左手は踊り狂う(前篇)
ピアノもの。中学生友情もの。
チェルニー40番練習曲第34番が題材。
吹奏楽部の練習を終えて校門をくぐると、西の空が朱色から薄紫色へと変わり始めていた。秋の風は少し冷たく、ブレザーの袖口から入り込む空気が肌を撫でる。
並んで歩く私の隣で、理沙がカバンを肩にかけ直した。その顔には明らかな焦燥と、隠しきれない苛立ちが浮かんでいた。
「明日さ、ついにチェルニーの四十番、三十四番に入るのよ」
「……あ、あの左手のやつ?」
私が尋ねると、理沙は深々とため息をついた。
「そうよ! あの三連符の嵐! 楽譜を見ただけで目眩がするわ。なんであんな不自然な指の動きをさせられないといけないの? 先生ったら『これが弾けないとソナタに入れない』なんて言うし……」
私の名前は相沢葵。地方都市の閑静な住宅街に住む中学二年生だ。父は勤務医、母は自宅で小さな華道教室を開いている。リビングには幼い頃に買い与えられた黒いグランドピアノがあり、私は気が向いたときに好きな曲を弾いて楽しんでいた。
隣を歩く日野理沙は、中学で出会った大切な友人だ。理沙の家はごく一般的な家庭だが、彼女は小学生のときから近所の有名なピアノ教室に熱心に通っている。真面目で努力家で、何事にも全力で取り組む性格だ。
「葵はもう、あそこ過ぎたんでしょ?」
理沙が上目遣いに私を見てきた。その瞳には、親愛とほんの少しの対抗心が混ざり合っている。
「ううん、私、チェルニーなんてまともにやってないよ。家でたまに弾くだけだし」
「またそうやって謙遜する。この前だって、私が三ヶ月かけて仕上げたドビュッシーの『アラベスク』を、葵は耳コピで初見みたいにさらっと弾いちゃったじゃない」
「あれはただ、メロディが頭に残ってたからで……」
「それがムカつくのよ!」
理沙はプイと横を向いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「でも、今回の三十四番だけは絶対に葵に負けたくないの。葵が楽譜を持ってないなら、明日うちに来て一緒に楽譜見ない? というか、葵も弾いてみてよ。どうせ苦戦するんだから」
「いいよ。じゃあ明日、理沙の家にお邪魔するね」
理沙は私を勝手に「ライバル」と定めているらしかった。けれど、そこに嫌悪感や泥臭い嫉妬はなく、お互いを高め合うような爽やかさがあった。放課後におしゃべりをしながら一緒に帰るこの時間が、私は大好きだった。
翌日の放課後、私は理沙の自宅を訪れた。閑静な住宅街にある二階建ての一軒家で、一階の居間にはアップライトピアノが置かれている。
「これが、問題の三十四番」
理沙が譜面台に広げたのは、全音全集の黄色い楽譜だった。
チェルニー四十番練習曲、第三十四番。
楽譜を開いた瞬間、私は思わず目を見開いた。
右手は全音符や八分音符でゆったりとした和音を保っているのに対し、左手の五線譜には十六分音符の三連符が隙間なく埋め尽くされていた。しかも、トレモロや複雑な指の交差、跳躍が絶え間なく続いている。
「左手が……うじゃうじゃ動いてるね」
「でしょう? 左手を独立させて、滑らかに、しかも高速で動かさなきゃいけないの。先生にお本を見せられたとき、絶望したわ」
理沙は意を決したようにピアノの前に座り、鍵盤に手を置いた。
カチ、カチ、カチとメトロノームの音が鳴り響く。テンポはかなり落としてある。
理沙が弾き始めた。
右手はしっかりとした音で和音を奏でる。しかし、左手が三連符に入った途端、音粒が不揃いになった。薬指と小指の動きが追いつかず、音が途切れたり、不自然に強くなったりする。
「ああっ、もう! 薬指が動かない!」
理沙は鍵盤に突っ伏した。
「左手の三指と四指、あと五指が全然独立してくれないの。指がもつれて、まるで鍵盤の上で転んでいるみたい。葵、ちょっと弾いてみてよ!」
「えっ、私が? 初見だし、絶対に弾けないよ」
「いいから! 天才肌の葵がどう躓くか見たいの!」
押しの強い理沙に促され、私は鍵盤の前に座った。
鍵盤の感触を確かめ、楽譜を凝視する。ハ長調、四分の二拍子。左手は低音域から中音域にかけて、波打つような三連符を刻み続ける。
「じゃあ、弾いてみるね……」
指を鍵盤に落とした。
最初の二小節は何とか進んだ。しかし、音程が上下し、指の潜り抜けと越えが発生した瞬間、私の左手は完全にフリーズした。
頭では「三指をくぐらせて一指でドを弾く」と理解しているのに、左手が言うことをきかない。意図しない指が落ち、鍵盤が濁った音を立てた。
「ほら! 葵だって弾けないじゃない!」
理沙がどこか嬉しそうに叫んだ。
「これ、本当に人間が弾く曲? 左手が勝手に暴れて、明後日の方向に行っちゃうよ」
私は自分の左手をじっと見つめた。普段、私の右手はメロディを自在に奏でてくれるが、左手はただの伴奏、ただの「重し」としてしか機能していなかったのだ。この三十四番は、左手という「従者」に対して、右手以上の技巧と俊敏さを要求してくる。
「左手が……まるで意思を持った怪物みたい」
私がぽつりと言うと、理沙は爆笑した。
「怪物! いい表現ね! そうよ、この三十四番は左手の怪物を手懐ける練習なのよ」
理沙は立ち上がり、拳を握りしめた。
「私、絶対にこの曲を完璧に弾いてみせる。来週のレッスンまでに、絶対に怪物を従えてやるんだから。葵も家で練習しなよ!」
「うん……私なりに、ちょっとやってみる」
その日、理沙の家からの帰り道、私の頭の中にはずっと、楽譜を埋め尽くす三連符の黒い群れがこびりついていた。
自宅に帰り、リビングのグランドピアノの前に座った。
理沙から借りたコピーの楽譜を譜面台に立てる。黒塗りの屋根に、部屋の明かりが反射している。
もう一度、ゆっくりと左手だけで弾いてみた。
タタタ、タタタ、タタタ、タタタ。
規則正しいリズムで弾こうとすればするほど、左手の筋肉が緊張でガチガチに固まっていく。親指に力が入りすぎ、小指は浮き上がり、薬指は鍵盤を押し切れない。
力任せに押さえつけようとすると、手が痛くなった。
「ダメだ……強く叩こうとすればするほど、滑らかさから遠ざかる」
鍵盤から手を離すと、左手の甲が痺れるように痛んだ。
理沙なら、きっと毎日何時間もメトロノームを鳴らし、ハノンを繰り返し、愚直に練習を重ねるのだろう。彼女の努力の才能は本物だ。
だが、私にはそのやり方は合っていない気がした。力で抑え込もうとすれば、私の左手は拒絶反応を起こして固まってしまう。
ピアノの蓋をそっと閉じ、私は自分の左手をじっと見つめた。
右手と比べて少し不器用で、普段は陰に隠れている手。
(この手を、無理やり従わせようとするからいけないんじゃないのかな)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
従わせるのではなく、放ち、狂わせる。
左手が自由に、自分のリズムで暴れまわれるような「感覚」を見つけなければならないのではないか。
窓の外では、夜の風が音を立てて吹き抜けていた。私たちの「三十四番」を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。




