Kawaiiは人をおっさんに変える(前篇)
ラブコメ。日常系。
土曜の午後二時、駅直結のショッピングモールは、家族連れと学生とで、噴水広場のあたりまで人があふれていた。
僕は吹き抜けの案内板の前に立って、手の中のスマートフォンを意味もなく眺めていた。画面には何も映っていない。待ち合わせの相手を待つ人間が、手持ち無沙汰をごまかすための動作にすぎなかった。
「ごめん、おまたせ!」
声がして顔を上げた瞬間、僕の脳は一度完全に停止した。
小走りで駆けてくる彼女の、肩までの髪がふわりと遅れてついてくる。白いブラウスに、淡いグリーンのカーディガン。耳元で小さな金色のピアスが揺れた。
同じゼミの先輩、水瀬ことりさん。僕より一つ上の三年生で、今日は「後輩くんの買い物に付き合ってあげる」という名目で、ここにいる。
「いえ、僕も今来たところです」
嘘だった。三十分前から来ていた。
「そっか、よかった。電車が一本遅れちゃって。走ったから髪ぐしゃぐしゃになってない?」
彼女は前髪を指先でちょいちょいと直した。
その指先の動きを見た瞬間、僕の内側で何かが叫んだ。
――ぐしゃぐしゃになってない? なってるわけがないでしょう。むしろ少し乱れた前髪が、その、なんというか、天地創造の瞬間のような奇跡の産物であって――
待て。落ち着け、僕。
「大丈夫です。全然、ぜんぜん乱れてないです」
「ほんと? よかったあ」
彼女がほっとしたように笑う。目尻がきゅっと下がって、頬にえくぼが一つだけ浮かんだ。
――片えくぼ! 片えくぼですよ! 左だけ! この世に左だけの片えくぼを実装した神は、その設計意図を我々に説明する義務があるのでは!?
僕は表情筋を総動員して、穏やかな後輩の顔を維持した。
ここで正直に白状しておくと、僕は自分の中に「おっさん」が棲んでいることを自覚している。
二十歳の男子大学生であるにもかかわらず、可愛いものを前にすると、頭の中に四十代半ばの、ネルシャツをズボンにインした、眼鏡の曇りやすい男が出現する。そいつは「ふおお」とか「尊い」とか「もう拝むしかない」とかを、延々と脳内でつぶやき続けるのだ。
どうして、こうなるのだろう。
若いのに。まだ二十歳なのに。可愛いものを見た途端、魂だけが勝手に中年のヲタクに変換される。この現象に名前をつけるなら、「Kawaii由来の急性おっさん化」とでも呼ぶしかない。
そして最悪なのは、目の前のこの人に対して、それが最大出力で発動することだった。
「じゃあ行こっか。まず何見るんだっけ?」
「ええと、バイト用のスニーカーと、あと、母の誕生日プレゼントを」
「いいね。お母さん思いだ」
彼女はそう言って、ごく自然に僕の隣に並んで歩き出した。
並んで歩く、という行為がいかに過酷か、世の中の人はもっと知るべきだと思う。
視界の端に、常に彼女がいる。歩くたびに揺れるカーディガンの裾。ときどき触れそうになる肩。かすかに漂う、石鹸みたいな清潔な香り。
――いい匂い……いや待て、嗅ぐな。気取られたら終わる。社会的に終わる。おっさんが後輩の皮を被って隣を歩いていることがバレたら終わる。
僕は呼吸の深さを必死に調整した。
最初に入ったのはスポーツ用品店だった。壁一面にスニーカーが並んでいる。
「どういうのがいいの? 立ち仕事だっけ」
「はい、居酒屋のホールなので。長時間立ってても疲れにくいやつがいいなと」
「じゃあ、クッション性重視だね。あ、これは?」
彼女は棚から一足を取り出して、ひっくり返し、靴底を指でぐっと押した。
真剣な顔だった。
眉間に小さな皺を寄せて、唇を軽く結んで、スニーカーの底を押し込んでいる。
――真剣な横顔……! 靴底を押す指が細い……! しかも爪が丸く整えられていて、薄いピンク色で、なんだこれは、爪まで可愛いのか、この人は爪の先まで責任を持って可愛いのか――
危うく声が漏れそうになり、僕は咳払いでごまかした。
「どうしたの? 風邪?」
「いえ、ちょっと喉が」
「無理してない? 今日、暑いもんね。あとで飲み物買おうか」
彼女は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
近い。
近すぎる。
睫毛が長い。瞳の色が、真っ黒ではなく少しだけ茶色がかっている。その瞳の中に、情けない顔をした僕が小さく映り込んでいた。
――目が、目が合っている。いや、目が合っているというか、僕が彼女の瞳孔の中に住んでいる。住民票を移したい。
おっさんが暴走している。
僕は一歩下がって、できるだけ爽やかに笑った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「ならいいけど。無理しないでね」
そう言って、彼女は靴を棚に戻し、次の一足を手に取った。
ここで僕は、この人の優しさについて語らなければならない。
彼女の魅力は外見だけではない。むしろ、本当に厄介なのは中身のほうだ。
ゼミの発表で僕が緊張して固まっていたとき、彼女は質問のふりをして、僕が言いたかったことを引き出してくれた。誰にも気づかれないくらい、さりげなく。
先月、僕が風邪で休んだときは、ノートのコピーが翌日の朝にはもう郵便受けに入っていた。メモには丸っこい字で「無理しないでね」とだけ書かれていた。
そういう人なのだ。
見返りを求めない。恩着せがましくもない。ただ自然に、当たり前みたいに、相手のことを考えている。
それに気づいた日から、僕はもう駄目だった。
「あ、これ、よさそう」
彼女が一足を掲げた。白地に紺のラインが入った、シンプルなスニーカーだ。
「履いてみて。サイズ、二十七だよね?」
「え、なんで知ってるんですか」
「前に靴脱ぐ場面があったとき、なんとなく見たから。違った?」
――覚えてる! 僕の靴のサイズを覚えてる! なんとなく見たからって、なんとなく見ただけで覚えてるんですか!? ありがとうございます! 一生大切にします!
何を大切にするのかは、自分でもわからなかった。
「合ってます。二十七です」
「やっぱり。はい、どうぞ」
彼女は靴を差し出して、試着用の椅子を指さした。
僕は腰かけて、靴を履き替えた。ひもを結ぶ間、彼女は少し離れたところに立って、こちらを見守っている。
「どう?」
「いい感じです。クッションがちょうどいいです」
「ほんと? ちょっと歩いてみて」
言われるままに、店の通路を数歩歩いて戻った。
彼女はうんうんと頷いて、それから、ふっと笑った。
「似合うね、それ」
――…………。
脳内のおっさんが、膝から崩れ落ちた。
似合うね。
似合うね、と言われた。この人に。この笑顔で。
僕の人生において、これ以上の褒め言葉が今後存在するだろうか。いや、ない。ここが頂点だ。あとは下り坂だ。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、これにします」
「即決だね」
「はい。ことりさんが選んでくれたので」
言ってから、しまったと思った。
名前を呼んでしまった。普段は「水瀬さん」と呼んでいるのに、頭の中でずっと「ことりさん」と呼んでいたせいで、うっかり口から出た。
彼女の動きが、一瞬だけ止まった。
「……あ、すみません、水瀬さん」
「ううん、いいよ。ことりで」
彼女は少し視線を逸らして、髪を耳にかけた。
耳が赤かった。
――耳が! 赤い! これは暑さのせいなのか、それとも! いや、期待するな、期待は禁物だ、おっさんの勘違いほど痛々しいものはない――
僕は自分にそう言い聞かせながら、会計に向かった。
レジで財布を出す間も、彼女が隣に立っているだけで、手元が妙に震えた。
店を出ると、彼女は通路の手すりにもたれて、小さく息をついた。
「ちょっと喉渇かない? あそこのカフェ、行こっか」
「はい、行きましょう」
並んで歩きながら、僕は心の底から思った。
どうして、こうなってしまうのだろう。
本当は、もっとまともな後輩でいたい。気の利いた話をして、自然に笑わせて、頼れる男だと思われたい。
それなのに、頭の中では眼鏡を曇らせた中年男性が「ふおお」と唸っている。
これだけは、絶対にバレてはいけない。
墓場まで持っていく。いや、墓場に着く前に、まず彼女の隣に立っていられる時間を一秒でも長く確保する。それが僕の使命だ。
カフェの扉が見えてきた。
彼女が先に入って、扉を押さえてくれた。
「どうぞ」
――扉を押さえてくれるのか。僕が。後輩の僕が、先輩に。
その小さな気遣いに、また一つ、僕は救いようのないほど落ちていった。
そして彼女は、何も知らない顔で、ふわりと笑った。




