Kawaiiは人をおっさんに変える(後篇)
ラブコメ。日常系。
私は今、人生で最大の危機に直面している。
目の前の席に、後輩くんが座っているのだ。
カフェの窓際の二人席。テーブルの上には、私のアイスティーと、彼のアイスコーヒー。氷がからんと鳴った。
それだけのことなのに、私の心臓は、いまにも口から飛び出して床を転がりそうだった。
「ここ、涼しいですね」
「うん、ほんとにね。生き返る」
平静を装って答えながら、私は内心で拳を握りしめていた。
――後輩くんが、前にいる。真正面にいる。逃げ場がない。この距離、この角度、ちょっと鑑賞に最適すぎない?
違う。落ち着け、私。
先に白状しておくと、私の中には「おっさん」が棲んでいる。
二十一歳の女子大生のくせに、可愛いものを見ると、脳内に五十代の、ステテコ姿で団扇をあおぐおじさんが降臨するのだ。そいつは「ええのう」とか「たまらんのう」とか「ありがたやありがたや」とか、延々と独り言を続ける。
どうして、こうなるんだろう。
女の子なのに。若いのに。可愛いものを見るたびに、中身だけが縁側のおじさんになる。この現象を誰かに相談したくても、できるはずがない。相談した瞬間に、私の社会的信用は消え失せるだろう。
そして最悪なのは、この目の前の後輩くんに対して、おじさんが全力で暴れることだった。
「ことりさん、ミルクとか入れます? 僕、取ってきますよ」
彼が椅子から腰を浮かせた。
「あ、ううん、大丈夫。ストレートで飲むから」
「そうですか」
彼は少し残念そうに座り直した。
――今のなに!? 取ってきますよって言った! 自然に! さらっと! しかも座り直すときのちょっとしょんぼりした顔! あれは何? 犬? 仔犬なの? 大型犬の仔犬なの?
私は慌ててアイスティーのストローに口をつけた。そうしないと、にやけた顔が漏れ出てしまいそうだった。
彼の名前は、朝倉湊くん。同じゼミの二年生。
初めて話したのは、四月のゼミ合宿の準備の日だった。重い段ボールを運ぼうとしていた私の横から、無言でひょいと持ち上げて、「こっちでいいですか」と聞いてきた。
その手の大きさと、耳の先が赤かったのを、今でも覚えている。
それ以来、私の目は、気づけば彼を追ってしまうようになった。
背が高いのに、少し猫背で、話すときに人の目をまっすぐ見ようとして、でも照れて少しだけ視線が下がる。笑うと、目が細くなって、くしゃっと崩れる。
その笑い方が、本当に――
「ことりさん?」
「えっ、あ、うん?」
「ぼーっとしてました? 疲れました?」
彼が心配そうに身を乗り出した。
近い。
彼の顔が、テーブル越しに近づいた。睫毛が意外と長い。黒目がちの目が、真剣に私を見ている。
――睫毛……! 男の子なのに睫毛が長い……! しかも真剣な顔! 私のことを本気で心配してくれている顔! あああ、そんな目で見られたら、おじさん、ご先祖様に報告せなあかん――
おじさんが関西弁になった。いけない、動揺が深刻だ。
「だ、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
「それならいいんですけど。今日、暑いし、無理しないでくださいね」
「うん。ありがとう」
彼は安心したように、ふっと笑った。
目尻が下がって、ほんの少しだけ頬が持ち上がる。
その笑顔を、私は網膜に焼きつけた。
一枚の写真みたいに、頭の中に保存した。あとで何度でも見返せるように。
――保存完了。バックアップも取った。クラウドにも上げた。ありがとうございます、ありがとうございます。
もはや何に感謝しているのかわからない。
気持ちを落ち着かせるために、私は窓の外を見ることにした。
ガラスの向こうでは、夏の日射しが吹き抜けの床に白く反射している。行き交う人たちが、みんな楽しそうに歩いていく。
その窓ガラスに、うっすらと彼の姿が映っていることに気づいた。
彼はストローをくわえて、少し俯いている。何かを考えているようだった。
――ストローをくわえる唇……いや待て、見るな。そこを見るな。おじさん、そういうのはいかん。もっと純粋な気持ちで愛でなさい。
私は自分の中のおじさんを叱りつけながら、結局、ガラス越しに彼を見続けていた。
「あの、ことりさん」
「はい」
「今日は、付き合ってくれてありがとうございました。一人だと、どれを買えばいいのかわからなくて」
「ううん、全然。私も楽しかったし」
これは本音だった。
靴を選んでいるときの彼は、真剣そのものだった。「立ち仕事だからクッション性が大事で」と、一つ一つの靴を丁寧に手に取って、ためつすがめつしていた。
その手つきが、あまりにも誠実で、あまりにも丁寧で。
そして、お母さんへのプレゼントの話をするとき、彼の声が、ほんの少しだけ柔らかくなったのを、私は聞き逃さなかった。
――家族を大事にする人……。お母さんの話をするときだけ声が優しくなる男の子……。ずるい。ずるすぎる。そんなの、好きにならないほうがおかしい。
「このあと、母のプレゼントも見たいんですけど、いいですか?」
「もちろん。何にするか、もう決めてる?」
「実は、ハンドクリームにしようかなと。母、水仕事が多いので」
彼は少し照れたように頭をかいた。
――ハンドクリーム! 水仕事の多いお母さんのためにハンドクリーム! 選択が優しい! 優しさの塊! もうこれ、人間国宝に認定するしかないでしょう!
おじさんが勝手に文化庁に連絡を始めた。
「いいと思う。喜ぶよ、きっと」
「そうだといいんですけど」
彼がまた笑った。
その笑顔に、私の心臓がもう一度、盛大に跳ねた。
このままでは、本当にまずい。
私の顔は、いま絶対に赤い。耳まで赤い。氷が溶けてしまうのではないかというほど、頬が熱い。
私は、できるだけ自然に見えるように、アイスティーを一気に飲み干した。
冷たさが喉を通って、少しだけ頭が冷えた。
それでも、目の前に彼がいる限り、鎮まる気配はない。
どうして、こうなってしまうのだろう。
本当は、もっと頼れる先輩でいたかった。落ち着いていて、余裕があって、「この人、素敵だな」と思われるような人になりたかった。
それなのに、私の頭の中では、縁側のおじさんが団扇をあおぎながら「たまらんのう」と呟いている。
これだけは、絶対にバレてはいけない。
私の恋心は、まあ、バレてもいい。いや、よくはないけど、まだ許容範囲だ。
でも、おじさんの存在だけは、絶対に知られてはならない。
そう、心に誓ったときだった。
「あの、ことりさん」
「ん?」
「今日、すごく楽しかったです。正直、緊張してて。ことりさんと二人で出かけるの、初めてだったので」
彼は、ストローの紙袋を指先でくるくると丸めながら、少し俯いて言った。
耳が、赤かった。
――――――――。
私の脳内で、おじさんが完全に昇天した。
団扇が地面に落ちた。
緊張してた。この人も、緊張してた。私と同じように。
私は、自分でも驚くくらい静かな声で、答えていた。
「私も」
「え」
「私も、緊張してた。朝から、何着ていこうか、ずっと迷ってた」
言ってしまった。
彼が、顔を上げた。
目が合った。
お互いに、同時に、息を止めたのがわかった。
数秒の沈黙のあと、彼がふっと、困ったように笑った。
「……僕、三十分前に着いてました」
「えっ」
「待ち合わせの。早く着きすぎて、案内板の前で、ずっとスマホ見てました」
――――。
私は、思わず口元を手で覆った。
笑いがこみあげてきた。嬉しさと、おかしさと、愛おしさがごちゃ混ぜになって、止まらなかった。
「ふふっ、そうなんだ。実は私も、二十分前に着いてて、でも案内板の前に後輩くんが立ってるのが見えたから、ちょっと柱の陰で心の準備してた」
「えええ!?」
「だから、走ってきたのは嘘。ごめんね。髪、整えてたの」
彼は目を丸くして、それから、堪えきれないように吹き出した。
二人で、顔を見合わせて笑った。
周りの客が何人かこちらを見たけれど、気にならなかった。
笑いながら、私は思った。
この人の前では、おじさんも、まあ、悪くないのかもしれない。
でも、やっぱりおじさんのことは、内緒にしておこう。
そう決めて、私は、空になったグラスの氷をからんと鳴らした。
「じゃあ、ハンドクリーム、見に行こっか」
「はい。お願いします」
席を立つ彼の背中を、私は少し後ろから見つめた。
広い背中。少し丸まった猫背。歩くたびに揺れる、シャツの裾。
――ありがとうございます。今日もいいものを見せていただきました。
縁側のおじさんが、静かに手を合わせた。
私は、小さく笑って、彼の隣に並んだ。
文:Claude氏(Free)。




