左手は踊り狂う(後篇)
ピアノもの。中学生友情もの。
チェルニー40番練習曲第34番が題材。
それからの短くて長い一週間、私と理沙はそれぞれの方法で「チェルニー三十四番」という高い壁に立ち向かった。
学校の休み時間、理沙はいつも机の上に鍵盤の紙を広げ、指を猛烈な速度で動かしていた。
「見てよ葵、指の第一関節を立てて、打鍵の瞬間にだけ力を入れるの。これで少しずつ、三指と四指の独立ができてきた気がする」
理沙の指先には、うっすらと赤みが差し、努力の痕跡が刻まれていた。彼女はピアノ教室の先生から教わった伝統的な練習法を愚直に守り抜いていた。メトロノームのテンポを「六十」からスタートし、目盛りを一つずつ刻むように上げていく。途中で一度でもつづたら、また最初のテンポに戻る。
まさに、血の滲むような鍛錬だった。
「葵はどう? 進んでる?」
理沙に聞かれ、私は苦笑いしながら答えた。
「うーん……私はね、ピアノを弾く時間よりも、手を見てる時間の方が多いかも」
「は? 何それ。楽譜も見ないで何してんのよ」
「左手と会話してるの」
「変な葵」
理沙は呆れたように笑ったが、その瞳にはどこか焦りの色もあった。彼女は私がときおり見せる、理論を超えた「何か」を恐れているようでもあった。
実際、私の自宅での練習は奇妙なものだった。
私はメトロノームを使わなかった。楽譜通りのテンポで弾くことも、最初は諦めた。
まず行ったのは、左手の脱力だった。
腕の重みをそっくりそのまま鍵盤に預け、指先だけを柔らかいゴムのようにしなわせる。三連符の波を「個々の音の集合」として捉えるのではなく、ひとつの流体、あるいは「のたうつ生き物」として捉えようとした。
音をひとつずつ正確に叩くのではない。左手全体を鍵盤の上で「躍らせる」のだ。
関節の力を抜き、手首を柔軟に回転させる。回転の遠心力を利用して、指を鍵盤に落としていく。親指が指のくぐり抜けをするとき、手首をわずかに外側に開くことで、摩擦をゼロにする。
(そう、力を入れちゃダメ。流れるように……波のように……)
夜、自分の部屋でピアノに向かう。暗闇の中で、グランドピアノの鍵盤が白く浮かび上がっていた。
ゆっくりと、左手を鍵盤に降ろす。
タタタ、タタタ、タタタ、タタタ。
左手が、滑らかに動き始めた。かつては固まっていた薬指と小指が、手首のアシストを受けて軽やかに跳ねる。音粒が揃い、低音から高音へと向かう三連符が、まるで夜の海で跳ねる魚のように躍動し始めた。
それは、私の意思で指を動かしているというより、左手という独立した生き物が、自らの喜びのために鍵盤の上で舞い踊っているような感覚だった。
左手は踊り狂う。
音の波がうねりを上げ、部屋の空気を震わせる。
右手で重厚な和音を響かせると、左手の三連符はその下を縦横無尽に駆け巡り、全体を巨大な音楽の渦へと巻き込んでいった。
「できた……」
最後の和音を叩きつけ、音が残響となって消えていく中で、私は自分の左手を愛おしく見つめた。そこには何の緊張もなく、心地よい温もりだけが残っていた。
そして、運命の土曜日がやってきた。
部活が休みの日、私は約束通り理沙の家を訪れた。
理沙の居間に入ると、独特の緊張感が漂っていた。ピアノの譜面台には、使い込まれて端が丸まったチェルニーの楽譜が開かれている。
「葵、私……今日、先生のところでレッスンを受けてきたの」
理沙がピアノの椅子に座ったまま、振り向かずに言った。その声は少し震えていた。
「どうだったの?」
「合格……もらったわ。テンポも指定通り、音粒も揃ってるって褒められた。でもね……」
理沙は立ち上がり、私に向き合った。
「先生に言われたの。『理沙ちゃんの演奏はすごく正確で真面目だけど、少し硬いね。左手が一生懸命仕事をしているのは伝わるけれど、音楽として楽しそうに跳ねていない』って」
理沙は悔しそうに唇を噛みしめた。
「私、今週、一日二時間以上この曲を弾いたのよ。指が痛くなっても、メトロノームに合わせて、何度も何度も……。それなのに、やっぱり私は不器用だから、合格はもらえても『音楽』にはなれないのかなって」
私は理沙の前に歩み寄り、彼女の両手を優しく包み込んだ。理沙の手は冷たく、指先は固くなっていた。
「理沙、そんなことないよ。理沙の努力は本当にすごいよ。私には絶対に真似できない。正確に音を刻めるっていうのは、理沙が積み重ねてきた圧倒的な基礎があるからなんだよ」
「葵……」
「でもね、この三十四番は、左手を『正確な機械』にするための曲じゃないと思うの。暴れ回る左手に、自由を与えてあげる曲なんだよ」
「自由……?」
「私のも聞いてみて」
私は理沙に代わって、アップライトピアノの前に座った。グランドピアノとは違う、少し軽い鍵盤の感触。
息を深く吸い込み、吐き出す。
全身の力を抜き、肩を落とし、左手を鍵盤の上にふわっと浮かせる。
そして、弾き始めた。
四分の二拍子。右手のアレグロの和音が響くと同時に、私の左手が暴れ出した。
タタタタタタタタタタタタ——!
それは理沙が練習していたような、規則正しく刻まれるメトロノームの音ではなかった。まるで旋風だった。左手の手首が柔軟に回転し、五本の指が鍵盤の上で縦横無尽に躍動する。
音が走る。音が跳ねる。音粒が光の粒となって、理沙の家の居間に弾け飛ぶ。
音の強弱は、指の力ではなく、腕の重みと手首のスピード変化で生み出される。クレッシェンドに向かって左手が音の波を極限まで増幅させ、絶頂に達した瞬間、右手の強烈な和音と合致する。
左手は、狂ったように鍵盤を駆け抜けながらも、完璧な旋律を描いていた。
最後の三連符が下降し、主音のドの音で力強く結ばれる。
曲が終わった。
室内には、ただ私の短い息遣いと、鍵盤の残響だけが残されていた。
理沙は、口を半開きのまま、固まっていた。目を見開き、私と、私の左手を交互に見つめている。
「……何よ、それ」
ぽつりと、理沙が呟いた。
「何なのよ、それ……! 嘘でしょう!?」
理沙は私の隣に駆け寄り、私の左手をひっつかんだ。
「なんで!? なんでそんな風に指が動くの!? 手首が……手首がまるで生き物みたいに回ってた! 指を叩いてないのに、なんであんなに綺麗な音が出るの!?」
「力抜き方だよ」
私は微笑みながら言った。
「理沙は、左手を自分の指の力だけでコントロールしようとしすぎてたの。指の力じゃなくて、手首と腕の回転を使うんだよ。左手を縛りつけるんじゃなくて、好き勝手に踊らせてあげるの。この曲の左手は、伴奏じゃない。主役なんだよ」
「主役……」
理沙は自分の左手を見つめた。
「私は……左手が言うことをきかないから、無理やり押さえつけようとしてた。動け、正しく弾けって、命令ばっかりして……」
「理沙の左手は、もう十分基礎ができてる。指の独立はできてるんだから。あとは、その鎖を外してあげるだけでいいんだよ」
理沙はゆっくりと鍵盤の前に座り直した。
一度目を閉じ、大きく息を吐き出す。ブレザーの袖を少しめくり、肩の力を抜く。
そして、私が教えたように、手首を柔らかく回しながら、そっと左手を滑らせた。
タタタ、タタタ。
最初の音は少しおずおずとしていた。だが、理沙が力みを捨て、手首の回転に身を委ね始めると、音粒が変わった。
角が取れ、まろやかになり、そして軽やかに跳ね始めた。
タタタタタタタタタタタタ!
理沙の左手が、鍵盤の上で滑らかに走り出す。彼女が今週一週間で培った確かな指の独立性と、脱力による柔軟性が融合した瞬間だった。
理沙の顔に、みるみるうちに輝くような笑顔が広がっていった。
「走れる……! 葵、左手が走ってる! 全然痛くない、すごく軽い!」
「そう! そのまま、右手の和音に乗せて!」
理沙は右手で力強く和音を叩きつけた。
二人の音が重なり合う。
理沙の左手は、彼女の真面目な性格を反映した、重厚でいてなおかつ軽快な、素晴らしいリズムを刻み始めた。それは私の感性任せの演奏とは違う、力強くも美しい、理沙だけの「三十四番」だった。
最後まで弾ききった理沙は、鍵盤の上に両手を置いたまま、天を仰いだ。
「すごい……! 私、今、本当にピアノを弾いてる感じがした!」
「すごくよかったよ、理沙! 私よりずっと綺麗な音だった!」
私が言うと、理沙は椅子から飛び起き、私に抱きついてきた。
「ありがとう、葵! やっぱり葵はすごいや。私、悔しいけど、葵のそういうところが大好きなの!」
「私もだよ、理沙」
二人で顔を見合わせて笑い転げた。
外はすっかり暗くなり、街灯の光が窓から差し込んでいた。
「ねえ、葵」
理沙がピアノの前に座り直し、弾けるような笑顔で私を見た。
「次は連弾しない? 二人で左手を踊り狂わせようよ!」
「いいね、やろう!」
私たちは一台のピアノに並んで座り、鍵盤の上にそれぞれの手を置いた。
夜の静寂を切り裂くように、二人の左手が、どこまでも自由に、どこまでも楽しそうに、鍵盤の上で躍り始めた。
文:Gemini氏(3.6 Flash)。




