のバイリンガルという、世界でも類を見ない生き物が完成した。ちなみに標準語は「ちょっと喋れる」程度だそうだ。
「寝てねえよ。目を閉じて考え事してただけだ」
「ふうん。それなら、よだれ垂らして考え事しとったんだね。でら熱心だわ」
「垂らしてねえ!」
慌てて口元を拭うと、紗良は無表情のまま、ほんの少しだけ口角を上げた。
これだ。この、獲物を仕留めた猫みたいな顔。
しかもこの女、見た目こそクールなくせに、中身が残念なのだ。ういろうを人類最大の発明だと本気で主張し、エビフライを見ると目の色が変わり、「味噌カツに味噌を足さん奴は信用できん」と先月、クラス全員の前で演説した。クール属性を、名古屋が全力で台無しにしている。
そして何より厄介なのが、次の癖だ。
「You're such a dork, you know that?」
紗良が、俺の寝ぐせを指でつまみながら、小声で言った。
今のは分かる。分かるぞ。
意味は一語も分からないが、あの流れるような発音、あの目つき、あの含み笑い。絶対にボロクソに言っている。
「今、悪口言っただろ」
「さあ。悪口だと思うなら、そうなんじゃない?」
否定しない。しかも、にやにやしている。
英語がまったくできない俺は、こうして毎日、意味も分からないまま英語でディスられているのである。日本語なら「うるせえ」と言い返せる。だが英語には反論の材料がない。卑怯だ。
……と、ここまで書くと、俺がこの女を心底嫌っているように思われそうだが、そうでもない。
根は、いい奴なのだ。それは認めている。
去年の梅雨、傘を忘れた俺に、彼女は黙って自分の折りたたみ傘を押しつけ、「あたしは置き傘あるで、平気だわ」と言って雨の中へ消えた。置き傘なんてなかったことを知ったのは、翌日、彼女が鼻をぐずぐずさせていたからだ。
体育祭では、転んで泣いていた他クラスの小学生を、これまた黙って背負い、救護テントまで運んでいった。
弁当を忘れた日には、「あたし、お腹いっぱいだで」と、エビフライを二本も俺の弁当箱に放り込んできた。エビフライだぞ。あの女がだぞ。
そのときも、彼女は小声で英語を呟いた。
「You're so sweet when you're hungry.」
スイート。さすがに知っている。甘い、だ。
つまり「お前は考えが甘い」という意味に違いない。弁当を忘れる奴は人生設計が甘い、と。ぐうの音も出ない。ぐうの音も出ないが、エビフライはうまかった。
昼休み。
俺が購買のパンをかじっていると、教室の隅で、紗良がもう一人の女子と顔を寄せ合っていた。
小宮ひなた。俺の幼馴染だ。幼稚園から高二まで、なぜか全部同じ学校で、もはや親戚より付き合いが長い。ひなたは英語が「そこそこ」できる。本人いわく「英検準二級、リスニングは気合」だそうだが、最近やたらと紗良と英語で話している。
「He is... how do you say... dense? Very dense.」
「Yeah. Dense as a brick. I've hinted like ten times, you know.」
「Ten times! And he still did not notice?」
「Nope. Zero. He just said 'oh, thanks' and kept eating.」
こっちをちらちら見ながら、二人が肩を震わせて笑っている。
聞き取れたのは「デンス」と「ブリック」。ブリック……ブリキか? 俺はブリキなのか? 意味は分からないが、笑われていることだけは分かる。
ちなみに後で辞書を引いたら、デンスは「濃い」と出ていた。俺はその夜、鏡の前で一時間、自分の顔の濃さと向き合った。
放課後、俺の我慢は限界を迎えた。
「おい、神谷。お前ら、俺の悪口言ってただろ」
「あれ、聞こえとった? 田島、意外と耳いいね」
「やっぱり言ってたのか!」
「悪口だと思うなら、そうなんじゃない?」
まただ。この返し。
紗良は鞄を肩にかけ、にやにやしたまま教室を出ていった。去り際、ひなたが「ごめんね、悠斗」と手を合わせたが、その顔は明らかに笑いをこらえていた。ひなたまで敵か。
一人残された教室で、俺は拳を握った。
やられっぱなしは性に合わない。意趣返しだ。向こうが絶対に理解できない言語で、こっちも何か言い返してやる。
とはいえ、英語は無理だ。そもそも喋れない。それに、紗良はネイティブなのだから、同じ土俵に上がれば瞬殺される。
フランス語はどうだ。ひなたが興味を持っていたから危ない。中国語は、紗良なら意外と知っていそうだ。韓国語は、アイドル好きのクラスの女子に聞かれたら一発で通じる。
その夜、俺はスマホに向かって検索した。
「日本人 絶対 分からない 言語」「通じない 外国語 簡単」
そして行き着いたのが、スワヒリ語だった。
東アフリカで広く話されている言語。日本ではライオンの映画で「ハクナ・マタタ」だけが有名なあの言語。つまり、普通の日本人にとってはほぼ未知だ。しかも発音はローマ字読みに近い。完璧じゃないか。
俺は翻訳アプリを開き、入力した。
『お前面倒くさいけど、かわいい奴だな』
出てきた文を、ノートに書き写す。
Wewe ni msumbufu, lakini ni mrembo.
読みは、ウェウェ・ニ・ムスンブフ、ラキニ・ニ・ムレンボ。
よし。これを完璧に言えるようになる。噛まずに、堂々と、一語の迷いもなく。紗良の鼻を明かす日のために。
俺の戦いは、その夜から始まった。




